【紹介文】
白鳥山の中腹に鎮座する白鳥神社は、御祭神として九州南部を拠点とした熊襲の地(球磨・
曽於[噌唹]地方)を平定し、その死後の霊魂は白鳥に化したことで知られる日本武尊を祀っています。また、宝永元年(1704)東大寺大仏殿の屋根を支える2本の虹梁が伐り出された地としても知られている神社です。
創祀は不承ですが、当社の縁起によれば天徳3年(959)天台宗の高僧・性空上人が、霧島山の霊窟を巡視すると白鳥山の頂上近くに六観音御池を見出します。性空上人が大池の畔に坐して法華経を読誦すると忽然として老翁が顕れます。老翁は「我は是日本武尊なり。白鳥と化して此峯に住すること久し。師の読経苦行の徳に感じて、身を現す」と宣り、忽ち白鳥と化して飛び去りました。性空上人は自らの手で六観音の像を彫刻し、白鳥権現出現の地に仏宇を建てて安置したことから、大池は六観音御池と称されるようになりました。六観音御池は、霧島六所権現の本地とされました。
六観音御池から白鳥山の中腹に白鳥権現を勧請して白鳥神社を創建。六所権現とも称せられ、聖観音を本地とする満足寺を建立して護持の精舎としました。往昔は9月28日に満足寺住僧、社司の数人が白鳥神社から御神体の鏡を奉りて六観音堂へ至り、祭祀を行っていました。尚、廃仏毀釈により御堂は無くなり、その場所に豊受神社が創建されています。その神社に観音様が安置されていますが、当時の観音様ではありません。戦前は末社とされましたが、現在は末社から外れています。
古来より軍神として崇敬を集め、天正4年(1576)9月には島津義久が当社へ参詣。その後も島津家代々崇拝していたとされ、天正20年(1592)4月には社領30町が諸役御免されます。特に島津義久の弟で、当地の領主になった島津義弘からの信仰は篤く、軍を出す毎に戦勝祈願を行い、勝利の後には篤く寄進をしました。慶長5年(1600)正月21日、島津義久が神領143石5斗余を寄進し、永世丁役を免じます。慶長6年(1601)から慶長10年(1605)11月11日にかけて、新たに社殿を造営し、神領200石、粟野の内三門を寄進しました。その次第を伝える旧目録は、後に官に服した住持・光厳上人が務めた別当寺・満足寺に所蔵されています。
文化6年(1809)12月23日に火災に罹り、大半が烏有に帰しました。明治38年(1905)県社に列格。明治40年(1907)2月9日に神饌幣帛料供進神社の指定を受けました。
【日本武尊の由緒】
景行天皇27年(97)日本武尊は熊襲の反乱を鎮めるため、景行天皇の命を受けて熊襲国に赴きます。土地の消息・地形を調べると、川上梟帥(取石鹿文)が一族を統べていて、親族を集めて宴を催すことを知ります。日本武尊は童女の姿に成りすまし、宴に忍び入り、川上梟帥に近づきます。童女の姿に目を止めた川上梟帥は、童女を呼び寄せ、手を取って酌をさせます。夜も深まり、人も疎らになる中、日本武尊は酒に酔った川上梟帥の胸に剣を突き刺しました。
息絶えようとする川上梟帥は、頭を地に付けて「暫し待ってくれ、物申したいことがある」と述べて、日本武尊に名を尋ねます。日本武尊が「我れは大足彦天皇(景行天皇)の皇子、曰本童男である」と答えます。川上梟帥は謹んで「これまで自分は熊襲国の強者で、当代、従わないものはなかった。数多くの武人に会ってきたが皇子ほどのものを知らなかった。賤しき賊の卑しい口を以て尊名を奉ろう」と述べます。それを許すと、川上梟帥は「今からは日本武尊と称すべし」との言葉を残し、日本武尊に討たれたのでした。
『日本書紀』巻第七 大足彦忍代別天皇(景行天皇)
秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。-(略)-。十二月、到於熊襲国。因以、伺其消息及地形之嶮易。時、熊襲有魁帥者、名取石鹿文、亦曰川上梟帥、悉集親族而欲宴。於是日本武尊、解髮作童女姿、以密伺川上梟帥之宴時、仍佩劒裀裏、入於川上梟帥之宴室、居女人之中。川上梟帥、感其童女之容姿、則携手同席、舉坏令飲而戲弄。于時也更深、人闌、川上梟帥且被酒。於是日本武尊、抽裀中之劒、刺川上梟帥之胸。未及之死、川上梟帥叩頭曰「且待之、吾有所言」。時日本武尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰「汝尊誰人也」。對曰「吾是大足彦天皇之子也、名曰本童男也」。川上梟帥亦啓之曰「吾是国中之强力者也、是以、當時諸人、不勝我之威力而無不從者。吾、多遇武力矣、未有若皇子者。是以、賤賊陋口以奉尊號、若聽乎」。曰「聽之」。卽啓曰「自今以後、號皇子應稱日本武皇子」。言訖乃通胸而殺之。故至于今、稱曰日本武尊、是其緣也。然後、遣弟彦等、悉斬其黨類、無餘噍。
熊襲を征討して都に戻った日本武尊は、景行天皇40年(110)10月に東国の征討に向かいます。東国を平定した日本武尊は、都へ戻る途上、尾張で宮簀媛を娶ります。そして伊吹山の荒ぶる神を討ちに行く際、景行天皇より賜っていた草薙剣を宮簀媛の家に置き、素手のみで征伐に向かいます。
伊吹山に至ると、伊吹の神が大蛇(『古事記』では白い大猪)と化して迎え立ちます。「これは神使に過ぎない」と日本武尊は相手にせず、見逃すと伊吹の神は、氷雨・雹を降らせて霧で道を覆り、日本武尊は意識が朦朧とする中で下山します。日本武尊は、居醒泉でその清水を飲み、酔ったような状態から醒めますが病の身となります。そして尾張を経て、伊勢へ向かうも、日本武尊は能褒野で薨去されました。
父である景行天皇は、日本武尊の死を嘆き悲しみ、群卿に詔し、百僚に命じて、伊勢国の能褒野陵に葬りました。その時、日本武尊は白鳥となり、陵から倭国を目指して飛んで行ってしまったのでした。家来たちが柩を開くと、衣だけが空しく残り、屍骨は消えていました。
遣いの者が白鳥を追うと、琴弾原に留まったことから第2の陵を造りました。更に白鳥は河内の旧市邑まで飛んで留まったことから、その地に第3の陵を造りました。その後、白鳥は天高く飛び去ったのでした。そのため、衣冠を亡骸の代わりに葬り、功名を伝えるため武部を定めました。
『日本書紀』巻第七 大足彦忍代別天皇(景行天皇)
時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭国而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。
『古事記」では、日本武尊の薨去を聞いた倭国にいた后や御子達が駆けつけ御陵を作り、匍匐い廻って「なづきの田の 稻幹に 稻幹に 匍ひ廻ろふ 野老曼」と詠んで嘆いたのでした。そして八尋白智鳥と化して、空を翔けて浜に向けて飛び行きました。后や御子達は、小竹の刈株に足を切り破れても、その痛みを忘れて慟哭しながら追って「淺小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」と詠みます。白鳥を追って海に入り難儀する中では「海處行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海處はいさよふ」と詠みました。また、飛び去った白鳥が磯に留まると「濱つ千鳥 濱よは行かず 磯傳ふ」と詠みました。この4首は全て御葬を歌ったもので、現在も天皇の大御葬で歌われています。
日本武尊が薨去された能煩野から飛翔した白鳥は河内国の志幾に留まったことから、その地に御陵を作り、日本武尊の御魂を鎮めて白鳥御陵と称しました。しかし白鳥はその地からも天高く飛び去ったと伝えています。
『古事記』中巻 景行天皇
