九州の神社

鹿児島県・川上天満宮(鹿児島市)

由緒

御祭神ごさいじん 菅原道真公すがわらのみちざねこう北御方吉祥女きたのおかたきちじょうにょ

由緒

川上天満宮かわかみてんまんぐう創建そうけん不詳ふしょうですが、島津家しまづけ第5代当主とうしゅ島津貞久しまづさだひさ(1269-1363)が京都の北野天満宮きたのてんまんぐう御霊みたま勧請かんじょうをしたのが始まりとされています。島津氏しまづし崇敬すうけいの念深く、歴代の当主とうしゅ尊崇そんすうし、第19代当主とうしゅ島津光久しまづみつひさ(1616-1695)の代まで新年の正月には必ず三社詣さんしゃまいりとして一之宮大明神いちのみやだいみょうじん郡元こおりもと一之宮神社いちのみやじんじゃ)、二之宮にのみや宇治瀬うじせ草牟田そうむた鹿児島神社かごしまじんじゃ)、三之宮さんのみや川上天満宮かわかみてんまんぐう(当社)へ​もうでて五穀豊穣ごこくほうじょう無病息災むびょうそくさい祈願きがんしていました[1]。特に島津家久しまづいえひさ尊崇そんすうの念は極めてあつく、日参にっさん参籠さんろうされたこともありました[2]

御祭神ごさいじんとして、学問の神様として親しまれる菅原道真公すがわらのみちざねこうとその正室せいしつ北御方きたのおんかた)である吉祥女きっしょうめ[1]まつっています。

  • 勧請元かんじょうもと北野天満宮きたのてんまんぐうでは相殿神あいどのがみ西座にしざとして吉祥女きっしょうめ菅公北すがこうきたかた)を祀るが、鹿児島神社庁での記載は、御祭神ごさいじん菅原道真公すがわらのみちざねこうのみ[2]

明治15~17年(1882-1884)にかけて編成された『鹿児島県地誌かごしまけんちし』によれば、川上かわかみは、東は吉野よしの、西は岡之原おかのはら、南は下田しもた、北は宮之浦みやのうらに接し、島津氏しまづし文治年間ぶんじねんかん(1185-1190)以後統轄とうかつしました[3]

『鹿児島県地誌』 川上村

古時花棚村ト両村タリ後合シテ一村ト為ス[年号干支詳ナラズ]
-(略)-
「疆域」
東ハ吉野村両ハ岡ノ原ト吉田往還上伊敷村ト畔道ヲ以テ界シ南ハ山路ヲ以テ下田村ニ隣リ北ハ棈木川ノ中央ヲ以テ宮ノ浦村ニ界ス
「管轄沿革」
文治以降嶋津氏之ヲ統轄ス後嶋津頼久ノ子川上親久本村ヲ領シ子孫相承ク[天文中川上昌久寃ヲ以テ死ス其族川上城ニ據ル島津勝久之ヲ攻ム河田某村田某川上氏ヲ援ク勝久囲ヲ解テ退ク後島津忠良親久ノ子久隅ヲシテ本村ヲ領セシム]慶長ノ頃ヨリ鹿児島近在ト称シ嶋津氏ノ直隷タリ王政革新以後本懸ノ所管ト為ル
-(略)-
「里程」
鹿児島縣廳ヨリ北ニ距ル凡弐里[元標ハ村ノ中央字宮ノ迫ニ在リ]
東 重富駅エ凡三里
西 岡ノ原村元標エ凡弐拾五町
南 下田村元標エ凡凡拾八町
北 宮ノ浦村元標エ凡弐里半
東 吉野村元標エ凡壱里
-(略)-
「神社」
-(略)- 菅原神社[無格社社地壱反壱畝弐拾壱歩菅原道真ヲ祭ル例祭二月廿五日創建年月詳ナラス]

位置的に鹿児島市中心部と姶良・国分地方とを結ぶ主要な陸路であることから、その歴史は古く、県内でも出土例が少ない越州窯系青磁えっしゅうようけいせいじ緑釉陶器りょくゆうとうきを始めとする平安時代前半(9世紀中頃)の土師器はじき墨書土器ぼくしょどき・ヘラ書土器含む)、須恵器すえき、軽石製品などが加栗山遺跡かくりやまいせきから出土しており[4]、中世、島津氏しまづし川上氏かわかみしが当地を治める以前から集落が営われていたと考えられます。

