阿蘇谷東部に位置し、南には火口(神霊池)、北には国造神社や5世紀から6世紀頃の築造と推定される中通古墳群が点在する阿蘇神社は、阿蘇の国造りの主人公である健磐龍命を始め十二神を祀り、肥後國一宮として古代から重要な位置をしめしてきました。天地開闢以来の最も古い神社ともいわれ、社記によれば孝霊天皇9年(前282)6月に勅命を受けた健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた速瓶玉命が、両親を祀ったのに始まると伝えられています。延喜式神名帳によると、肥後國では式内社として健磐龍命神社、阿蘇比咩神社と国造神社の阿蘇三社と疋野神社が上げられています。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
…(略)…。肥後國四座[大一座・小三座]。阿蘇郡三座[大一座・小二座]。健磐龍命神社[名神大]、阿蘇比咩神社、國造神社。玉名郡一座[小]。疋野神社。
阿蘇山信仰は、火を噴く山を畏れ敬う火山信仰から始まりました。共に、農業に大切な清水の湧き出す地に健磐龍命が里宮として宮居したことから水の神でもあり、当地を稔り豊かな地として開拓した農の神でもあります。
神武天皇の孫神の健磐龍命は、勅命を受けて宇治郷より九州へ渡ったとされています。その後、宮崎・高千穂を経て、草部において阿蘇都比咩命を娶ります。太古の阿蘇はカルデラ湖でしたが、健磐龍命は満々とした湖水を流し出すために、外輪山の西側を足で蹴り崩し、湖内の水を干してこの地に住む人々に農耕の道を開いたと「阿蘇家伝」では伝えられています。
健磐龍命の名は弘仁14年(823)の「日本紀略」にその名が記され、早くから神霊池は健磐龍命の奥宮と見なされています。また、阿蘇の神話においては、健磐龍命が湖を開拓し、民に農耕を教え、狩りで獲た贄を天神地祇に供えて祭祀をしたことが、今に伝わっています。
記録と神話に示されるように、神霊池の異変や噴火を起こす不可思議な力を持つ神(火山神)の名は健磐龍命と名付けられ、神霊池は祈祷の対象として崇敬されました。8~10世紀の国史によれば、火口変動情報は度々朝廷に報告され、朝廷から健磐龍命に対する寄進や神階の上昇をもたらしました。
神霊池は上宮と呼ばれ、麓(宮地)の阿蘇神社は下宮と呼ばれました。また、平安後期以降は、山上への天台宗系寺坊の発達により、神霊池との関係は希薄になっていったと考えられています。
阿蘇神社で祀られている阿蘇の神々についての記述は、養老4年(720)に完成された「日本書紀」の景行天皇18年(88)6月の記述に見ることができます。
『日本書紀巻第四 - 景行天皇十八年六月丙子』
到阿蘇国也。其国郊原曠遠。不見人居。天皇曰。是国有人乎。時有二神。曰阿蘇都彦。阿蘇都媛。忽化人以遊詣之曰。吾二人在。何無人耶。故号其国曰阿蘇。
阿蘇國に到る。其の國、郊原の曠遠なりて、人の居るのを見ず。天皇曰く、是の國に人有るや。時に二神有りて曰く、阿蘇都彥、阿蘇都媛。忽ち人と化し遊詣を以って曰く「吾れら二人在り、何ぞ人の無けむ耶。」故に其の國を號して曰く阿蘇。
阿蘇山についての記述は、奈良時代初期(700年代前半)に編纂された「肥後國風土記」の逸文の記述にも見ることができます。
『肥後國風土記』逸文 ※出典『釋日本紀・卷十』
肥後國閼宗縣。縣坤廾餘里有一禿山。曰閼宗岳。頂有靈沼。石壁爲垣。計可縱五十丈、横百丈、深或廾丈或十五丈。清潭百尋、鋪白緑而爲質。彩浪五色絙黄金以分間。天下靈奇。出玆華矣。時々水滿、從南溢、流入于白川衆魚醉死。土人號苦水。其岳之爲勢也、中半天而傑峙、包四縣而開基。觸石興雲、爲五岳之最首。濫觴分水、寔群川之巨源。大徳巍々、諒人間之有一。奇形杳々伊天下之無雙。居在地心。故曰中岳。所謂閼宗神宮是也。