於是坐倭后等及御子等 諸下到而 作御陵即匍匐廻其地之那豆岐田 【自那下三字以音】而哭爲歌曰 那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良 於是化八尋白智鳥 翔天而 向濱飛行【智字以音】 爾其后及御子等 於其小竹之苅杙雖足破 忘其痛以哭追 此時歌曰 阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那 又入其海鹽而 那豆美【此三字以音】行時 歌曰 宇美賀由氣婆 許斯那豆牟 意富迦波良能 宇惠具佐 宇美賀波 伊佐用布 又飛居其磯之時 歌曰 波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布 是四歌者 皆歌其御葬也 故至今其歌者歌天皇之大御葬也 故自其國飛翔行 留河内國之志幾 故於其地作御陵鎭坐也 即號其御陵謂白鳥御陵也 然亦自其地更翔天以飛行
【東大寺大仏殿虹梁】
東大寺大仏殿の3020トンもの大屋根を支えている大虹梁は、元禄16年(1703)この白鳥神社境内より伐出された2本の赤松です。
永禄10年(1567)11月10日~11日の「東大寺大仏殿の戦い」にて焼失した東大寺大仏殿は、仮の仏堂が建設されるも、慶長15年(1610)の暴風で倒壊した後、元禄時代(1688-1704)まで再建されることなく、大仏は雨晒しとなっていました。東大寺の英慶に学んだ公慶は、それを嘆いて大仏殿の再建を発心します。元禄5年(1692)に大仏の修理が完成して開眼法要を執り行い、続いて大仏殿の再建へと進みます。
幕府の助力、全国での勧進が進められるも、最重要な資材のひとつである虹梁の確保は難航を極めました。その中で見つけられたのが白鳥神社の2本の赤松でした。第一鳥居の水分神社脇の巨木と、社殿向かって右脇の夫婦杉の近くにあった2本の巨木。いずれも樹齢は2000年を越えるものでした。
- 長さ23.6m(13間)、元口1.3m(4尺3寸)、末口1.0m(3尺3寸7分5厘)、重量23.2トン(6183貫)。
- 長さ23.6m(13間)、元口1.2m(4尺1寸)、末口1.1m(3尺7寸5分)、重量20.4トン(5435貫)。
切り倒すと裂ける恐れがあることから根の周囲を掘って倒され、1本目は、樵夫90人の手により元禄16年(1703)9月19~22日の4日間で、2本目は、100人の人出により23~25日の3日間で伐出されました。代金は、それぞれ1本2000両にも上りました。元禄17年(1703)1月7日に白鳥神社を出発。詳細なルートは不明ですが、傷がつかないよう両端に金輪がはめられ、霧島山中から薩摩湾岸の国分新川口に至る100km近い道のりを、1日860人の人夫と牛40頭の合力によって運び出されました。
5月4日に国分新川口に到着。5月17日に浜之市(現・隼人港付近)を出発して5月19日に鹿児島に到着しました。しかし、これだけの巨木2本を運ぶことができる船も技術もなく、運び手が決まりませんでした。その中、搬送の声を声を上げたのが志布志の廻船問屋の山下弥五郎でした。
山下弥五郎は「観音様が娘の夢枕に立ち、搬送する方法を教えられた」と申し出たのでした。その方法は、船底の栓を抜いて千石船を沈め、満潮時に沈んだ千石船の上に2本の虹梁材を渡し、干潮になってから船内の水を抜き、千石船を浮上させるというものでした。6月11日にその方法で積み込みが行われ、千石船は無事に海上に浮かび、6月20日に鹿児島を出発しました。
天候を見ながら山川港、日向細島港、豊予海峡、瀬戸内海を経て7月12日に兵庫港に到着。今度は干潮時に千石船の船底の栓を抜き、満潮時に船を沈めて船から降ろされました。兵庫港から曳航された虹梁材は、淀川から木津川を遡って8月10日に木津(現・木津川市)に到着。そこからは陸路で運搬され、虹梁材の1本目は9月2日、2本目は9月5日に東大寺に到着しました。
翌年の宝永2年(1705)3月13日と3月18日に虹梁の取り付けが行われ、4月10日に上棟式が盛大に催行されました。再建に向けての大きな節目となる上棟式を見届けた公慶は江戸へ赴きますが、公慶は同年(1705)7月12日に江戸で亡くなります。その後、大仏殿は宝永6年(1709)3月21日に完成を見て、落慶供養が行われました。
