九州の神社

宮崎県・鵜戸神宮(日南市)

御祭神

御祭神ごさいじん 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと
相殿神あいどのがみ正殿しょうでん神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみこと神武天皇じんむてんのう) / [左殿さでん大日孁貴おおひるめのむち天照大御神あまてらすおおみかみ)、天忍穂耳尊あめのおしほみみのみこと / [右殿うでん彦火瓊々杵尊ひこほのににぎのみこと彦火々出見尊ひこほほでみのみこと

由緒

鵜戸うどさん」と愛称される鵜戸神宮うどじんぐうは、主祭神しゅさいじんである日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうかやふきあえずのみことがご誕生した産屋うぶやと伝えられる鵜戸岬うどみさき岩屋いわや・洞窟(東西約38m、南北約29m、高さ約8.5m)に、崇神天皇すじんてんのう御代みよ(前97-前30)に六柱ろくはしら大御神おおみかみを祀り創建そうけんされたと伝えられる古社こしゃです。地元からは「鵜戸うどさん」と親しまれ、全国から崇敬すうけいを受ける天下絶勝の神域しんいきで、安産、育児を願う人々の信仰の拠り所である「おちちいわ」をはじめ、足利時代に遡る剣法けんぽうの「念流ねんりゅう」・「陰流かげりゅう」の剣法けんぽう発祥の地として、そして漁業、航海の守護神しゅごしんとしても厚く信仰されています。

御祭神ごさいじんは、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと。その由緒は山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)と海幸彦うみさちひこ火闌降命ほすそりのみこと)の神話に遡ります。日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうかやふきあえずのみことの父神である山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)は、兄の海幸彦うみさちひこ火闌降命ほすそりのみこと)から釣り針を借り、海で釣りをしますが、一魚だに釣れずに釣り針をなくしてしまいます。山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)は塩土老翁しおつちのおじの教えで海宮わたつみのみや龍宮りゅうぐう綿津見神宮わたつみのかみのみや)に赴くと、迎えた綿津見神わたつみのかみの娘の豊玉姫命とよたまひめのみことと深い契りを結ばれました。3年の後、山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)は、見つけ出された釣り針と潮満珠しおみつたま潮干珠しおひるたまを携えて故郷に帰られます。

その時に、豊玉姫命とよたまひめのみことは既に身重みおもであり、風波の荒い日に海辺に行って出産すると言います。そのために産屋うぶやを造って待つよう伝えます。山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)は、鸕鷀の羽をいて産屋うぶやを造りますが、大亀に乗った豊玉姫命とよたまひめのみことが、妹の玉依姫たまよりひめを連れ、海を光らして鵜戸うどの地に参ります。そして、屋根をき終わらないうちに御子みこを御出産になりました。そのことから、御名みな日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうかやふきあえずのみことと申し上げたとされています。しかし、豊玉姫命とよたまひめのみことが、出産の間、産屋うぶやを絶対にのぞかないようにと強く請われたのにも関わらず、山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)は、その様子をのぞいてしまいます。豊玉姫命とよたまひめのみことは、八尋大鰐やひろのおおわに、非常に大きなわにりゅう)の姿と化していました。その姿を見られた豊玉姫命とよたまひめのみことは深くこれを恥じ、御子みこを海辺に棄て、海神国わたつみのくにに帰られます。代わりに玉依姫たまよりひめを遺して御子みこを養わせました。

海へと去った豊玉姫命とよたまひめのみことを悲しみ、山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)は「おきとり かもしま率寝いねいもわすらじ ことごとも」と歌を残します。別伝べつでんでは、乳母などがつけられ、愛育された御子みこ端正たんせいに育っていると聞き及んだ豊玉姫命とよたまひめのみことが後日、玉依姫たまよりひめを地上に赴かせたともされ、その際に「赤玉あかたまひかりはありと ひとへど きみよそいし とうとくありけり」と歌を託したとも伝えられています。この二首ふたうたは、挙歌あげうたと呼ばれています。

『日本書紀』神代下 第十段(本文)

及將歸去、豊玉姫謂天孫曰、妾已娠矣。當産不久。妾必以風濤急峻之日、出到海濱。請爲我作産室相待矣。…(略)…。後豊玉姫、果如前期、將其女弟玉依姫、直冒風波、來到海邊。逮臨産時、請曰、妾産時、幸勿以看之。天孫猶不能忍、竊往覘之。豊玉姫方産化爲龍。而甚慙之曰、如有不辱我者、則使海陸相通、永無隔絶。今既辱之。將何以結親昵之情乎、乃以草裹兒、棄之海邊、閉海途而俓去矣。故因以名兒、曰彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。後久之、彦火火出見尊崩。葬日向高屋山上陵。