肥後國、閼宗の縣。縣の坤(南西)、二十餘里に一禿山有り、閼宗嶽と曰う。頂に靈沼有り、石壁、垣を爲す。計るに縱五十丈(約150m)、横百丈(約300m)なる可し。深さは、或いは二十丈(約60m)、或いは十五丈(約45m)。清潭百尋にして、白綠を鋪きて質と爲す。彩浪は五色にして黃金を絙へ、以って間を分わつ。天下の靈奇、玆に出づる華なり。時時水滿ち、南從り溢れ、流れて白川に入り、衆魚醉いて死す。土人號して苦水と日う。其の嶽の勢ち爲るや、半天に中て傑峙ち、四縣を包ねて基を開く。石に觸れて雲に興し、五嶽の最首爲り。觴を濫べて、水を分かち、寔に群れる川の巨きな源なり。大德の巍巍く、諒に人間の一として有り。奇形沓沓、伊れ天下の無雙。居まる地の心に在り。故に中嶽と曰う。所謂、閼宗神宮、是なり。
それ以前にも、中国の史書「随書・倭国伝」(636)に記述を見ることもできます。
『随書・倭国伝』
有阿蘇山。其石無故火起、接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色靑大如雞卵。夜則有光、云魚眼精也。
阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接する者、俗、以って異と爲し、因って禱祭を行う。如意寶珠有り、其の色靑く大きさは雞卵の如し。夜は則ち光有り、魚の眼の精也りと云う。
以上の記述から、阿蘇山への祈りは、6世紀以前から行われていたと考えられています。
創建以来、火山神を祀る祭祀を司ってきたのは健磐龍命の直系の子孫である阿蘇家です。阿蘇家は大宮司職として祖神に仕え、出雲大社の千家家、和歌山の日前・國縣神宮の紀家とともに日本の御三家といわれるにふさわしい旧家・名家とされています。平安後期の11世紀には武士化したとみられ、南郷谷や居城とした「濱の舘」(旧矢部町)などに居住し、以後16世紀末に衰退するまでの約500年間にわたって、封建的な在地領主の性格を有しました。広大な社領は、中世の阿蘇社の経済的な基盤となり、度重なる社殿の立替えと祭礼の執行を担保しました。阿蘇氏の繁栄によって、阿蘇神を祀る神社がこの時期に多く創建されたと考えられています。文禄2年(1593)に豊臣秀吉よって当主の阿蘇惟光が殺されますが、慶長6年(1601)に再興。以後、阿蘇に居住しています。
阿蘇十二神
[一の神殿] |
一宮 | 健磐龍命(神八井耳命の子で神武天皇の孫) |
三宮 | 國龍神 [吉見神・彦八井神] (阿蘇都比咩命の父で神武天皇の子) |
五宮 | 彦御子神 [惟人命](健磐龍命の孫) ※阿蘇大宮司家に繋がる系譜 |
七宮 | 新彦神(阿蘇都比咩命の兄弟で國龍神の子) |
九宮 | 若彦神(新彦神と彌比咩神の子) ※阿蘇神社社家に繋がる系譜 |
[二の神殿] |
二宮 | 阿蘇都比咩命(健磐龍命の妃で國龍神の子) |
四宮 | 比咩御子神(國龍神の妃) |
六宮 | 若比咩神(彦御子神の妃) |
八宮 | 新比咩神(新彦神と彌比咩神の娘) |
十宮 | 彌比咩神(新彦神の妃) |
[三の神殿] |
十一宮 | 速瓶玉命 [國造神](健磐龍命と阿蘇都比咩命の子) |
十二宮 | 金凝神 [綏靖天皇](健磐龍命の叔父で神武天皇の子) ※皇統に繋がる系譜 |
阿蘇の農耕祭事
阿蘇神社を今日まで護持したものは九州中部の農民の深く広い尊崇心でした。