【境内社など】
「社殿」
本殿、宝殿、拝殿等を具備する境内地は709坪の官有地第一種。樹齢500年の御神木をはじめ10数本の古木が聳え立っています。江戸末期造営の本殿は流破風造で雲龍巻柱、唐獅子牡丹など彫刻が見もので、入母屋造の拝殿には日本武尊の額を掲げています。
「水分神社」
第一鳥居の向かって右手、白鳥大モミジと虹梁材赤松巨木跡地の隣に鎮座。霧島の山々は文字どおり霧が深く、雨が多いことから水神、龍神の深い信仰があり、白鳥神社の本殿にも龍の巻柱が施されています。水分神社は、白鳥山の水脈の上、当社境内の中でも最も湧水豊かな水源地に、水配りを司る神として祀られています。析雨、止雨の霊験あらたかであり、さらに水が命の根源であることから身休健康の神として、「みくまり」が「みごもり」と転北して子守り、子宝の神としても厚い信仰があります。
御祭神は、主祭神である日本武尊の妃の一人である弟橘姫命(弟橘比売命)です。弟橘姫命は、日本武尊の東征の折、上総に向かう暴風の船上から身を捧げて鎮めたとされています。生前と同様に日本武尊をお祀りする本社を守護するため、水分神社に鎮座されていると伝えられています。
『日本書紀』では、東征の道を進める日本武尊が、相模から上総に至る海(浦賀水道)を渡る時、海を望んで「小さい海なので、立跳りで容易く渡れるだろう」と言挙げします。しかし沖に至ると暴風が吹き荒れ、船は漂い、渡ることができませんでした。その時、穂積氏の忍山宿禰の娘で日本武尊に付き従っていた后・弟橘媛が、「今や暴風で船は沈みそうなのは海神の怒りをかったもので、賤しくも妾の身である自分が身代わりに海に入りましょう」と言葉を残し、波間に身を投げました。すると暴風はすぐに止み、船は無事に着岸しました。そのことからその海は馳水と名付けられました。そして、上総から陸奥、蝦夷を平定し戻る日本武尊は、甲斐から北の武蔵、上野を巡り西碓日坂に至りました。日毎に弟橘媛を偲んでいた日本武尊は碓日嶺に登り、東南を望んで「吾嬬はや」と何度も嘆きました。そのことから碓日嶺より東の諸国を吾嬬国と呼ぶようになったと伝えられています。
『日本書紀』第七巻 景行天皇・成務天皇
亦進相摸、欲往上總。望海高言曰、是小海耳、可立跳渡。乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時有從王之妾、曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也。啓王曰、今風起浪泌、王船欲沒。是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。-(略)-。則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情。故登碓日嶺而東南望之。三歎曰、吾嬬者耶嬬、此云菟摩。故因號山東諸國、曰吾嬬國也。
『古事記』では、倭建命が走水の海を渡る時、海神が浪を興して、波に翻弄されて進むことができなくなりました。その時、后の弟橘比賣命が「夫である倭建命に代わって海の中に入るので、東征を成し遂げて天皇へ報告できますよう」と念じ、浪の上に菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を敷き、その上に座り、海に消えました。すると荒波は穏やかになり、船を進めることができました。そのとき弟橘比売命は次の歌を残しました。
- さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
その7日後、弟橘比売命の御櫛が海辺で見つかり、その御櫛を手に取って御陵に安置したと伝えられています。
『古事記』中巻 十二代景行天皇