将に帰去りまさむとするに及りて、豊玉姫、天孫に謂りて曰さく、「妾已に娠めり。当産久にあらじ。妾、必ず風濤急峻からむ日を以て、海浜に出で到らむ。請はくは、我が為に産室を作りて相待たまへ」とまうす。…(略)…。後に豊玉姫、果して前の期の如く、其の女弟玉依姫を将ゐて、直に風波を冒して、海辺に来到る。臨産む時に逮びて、請ひて曰さく、「妾産まむ時に、幸はくはな看ましそ」とまうす。天孫猶忍ぶるみと能はずして、窃に往きて覘ひたまふ。豊玉姫、方に産むときに竜に化為りぬ。而して甚だ慚ぢて曰はく、「如し我を辱しめざること有りせば、海陸相通はしめて、永く隔絶つこと無からまし。今既に辱みつ。将に何を以てか親昵しき情を結ばむ」といひて、乃ち草を以て児を裹みて、海辺に棄てて、海途を閉ぢて俓に去ぬ。故、因りて児を名けまつりて、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と曰す。後に久しくして、彦火火出見尊崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる。

『日本書紀』神代下 第十段(一書第一)

一書曰、…(略)…。先是且別時、豊玉姫從容語曰、妾已有身矣。當以風濤壯日、出到海邊。請爲我造産屋以待之。是後、豊玉姫果如其言來至。謂火火出見尊曰、妾今夜當産。請勿臨之。火火出見尊不聽、猶以櫛燃火視之。時豊玉姫、化爲八尋大熊鰐、匍匐逶虵。遂以見辱爲恨、則俓歸海鄕。留其女弟玉依姫、持養兒焉。所以兒名稱彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊者、以彼海濱産屋、全用鸕鷀羽爲草葺之、而甍未合時、兒卽生焉故、因以名焉。上國、此云羽播豆矩儞。


一書に曰はく、…(略)…。是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容に語りて曰さく、「妾已に有身めり。風濤壮からむ日を以て、海辺ら出で到らむ。請ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまうす。是の後に、豊玉姫、果して其の言の如く来至る。火火出見尊に謂して曰さく、「妾、今夜産まむとす。請ふ、な臨ましそ」とまうす。火火出見尊、聴しめさずして、猶櫛を以て火を燃して視す。時に豊玉姫、八尋の大熊鰐に化為りて、匍匐ひ逶虵ふ。遂に辱められたるを以て恨しとして、則ち俓に海郷に帰る。其の女弟玉依姫を留めて、児を持養さしむ。児の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と称す所以は、彼の海浜の産屋に、全く鸕鷀の羽を用て草にして葺けるに、甍合へぬ時に、児即ち生れませるを以ての故に、因りて名けたてまつる。上国、此をば羽播豆矩儞と云ふ。

『日本書紀』神代下 第十段(一書第三)

一書曰、…(略)…。先是、豊玉姫謂天孫曰、妾已有娠也。天孫之胤、豈可産於海中乎。故當産時、必就君處。如爲我造屋於海邊、以相待者、是所望也。故彦火火出見尊、已還鄕、卽以鸕鷀之羽、葺爲産屋。屋蓋未及合、豊玉姫自馭大龜、將女弟玉依姫、光海來到。時孕月已滿、産期方急、由此、不待葺合、俓入居焉、已而從容謂天孫曰、妾方産、請勿臨之。天孫心怪其言竊覘之。則化爲八尋大鰐。而知天孫視其私屏、深懷慙恨。既兒生之後、天孫就而問曰、兒名何稱者當可乎。對曰、宜號彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。言訖乃渉海俓去。于時、彦火火出見尊、乃歌之曰、飫企都鄧利、軻茂豆勾志磨爾、和我謂禰志、伊茂播和素邏珥、譽能據鄧馭㔁母。亦云、彦火火出見尊、取婦人爲乳母・湯母、及飯嚼・湯坐。凡諸部備行、以奉養焉。于時、權用他婦、以乳養皇子焉。此世取乳母、養兒之緣也。是後、豊玉姫聞其兒端正、心甚憐重、欲復歸養。於義不可。故遣女弟玉依姫、以來養者也。于時、豊玉姫命寄玉依姫、而奉報歌曰、 阿軻娜磨廼、比訶利播阿利登、比鄧播伊珮耐、企弭我譽贈比志 多輔妬勾阿利計利。凡此贈答二首、號曰舉歌。海驢、此云美知。踉䠙鉤、此云須須能美膩。癡騃鉤、此云于樓該膩。