稲作の祭りは、季節の推移に稲の生育という条件を加え、儀礼的(予祝→播種→田植→災除→収穫→予祝)に展開されます。阿蘇神社をはじめ阿蘇谷の関係社で行われる一連の祭りは、稲作儀礼の典型的な事例として学術的にも高く評価され、昭和57年(1982)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。これらの祭りは阿蘇谷全体の広範囲で展開され、近年まで禁忌を伴いながら暦生活の指標となっていました。各祭事の起源は定かではありませんが、元亨元年(1321)には御田祭の存在を確認することができます。
国指定重要無形民俗文化財「阿蘇の農耕祭事」の主な神事・祭事は次になります。
①踏歌節会(旧暦1月13日)
年初めに田歌を謡い始める儀式。田歌は田植歌が芸能化したとと言われています。内容は目出度い言葉で正月を祝い、阿蘇家の繁栄を願うもの。中世には大地の眠りを覚ますべく、足踏みの所作がともなっていました。
②卯の祭(3月初めての卯の日~次の卯の日までの13日間)
主祭神の健磐龍命が阿蘇に入った崇神天皇22年(前76年)春2月卯の日を記念し、期間中毎日、五穀豊穣を祈願して神楽を奏します。祭りの期間中には境内で「卯の市」が開かれ、近年まで賑わいをみせていました。中世には「下野狩」が行われ、その贄が神前に供えられていました。
③田作祭(卯の祭期間中、巳の日~亥の日までの7日間)
社家の祖先神とされる国龍神(年祢神ともいう)が結婚するという物語的な行事構成で斎行されます。稲作の開始前に、国龍神が結婚をすることで豊穣が約束され、国龍神は神輿に乗り、7日間にわたり毎夜異なる社家宅に泊まります。各社家宅では朝夕に神事と神楽が行われ、国龍神と社家の家族が共に食事をする宅祭が執り行われます。4日目の申の日には、妃神を迎える「御前迎え」が行われ、別動の神職2名が、早朝より西方約10キロにある宮山からの樫の木で作った妃神の御神体(神木)を迎えに行き、阿蘇神社までお連れします。途中で所定の場所(8カ所)に立ち寄りながら、嫁入り前の禊ぎや化粧の儀を済ませて夕刻に阿蘇神社に到着します。神社参道では住民が萱束に火をつけて、振り回して歓迎します。これが火振神事です。この火振神事の間に神婚の儀が行われます。7日目の最終日は満願日で、結婚した国龍神の前で豊作を祈念し、神職が稲作の耕作過程を模擬的に演じる田遊び(田作神事)を行います。
④風祭り(旧暦4月4日・旧暦7月4日)
稲作に害を及ぼす悪しき風を追い立て封じ込める神事。風の神を祀る2カ所の風宮神社(宮地と手野)において神事が行われます。2人の神職が異なる道を通って風を追い立てます。また、小豆飯が供えられ、カビのつき具合で豊凶を占います。
⑤御田祭・御田植神幸式(7月28日)
阿蘇神社に祀られている12柱の神々が4基の神輿に乗って行列を構成し、神社周辺の青田をめぐり稲の生育具合を見てまわる行事。これにお供をするのは、全身白装束の女性(宇奈利)など、約200人の行列。行列が進む間に田歌が謡われ、2カ所の御旅所に立ち寄ります。稲を神輿の屋根に向かって投げ上げる田植式が行われます。
⑥柄漏流神事(8月6日夜)
田歌の歌い納めの儀。氏子の約100人は、夜通し田歌を歌い街中を練り歩きます。季節は真夏で、体力が衰える時期。農作業に携わるものには睡魔が障害となりますが、夜通しの行事で睡魔を流してしまう趣旨があるとされています。
⑦田実祭(9月25日)
収穫の時期。稲作の完了を祭神に感謝し、最初の収穫米が神前に供えられます。合わせて各種奉納行事が催され、神事の「願の相撲」や流鏑馬が行われます。流鏑馬は、かつて中世阿蘇大宮司の武家的性格に由来するとされています。
⑧火焚き神事(8月19日~10月16日)