自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后、名弟橘比賣命白之、妾易御子而入海中。御子者、所遣之政遂、應覆奏。將入海時、以菅疊八重、皮疊八重、絁疊八重、敷于波上而、下坐其上。於是其暴浪自伏、御船得進。爾其后歌曰、
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
故七日之後、其后御櫛、依于海邊。乃取其櫛、作御陵而治置也。
其れより入り幸でまして、走水の海を渡りたまひし時、その渡の神浪を興して、船を廻らして得進み渡りたまはざりき。ここにその后、名は弟橘比売命の白したまひしく、「妾、御子に易かはりて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政を遂げて覆奏したまふべし」とまをして、海に入りたまはむとする時に、菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重を波の上に敷きて、その上に下りましき。さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はもとうたひたまひき。故、七日の後、その后の御櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。
「性空上人御尊像」
約200段の階段参道を上り、社殿前の参道に木像と石像の「性空上人御尊像」が祀られています。この2つの性空上人御尊像は、「郷土の歴史文化を伝承する会」が性空上人の事跡を讃え、遺徳を偲ぶため制作奉納されたものです。木像は直径80cmの楠の大木を使い、えびの市上江の石膏細工師・二ノ宮昇氏、白鳥の小野侑氏の2人によって約3ケ月掛けて制作されました。石像は重さ約2t余の原石を使い、人吉市の石材彫刻師・吉田満氏によって約4ヶ月掛けて制作されました。石像の台座は白鳥の石工・市原泰見氏が制作。上人堂は白鳥神社が白鳥の大工棟梁・奥松政広氏に依頼して建築造営され、白鳥神社の創建から1050年に当たる平成21年(2009)3月完成。3月20日の例大祭において、白鳥神社と同じく天台宗の性空上人によって創建され、神仏習合の交流を持つ姫路市・書写山圓教寺から大樹玄承執事長ほか3名、多くの崇敬者たちも参列して、神仏合同の形式により、落成祝賀と同時に開眼供養祭が厳粛盛大に営まれました。[境内看板参照]
「前神社」
境内に一対で鎮座している前神社は、戦後に倒壊した後、土台だけが残されていたところから小林市南西方の小杉秋秀氏が寄進による再建を発願され、平成8年(1996)3月に南側の御社を、平成12年(2000)11月に北側の御社を自らの制作により建立されました。御祭神は不承ですが、御門の神、境内の守護を司る櫛磐間戸神と豊磐間戸神と考えられています。[境内看板参照]
「阿吽の仁王像」
白鳥神社は、明治の廃仏毀釈まで白鳥権現社と称し、金剛乗院満足寺を別当寺とした神仏習合の神社でした。その名残として本来仏法の護法神である金剛力士像が阿吽一対以前のまま鎮座し、憤怒の形相を表して境内に魔物が進入しないよう守護しているものであります。阿吽の二王いることから仁王と呼ばれ、隆々たる筋肉体質で力強い風貌から健康の神さまとして深く崇敬されています。男性は阿の仁王様、女性は吽の仁王様を特に祈り、自分の悪いところがあれば仁王様のそのところを触れることにより癒えるという信仰もあります。[境内看板参照]
「御神木」
社殿後方の夫婦杉は、樹齢約500年とされ、直径約1.9m、周囲6m。白鳥山が1000年以上の神巌とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、御神木として崇敬されていました。令和4年(2022)10月に1本が倒伏し、残った1本の杉を夫婦杉から改め「衛守杉」と命名されています。また、社殿向かって右手の家族杉も御神木とされています。