一書に曰はく、…(略)…。是より先に、豊玉姫、天孫に謂して曰さく、「妾已に有娠めり。天孫の胤を、豈海の中に産むべけむや。故、産まむ時には、必ず君が処に就でむ。如し我が為に産屋を海辺に造りて、相待ちたまはば、是所望なり」とまうす。故、彦火火出見尊、已に郷に還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋を為る。屋の蓋未だ合へぬに、豊玉姫、自ら大亀に馭りて、女弟玉依姫を将ゐて、海を光して来到る。時に孕月已に満ちて、産む期方に急りぬ。此れに由りて、葺き合ふるを待たずして、俓に入り居す。已にして従容に天孫に謂して曰さく、「妾方に産むときに、請ふ、な臨ましそ」とまうす。天孫、心に其の言を怪びて窃に覘ふ。則ち八尋大鰐に化為りぬ。而も天孫の視其私屏したまふことを知りて、深く慚恨みまつることを懐く。既に児生れて後に、天孫就きて問ひて曰はく、「児の名を何に称けば可けむ」といふ。対へて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまうす。言し訖りて、乃ち海を渉りて俓に去ぬ。時に、彦火火出見尊、乃ち歌して曰はく、

「沖つ鳥 鴨著く嶋に 我が率寝し 妹は忘らじ 世の尽も」

亦云はく、彦火火出見尊、婦人を取りて乳母・湯母、及び飯嚼・湯坐としたまふ。凡て諸部備行りて、養し奉る。時に、権に他婦を用りて、乳を以て皇子を養す。此、世に乳母を取りて、児を養す縁なり。是の後に、豊玉姫、其の児の端正しきことを聞きて、心に甚だ憐び重めて、復帰りて養さむと欲す。義に於きて可からず。故、女弟玉依姫を遣して、来して養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌奉りて曰さく、

「赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装し 貴くありけり」

凡て此の贈答二首を、号けて挙歌と曰ふ。海驢、此をば美知と云ふ。踉䠙鈎、此をば須須能美膩と云ふ。痴騃鈎、此をば于楼該膩と云ふ。

『日本書紀』神代下 第十段(一書第四)

一書曰、…(略)…。先是、豊玉姫、出來當産時、請皇孫曰、云々。皇孫不從。豊玉姫大恨之曰、不用吾言、令我屈辱。故自今以往、妾奴婢至君處者、勿復放還。君奴婢至妾處者、亦勿復還。遂以眞床覆衾及草、裹其兒置之波瀲、卽入海去矣。此海陸不相通之緣也。一云、置兒於波瀲者非也。豊玉姫命、自抱而去。久之曰、天孫之胤、不宜置此海中、乃使玉依姫持之送出焉。初豊玉姫別去時、恨言既切。故火折尊知其不可復會、乃有贈歌。已見上。八十連屬、此云野素豆豆企。飄掌、此云陀毗盧箇須。


一書に曰はく、…(略)…。是より先に、豊玉姫、出で来りて、当に産まむとする時に、皇孫に請して曰さく、云々。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「吾が言を用ゐずして、我に屈辱せつ。故、今より以往、妾が奴婢、君が処に至らば、復な放還しそ。君が奴婢、妾が処に至らば、亦復還さじ。遂に真床覆衾及び草を以て、其の児を裹みて波瀲に置きて、即ち海に入りて去ぬ。此、海陸相通はざる縁なり。一に云はく、児を波瀲に置くは非し。豊玉姫命、自ら抱きて去くといふ。久しくして曰はく、「天孫の胤を、此の海の中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫を持かしめて送り出しまつる。初め豊玉姫、別去るる時に、恨言既に切なり。故、火折尊、其の復会ふべからざることを知しめして、乃ち歌を贈ること有り。已に上に見ゆ。八十連属、此をば野素豆豆企と云ふ。飄掌、此をば陀毗盧箇須と云ふ。

