霧島神宮古宮址は、天暦年間(947-957)に性空上人が再興奉遷し、文暦元年(1234)の大噴火まで鎮座していた霧島神社の地で、現在は霧島神宮の飛び地境内になっています。
高千穂峰は、日本で最も古い書物である古事記および日本書紀に、瓊瓊杵尊が「筑紫日向高千穂久士流多気に天降りましき」「日向の襲の高千穂峯に天降ります」と記されている霊峰で、「延喜式」に日向国諸県郡霧島神社と登場する霧島神社は、遠い神代の古から御由縁のこの霊峯に奉斎していたと伝えられています。旧記によると欽明天皇(540-571)の御代、慶胤上人という僧に命じて、高千穂峰と火常峰(御鉢の旧名)の間の「脊門丘」に社殿が建立されたのが始まりとされます。
しかし、噴火のため焼失したため、村上天皇の天暦年間(947-957)天台宗の僧である性空上人が御鉢の西麓の当地「高千穂河原瀬多尾越」に再興奉遷しました。ここも噴火ため炎上し、文暦元年(1234)の大噴火により神殿、僧坊等がことごとく災禍に遭い、霧島神社は霧島市霧島田口の待世神社のあった地(霧島中学校北側)に仮宮として250年間奉斎されます。文明16年(1484)真言宗の僧、兼慶上人が島津氏第11代当主・島津忠昌の命をうけ、再興したのが現在の霧島神宮です。
高千穂河原には社殿の跡地が残るのみでしたが、昭和15年(1940)の皇紀2600年記念事業のひとつとして当地に聖蹟地として整備されました。
11月10日には、「天孫降臨記念祭・天孫降臨御神火祭」が斎行されてます。天孫降臨の道標として火を焚いて瓊瓊杵尊を迎えた故事にちなむもので、古宮址の神籬斎場と共に、高千穂峰頂上で夕闇迫る17時から、鑚り火により採火した御神火を松明に移し、崇敬者が願いを託した祈願札や絵馬が焼納され、国家安泰と国民の平安が祈念されています。また、九面太鼓や霧島神楽も奉納され、どなたでも参列できます。