緑川の河口の川尻(古くは河尻)に鎮座する河尻神宮は、醍醐天皇の第二皇子で左大臣であった源高明の子孫の河尻三郎源実明が、常に尊崇していた鎌倉の鶴岡八幡宮を河尻荘小岩瀬(熊本市南区小岩瀬)の地に勧請したのが創祀です。建久元年(1190)に河尻荘の地頭に任命された河尻三郎源実明は、建久7年(1197)11月に社殿を造営して鶴岡八幡大神の御分霊を請はれ、翌年の建久8年(1198)11月初卯の日に鶴岡八幡大神(応神天皇・比売神・神功皇后)の神霊が勧請されました。相殿の御祭神として、天照皇大神・住吉大神・春日大神・阿蘇大神を合祀しています。五柱の御祭神を祀ることから若宮五社大明神と称され、河尻荘一円の一町八十七ヶ村(川尻・日吉・力合・飽田・天明・富合・宇土走潟)の総氏神として、社領も33町歩を保有していました。
中世末、河尻氏の没落により一時衰微しますが、天正14年(1586)に大名として入国した加藤清正は、川尻を藩の軍港、及び年貢米の集結地、海外貿易の拠点となる商港として整備します。それに合わせて、総氏神として河尻神宮を篤く尊崇し、再び以前の繁栄を取り戻します。天正14年(1586)には現在地に社殿が造営され、翌年の天正15年(1587)に落成し、御遷座しました。
明治に入り郷社とされますが、明治31年(1898)11月に県社に昇格されました。
社殿向かって左手前の今宮神社は、河尻三郎源実明、並びに河尻氏代々の当主を祀っています。その奥の十六神社の御祭神は、 河尻氏当主代々の奥方です。社殿向かって右手奥の歳神社は、大歳神・御歳神・若年神・宇迦之御魂神を祀っています。歳神社の右手の若宮稲荷大明神は、宇迦之御魂神を祀っています。
日本一と推定されている御神木の大柊は、古くから魔除けの霊木としての言い伝えがあります。また、若木のときには葉に刺があり、老木になると刺がとれ、丸くなることから長寿の守護木としても仰がれています。毎年、11月下旬ごろ開花し、周囲に大変心地よい香りを放ちます。
10月10日の例大祭で斎行される各種神事は、天正15年(1587)の御遷座に遡ります。御遷座の御祭典において加藤清正は、自ら群臣及び村民を率いて参列し、御神幸(神輿・傘鉾)、流鏑馬、飾り馬、下がり馬、風流舞、獅子舞、能楽、相撲などの儀式が盛大に奉仕されました。寛永9年(1632)細川忠利が領主となり、細川家に藩政が受け継がれてからも加藤清正の遺例を引継ぎ、篤い尊崇を寄せ、御祭典には役人を派遣し盛大に奉仕されました。
明治に入り、藩政が廃止されてからの御祭典は、川尻町が町組ごとに神輿や傘鉾、風流舞、獅子舞などを毎年奉仕し、その他の氏子が14の地域に分かれて、地区順に年行司となり輪番で流鏑馬、飾り馬、下がり馬などを古式ゆかしく奉仕しています。また25年ごとの式年祭には旧鎮座地の下益城の富合町小岩瀬まで神幸式があります。
[宮廻り]
奉納馬を先頭に
勢子の
囃子にのせて
御神殿を三回廻り、
氏子を代表して一年の感謝の意をあらわします。
[下がり馬]
一之鳥居から
二之鳥居までの
縦馬場を、ラッパが吹き鳴らされる中、馬のたてがみと
鞍をつかんだ
勢子が馬に下がったまま駆け抜け、神様に
人馬一体の妙技を披露し、
御神意を慰めます。
[流鏑馬]
最初に
二之鳥居前で、この世が平和で永久に続くことを願う
蟇目神事(
天長地久の
式)を行います。次に東西に延びる
横馬場での正副二人の
射手による馬上からの射かけの
神事へと移ります。古来より
宇土走潟から
奉納されている的は三つで、一の的は
天下泰平。二の的は
五穀豊穣。三の的は
万民安隠を祈願する的です。
的中・
不的中の結果で来年のそれぞれを占います。この
神事で
大祭は最高潮に達し、射貫かれた的が
御神殿に納められると
大祭も無事終了となります。