鎮座ちんざする洞窟は、日南海岸にちなんかいがん国定公園に面し、東西18けん(約32.7m)・南北21けん(38.1m)、およそ1000平方メートル(約300坪)ほどの広さがあります。 太平洋からの朝日が直射し、眼下の絶壁には亀石かめいし枡形岩ますがたいわ)・御船岩おふねいわ二柱岩ふたはしらいわ扇岩おうぎいわ雀岩すずめいわ夫婦岩めおといわなどの奇岩が眼下の絶壁にそそり立っています。岩間に奔流する黒潮の怒濤どとうは、飛沫ひまつ天にちゅうして岩屋いわやを護り、潮煙しおけむりが洞窟内に立ちこめることも珍らしくありません。後背こうはいの山は、千古せんこから斧を入れたことのない照葉樹林が生い繁り、最高地の速日峰はやひのみねいただき御祭神ごさいじん御陵墓ごりょうぼ伝説地でんせつちの指定を受けた吾平山上陵あひらのやまのうへのみささぎ鎮斎ちんさいされています。また、日南海岸にちなんかいがん周辺には、『古事記こじき』、『日本書記にほんしょき』に書かれた山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)と海幸彦うみさちひこ火闌降命ほすそりのみこと)の神話が豊かに息づいており、その神話と前後する神々も数多くまつられています。山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)が狩りをされた時の行在所あんざいしょと伝えられる串間神社くしまじんじゃ海宮わたつみのみや龍宮りゅうぐう綿津見神宮わたつみのかみのみや)から帰り着き上陸された青島神社あおしまじんじゃ。故郷に戻った山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)が使った潮満珠しおみつたま潮干珠しおひるたまから海幸彦うみさちひこ火闌降命ほすそりのみこと)が逃避された潮獄神社うしおだけじんじゃなどが鎮座ちんざしています。

桓武天皇かんむてんのう延暦えんりゃく元年(785)には天台宗てんだいしゅうの僧と伝えられる光喜坊快久こうきぼうかいきゅうが、勅命ちょくめいによって当山とうざん初代別当しょだいべっとうとなり、神殿しんでん再興さいこうし、同時に寺院を建立こんりゅうして、勅号ちょくごうを「鵜戸山うどさん大権現だいごんげん吾平山あひらさん仁王護国寺におうごこくじ」とたまわりました。9世別当べっとうまでは天台宗てんだいしゅうで、後3代は真言宗しんごんしゅう仁和寺にんなじ門跡もんぜき別当べっとう兼摂けんせつ。以後、真言宗しんごんしゅう別当べっとうがつぎ、29世別当べっとう頼祐法印の時になって新義真言宗しんぎしんごんしゅう智山派ちさんはに転じました。その頃から宇内三大権現うだいさんだいごんげんのひとつ、両部神道りょうぶしんとう大霊場だいれいじょうとして広く知られ、西の高野山こうやさんとして盛観せいかんを極めました。一時は洞内どうない本宮ほんぐうを始めとする洞内六社どうないろくしゃの外に建てられた本堂ほんどうには六観音ろくかんのん安置あんちし、寺坊じぼうは18を数えたと伝えられています。

それより時代は古く、仏教伝来とほぼ同じころ、欽明天皇きんめいてんのう御代みよ、11歳にして当地に流された祐教礼師が、伝来した琵琶びわ読弾どくだんしながら、地神陀羅尼経じしんだらにきょうを習って九州各地の盲僧もうそうに伝えたのが薩摩琵琶さつまびわの始まりとされています。また、鵜戸山うどさん両部神道りょうぶしんとうで西の高野山こうやさんと称される修験道場しゅげんどうじょうであったことから、正平しょうへい6年(1351)に奥州相馬おうしゅうそうまに生まれた相馬四郎義元そうましろうよしもと慈音じおん念大和尚ねんだいおしょう)が、鵜戸うど岩窟がんくつ剣法けんぽうを悟り、念流ねんりゅうを始めたとも伝えられけています。長享期ちょうきゅうき(1487-1489)に参籠さんろうした愛州移香あいすひさただ霊夢れいむを得て、陰流かげりゅうを開いたとされています。その後、柳生宗厳やぎゅうむねよしにより陰流かげりゅうを発展させた新陰流しんかげりゅうが生まれたことから、剣法けんぽう発祥の地として称えられ、その記念碑が建てられています。