阿蘇神社の摂社である霜神社の御神体を温め続けることで農作物の霜除けを祈願するもの。阿蘇の神話では、健磐龍命が家来であった鬼八の粗相を咎めて首を斬ります。鬼八は死ぬ前に「傷口が痛い。天に昇ったら霜を降らせて農作物に害を与えてやる。」と言い残し果てます。その後、住民が霜の害に悩まされたため、健磐龍命が鬼八を祀り、首の傷口を温めるべく火焚神事が始まったと伝えられています。火焚神事の際には、火焚殿に童女が籠もり、本殿から移された御神体を温め続けます。かつては祭りの期間中に童女は、火焚殿から外に出ることが許されませんでした。現在は童女を選出する氏子地区の住民が、火焚の番を交代で務めています。
神社景観:社殿群
現在の社殿は天保6年(1835)から嘉永3年(1850)にかけて藩主の細川氏の援助を得て建造されました。「一の神殿・二の神殿・三の神殿・楼門・神幸門・還御門」の6棟は総欅造で、平成19年6月18日に国指定重要文化財に指定されました。神殿3棟と諸門3棟が東面して建ち、左右対称の景観が構成され、楼門の両脇には四脚門形式の神幸門と還御門が構えています。特に楼門は、神社建築には珍しい二層の屋根を持っているのが特徴で、九州最大の規模を誇っています。拝殿奥には、桁行・高さともに12mを超える五間社入母屋造の一の神殿と二の神殿、三間社流造の三の神殿とが近接して立ち並び、左右対称の景観が構成されています。屋根は、当初は柿葺でしたが、現在は銅板葺。軸部や組物には波頭紋や雲紋の華やかな彫刻が多用に施され、構法ともに江戸末期の建築的特色がよく現われています。
境内社など
「山王社(おさんのんさん)・庚申社」
社殿群の南脇に鎮座。慶安3年(1650)に境内末社として創立され崇敬されてきました。山王社は大国主命、庚申社は猿田彦命を祀っています。共に福徳増進、息災延命の御神徳新たかな神様で、特に子供の夜泣き、かん虫の病に格別の御利益があるとして、子供の守り神としてされています。病気が治ったら、御神前に山王社の神使である猿の人形をお供えし、お礼の気持ちをあらわす習わしがあります。
「南門守社・北門守社」
楼門前の南北を渡る参道の各入口に鎮座しています。境内の安全を守護する神として、門番の神として豊磐門戸神、櫛磐門戸神を祀っています。
「願掛け石」
拝殿前向かって右手奥に祀られています。往昔、阿蘇神社の御祭神である阿蘇大明神が、諸々の願いをこめて祖神の神霊に額づかれた「霊場の岩石」の一部と伝承され、保存されてきました。南北朝の時代には、祈願成就の神石として独自の信仰を得ます。室町時代の頃より、更に神霊を具現してその恩恵にあやからんと、神石に手ふれて願ごとを口々に唱えるようになったと伝えられています。尚、祈念にあたっては、先ず心に願いごとを念じ、神石を撫で更に三度願い事を唱えるべしとあります。
「高砂の松」
拝殿前向かって右手前に奉斎されています。夫婦愛・長寿の理想を現し、祝言を言祝ぐ謡曲の代表作として知られる「高砂」は、阿蘇家・第20代目当主にして初代・阿蘇神社大宮司となった阿蘇友成が、上京の途上、播磨国の高砂の浦にて相生の松の精である老人夫婦と出会った説話を題材としています。
高砂や この浦舟に帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出汐の
波の淡路の淡路や
遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住吉に着きにけり
はや住吉に着きにけり
その御縁から平成26年(2014)に高砂神社から「高砂の松」の苗を譲渡されました。良縁を望む人は、女性は右回りに2回、男性は左回りに2回、松の周りをまわり願掛けをすると成就すると伝えられています。