その後、文安ぶんあん2年(1445)の伊東祐堯いとうすけたか起請文きしょうもんに版で刷られた「鵜戸宮うどぐう牛王宝印ごおうほういん」の文字との絵を見ることができ、地域信仰の一つの核だったと考えられています。また、長禄ちょうろく3年(1460)には勅使ちょくし下向げこうし、神窟しんくつを検したとされています。文明ぶんめい12年(1478)の島津忠昌しまづただまさ島津武久しまづたけひさ)の起請文きしょうもんをはじめ、天正てんしょう6年(1578)には島津義久しまづよしひさが、大友宗麟おおともそうりんとの合戦に際して戦勝祈願したことが残され、日向国ひゅうがのくに鎮守ちんじゅとして、島津氏しまづしからのあつ崇敬すうけいされていました。永禄えいろく3年(1560)飫肥おび領主の伊東義祐いとうよしすけ神殿しんでん再興さいこう。江戸期に藩主となった伊藤氏いとうしは、毎年正月6日の修正会しゅしょうえに必ず臨み、寛永かんえい18年(1641)に領主の伊東祐久いとうすけひさが修復。宝永ほうえい6年(1709)から正徳しょうとく元年(1711)の2年余に渡って領主の伊東祐実いとうすけざね権現造ごんげんづくり神殿しんでん上屋うわや・拝殿・舞殿ぶでん等を再興さいこう明和めいわ7年(1764)8月に修復します。しかし文政ぶんせい10年(1827)の大火に引続き、明治元年(1868)の神仏判然令しんぶつはんぜんれいによって仁王護国寺におうごこくじ堂坊どうぼうは殆どが壊され、明治2年(1869)2月5日に権現号ごんげんごう・寺院を廃して鵜戸神社うどじんじゃと称します。明治7年(1874)3月25日に「神宮号じんぐうごう」が宣下せんげされるとともに官幣小社かんぺいしょうしゃ列格れっかくされ、同年6月1日には勅使ちょくし参向さんこうがありました。明治22年(1889)に社殿しゃでんを改修。明治28年(1895)10月29日には官幣大社かんぺいたいしゃに昇格し、戦後は神社本庁じんじゃほんちょう別表神社べっぴょうじんじゃとなっています。


境内社けいだいしゃなど】

御社殿ごしゃでん

御社殿

県指定有形文化財の御社殿ごしゃでんは、本殿ほんでん幣殿へいでん拝殿はいでんが一体となった杮葺こけらぶき権現造ごんげんづくり拝殿はいでんには千鳥破風ちどりはふ唐破風からはふを飾り、朱塗りの色鮮やかな八棟造やつむねづくりです。正徳しょうとく元年(1711)に飫肥藩主おびはんしゅ伊東祐実いとうすけざねが改築したものを、明治22年(1889)に大改修。昭和42年(1967)洞内どうないの湿気と潮風のために神殿しんでんの老杤化が進み、岩の亀裂もできて危険となったため、全国からの浄財じょうざいにより改修が行われ、257年ぶりに昭和43年(1968)洞内どうない本殿ほんでん、および末社まっしゃのすべてが復元されました。平成9年(1997)11月には御社殿ごしゃでんの屋根の葺き替えふきかえ漆・彩色うるし・さいしょくの塗り替えが施されました。幾度の改修を経たとはいえ、往時の様式を伝えて文化的価値が高いことから平成7年(1995)に県の有形文化財に指定されています。

「おちちいわ」

おちちいわ

社殿しゃでんの裏、岩窟がんくつくの最奥には「おちちいわ」が奉斎ほうさいされています。母神ははがみ豊玉姫命とよたまひめのみことが、岩窟がんくつくに造った未完成の産屋うぶやで御出産の際、父神ちちがみである彦火瓊々杵尊ひこほのににぎのみことは、約束をたがえて八尋和邇やひろわにの姿になっていた豊玉姫命とよたまひめのみことのぞいてしまいます。そのため、御出産後、綿津見神わたつみのかみの国へ戻ることとなった豊玉姫命とよたまひめのみこと御子みこが育つため、両乳房をくっつけて行かれたとされる伝説の岩が「おちちいわ」です。主祭神しゅさいじん鸕鷀草葺不合尊うかやふきあえずのみことは、「おちちいわ」からしたたり落ちる水でつくった飴を母乳がわりにして育ったと伝えられています。今でも絶え間なく玉のような岩清水をしたたらせて、安産・育児を願う人々の信仰の拠り所となっており、現在の「おちちあめ」も「おちちいわ」からしたたる「おちちみず」でつくられています。

吾平山上陵伝説地あひらのやまのうへのみささぎでんせつち

速日峯(吾平山上陵)

境内けいだいには主祭神しゅさいじん陵墓りょうぼとされる吾平山上陵あひらのやまのうへのみささぎ鎮斎ちんさいされています。吾平山上陵あひらのやまのうへのみささぎは、『日本書紀にほんしょき』に「葬日向ほうむるひむかの吾平山上陵あひらのやまのうへのみささぎ」とある鸕鷀草葺不合尊うかやふきあえずのみこと御陵ごりょうで、参道さんどうの左手、神域しんいきの最高地の速日峯はやひのみねの頂上にあります。稲荷神社いなりじんじゃ横の登山道入り口を通り、約350mほど青苔の自然林の中を登ります。寛政かんせい4年(1792)の白尾国柱しらおくにはしら神代山陵考じんだいさんりょうこう』、明治元年(1868)の後醍院真柱ごだいいんみはしら神代三陵志じんだいさんりょうし』の考証などにより、明治7年(1874)7月10日に鹿児島県鹿屋市吾平町かのやしあいらちょう吾平山上陵あひらのやまのうへのみささぎが、宮内庁御陵墓参考地くないちょうごりょうぼさんこうちとされますが、鵜戸山上うどさんじょう陵墓りょうぼは、明治28年(1895)12月4日に吾平山上陵伝説地あひらのやまのうへのみささぎでんせつちと指定されました。2月2日にお祭り「吾平山上陵祭あひらのやまのうへのみささぎさい」があります。尚、吾平山上陵あひらのやまのうへのみささぎ鎮祭ちんさいされている吾平山上陵あひらのやまのうへのみささぎ吾平町あいらちょうは、大隅国おおすみのくにに位置しますが、和銅わどう6年(713)4月3日に日向国ひゅうがのくにと分割されるまでは、日向国ひゅうがのくにに区分されていました。その214年後の延長えんちょう5年(927)12月26日に編纂へんさんされた『延喜式えんぎしき』巻第二十一に諸陵式しょりょうしきが記されています。

『日本書紀』神代下 第十段(本文)

後久之、彦火火出見尊崩。葬日向高屋山上陵。


後に久しくして、彦火火出見尊崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる。

『延喜式』卷二十一 治部・雅樂・玄蕃・諸陵

諸陵寮。
日向吾平山上陵。[彥波瀲武鸕鶿草不葺合尊。在日向國無陵戶。]

皇子神社おうじじんじゃ

社殿しゃでん向かって左側に鎮座ちんざする皇子神社おうじじんじゃは、鸕鷀草葺不合尊うかやふきあえずのみこと第一皇子だいいちおうじ神武天皇じんむてんのう皇兄こうけいである五瀬命いつせのみことを祀っています。もとは一之鳥居いちのとりい近くの吹毛井ふけい船形山ふながたやま鎮座ちんざしていましたが、明治維新後に現在地に遷座せんざしたとされています。なお、昭和52年(1977)に旧社地しゃちにも分霊ぶんれい復祀ふくしされています。

九柱神社ここのはしらじんじゃ

皇子神社おうじじんじゃの向かって左手は、九柱ここのはしらの神々を合祀ごうしする九柱神社ここのはしらじんじゃです。御祭神ごさいじん伊邪那岐命いざなぎのみことが、日向ひむか小戸おど阿波岐原あわぎはら禊祓みそぎはらひし時にお生まれになった神々で、神直毘神かむなほびのかみ大直毘神おおなほびのかみ伊豆能売神いづのめのかみ底筒男神そこつつのおのみこと中筒男神なかつつのおのみこと上筒男神うわつつのおのみこと底津綿積神そこつわたつみのかみ中津綿積神なかつわたつみのかみ上津綿積神うわつわたつみのかみ を祀っています。

でうさぎ」

九柱神社の向かって右隣には「でうさぎ」。御祭神ごさいじんの名の「鸕鷀」が「」・「」になったと考えられ、鵜戸神宮うどじんぐう神使しんしとなっています。毎月「初のの日」が御神縁ごしんえんの日として御神威ごしんいが最も高まる日と尊崇そんすうされ、縁日参えんにちまいりが連綿と今日まで奉仕され、病気びょうき平癒へいゆ開運かいうん飛翔ひしょうの願い事が叶うとされています。

御霊石ごれいせき

でうさぎの向かって右隣。鵜戸山うどさん大権現だいごんげん仁王護国寺におうごこくじの信仰の名残と思われる室町時代中期に遡る御霊石ごれいせきがあります。御霊石ごれいせきには、諸願成就しょがんじょうじゅ国家安泰こっかあんたい霊験れいげんあらたかとされています。

合祀殿ごうしでん住吉神社すみよしじんじゃ火産霊神社ほむすびじんじゃ福智神社ふくちじんじゃ)」

岩窟がんくつくを時計回りし、最奥の「お乳岩ちちいわ・お乳水ちちみず」を過ぎると住吉神社すみよしじんじゃ火産霊神社ほむすびじんじゃ福智神社ふくちじんじゃの三社が合祀ごうしされています。住吉神社すみよしじんじゃ御祭神ごさいじんは、底筒男神そこつつのおのみこと中筒男神なかつつのおのみこと上筒男神うわつつのおのみこと火産霊神社ほむすびじんじゃは、火産霊神ほむすびのかみ福智神社ふくちじんじゃは、仁徳天皇にんとくてんのうまつっています。

亀石かめいし枡形岩ますがたいわ)」

社殿しゃでん前に広がる日向灘ひゅうがなだに並び聳える奇岩の霊石れいせき亀石かめいし枡形岩ますがたいわ)があります。亀石かめいしは、母神ははがみ豊玉姫命とよたまひめのみことが御出産の為に乗って来られた大亀おおがめと伝えられるものです。この亀石かめいし枡形岩ますがたいわ)の背中に桝形ますがたの窪みがあり、この窪みに男性は左手、女性は右手で「運玉うんたま」を投げ入れ、見事入ると願いが叶うとされています。

鵜戸稲荷神社うどいなりじんじゃ恵比須神社えびすじんじゃ神犬石いぬいし

神門しんもん楼門ろうもんの間の左手、速日峯はやひのみねの登山口には、末社まっしゃ鵜戸うど稲荷神社いなりじんじゃ恵比須神社えびすじんじゃ鎮座ちんざしています。神門しんもん前の神犬石いぬいしは、本参道ほんさんどう八丁坂はっちょうざかから、御本殿ごほんでんを守護するように見えることから神犬石いぬいしと呼ばれています。


催事さいじ

シャンシャン馬道中うまどうちゅう

3月末の日曜日に催行さいこうされる「シャンシャン馬道中うまどうちゅう」が風物詩として有名です。「シャンシャン」とは馬の首にかけられた鈴が鳴る音を表しているといわれています。江戸時代の中期から明治中頃まで当地では、新婚夫婦が「シャンシャン馬」に乗って鵜戸神宮うどじんぐう榎原神社よわらじんじゃへの宮参みやまいりをする慣わしがありました。しかし、七浦七峠ななうらななとうげと呼ばれる険しくつらい路であったため、花嫁を馬にのせ、花婿が手綱をとって宮詣みやまいりをして家路につくというものでした。現在は、このゆかしい慣わしはなくなりましたが、毎年「シャンシャン馬道中うまどうちゅう鵜戸うどさん詣り」を再現する行事や、民謡大会などが行われるなど観光行事として行われています。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 神犬石
  • 参道から楼門
  • 楼門
  • 神使の兎像
  • 参道から神窟
  • 神窟入口
  • 御社殿
  • 御社殿
  • 御社殿
  • 皇子神社と九柱神社
  • 皇子神社
  • 九柱神社
  • 撫でうさぎ
  • 御霊石
  • おちちいわ
  • おちちいわ
  • おちちいわ
  • 産湯の跡
  • お乳水
  • 合祀殿(住吉神社・火産霊神社・福智神社)
  • 亀石(枡形岩)
  • 速日峯
  • 鵜戸稲荷神社と恵比須神社、及び登山口
  • 鵜戸稲荷神社
  • 恵比須神社

情報

住所〒887-0101
日南市にちなんし大字おおあざ宮浦みやうら3232
創始そうし崇神天皇すじんてんのう御代みよ(前97-前30)
社格しゃかく官幣大社かんぺいたいしゃ別表神社べっぴょうじんじゃ
例祭れいさい2月1日
催事さいじシャンシャン馬道中うまどうちゅう(3月末の日曜)
HP Wikipedia

地図・マップ