考古学においても、「加治屋園技法かじやそのぎほう」と呼ばれる特殊な製作技法の旧石器時代(細石刃さいせきじん文化期・14300~12000年前)の細石刃さいせきじん、及び、約7300年前の鬼界きかいアカホヤ火山灰層の下の第5a層(縄文時代草創期)から粘土紐貼付文土器ねんどひもはりつけもんどきが発掘された加治屋園遺跡かじやそのいせき [5]。薩摩火山灰層(約11500年前)に掘り込んだ竪穴住居跡や多くの遺構、集落を築いた人々の用いた土器や石器が発掘された縄文時代早期前葉(約9千年前)の定住型集落である加栗山遺跡かくりやまいせき[6]といった、旧石器時代後期にも遡る遺跡が残されています。約7300年前の鬼界きかいカルデラ噴火により一時途絶しているものの、縄文中期の出土もあることから、古くから開拓が進められていた地と考えられています。

河上かわかみ川上かわかみ)という地名は室町期より見え、応永おうえい11年(1404)『島津元久宛行状しまづもとひさあておこないじょう』における「薩摩国鹿児嶋郡さつまのくにかごしまぐん河上村事かわかみむらのこと」の記述が初見と考えられています。この宛行状あておこないじょうにより、河上かわかみ川上かわかみ)の地が川上氏かわかみし第3代当主とうしゅ川上家久かわかみいえひさ宛行あてがわれました[7]川上氏かわかみしは、下層部を加栗山遺跡かくりやまいせきのほぼ全域とする栫山がくいやま川上城かわかみじょうを築城し、当地を治めたと考えられています[4]

『旧記雑録:前編二 巻三二「720 嫡子川上氏文書」』

薩摩國鹿兒嶋郡河上村事、親父上野入道存生之間者不可有子細候、於于後々者、嫡子三郞左衞門尉爲給恩所宛行也、仍雖爲親類兄弟、不可有違亂之儀、可領知之状如件、
應永十一年三月五日   元久(花押)
 河上三郎左衛門尉殿[家久]

古文書に「川上城かわかみじょう」の名が出るのは天文てんもん4年(1535)島津家しまづけ第14代当主とうしゅ島津勝久しまづかつひさが、自らに諫言かんげんした川上昌久かわかみまさひさを自害に追いやり、居城であった川上城かわかみじょうを落とさんと責めたものです。享和きょうわ2年(1802)に薩摩さつま大隅おおすみ日向ひょうが3ヵ国の編年史へんねんしとして成立した山本正誼やまもとまさよしによる『島津国史しまづこくし』にて記されており、この戦いの時、主人の川上昌久かわかみまさひさを失った奥方は、4歳になる嗣子つぐこ川上久隅かわかみひさずみ(1532-1611)を抱きながら士卒しそつを指揮して島津軍しまづぐんを破ったと伝えられています[9]

山本正誼『島津国史』巻之十六 大中公上

大翁公不君。黜退舊勳。擢用新進。末弘伯耆守小倉武藏守等尤被親幸。相與飮博。不恤政亊。上下解躰體。國家將亡。川上大和守昌久與朝臣十六人。共因島津實久以諫。弗納。冬十月二十五日。昌久等殺末弘伯耆守於谷山皇德寺。大翁公畏逼。乃奔禰寢。-(略)-。四年。乙未。夏四月三日。大翁公歸鹿兒嶋。召川上昌久於川上城。昌久至。待命於大興寺。遣鳥取某賜昌久死。以首進逆耳之言也。昌久自殺。又遣兵圍昌久妻於川上城。不克。

家督を継いでいた島津勝久しまづかつひさ。出水を本拠とする薩州家さっしゅうけ島津実久しまづさねひさ伊作いさく相州両家そうしゅうりょうけを領した島津忠良しまづただよし島津貴久しまづたかひさ。その三者による島津氏しまづし内乱の分水嶺となったのが「川上城かわかみじょうの戦い」でした。この敗北の結果、島津勝久しまづかつひさは、実母の実家である大友氏おおともし豊後国ぶんごのくにに逃れ、二度と薩摩さつまの地を踏むことはありませんでした。そしてこの戦いの後、島津忠良しまづただよし島津貴久しまづたかひさ島津実久しまづさねひさを排し、島津貴久しまづたかひさを第15代当主として薩摩統一さつまとういつが成されました。

2月25日、もしくは直前の日曜日の春祭はるまつりでは、明治時代に伝承されたとされる棒踊ぼうおどりが奉納ほうのうされています。3尺・6尺の棒と鎌を使っての数種類の踊りです[1]。昭和63年(1988)の『鹿児島短期大学研究紀要 (41)』では、①3尺棒と6尺棒、②6尺棒のみ、③シン棒(6尺棒だけで踊る)、④カマと6尺棒、⑤6尺棒とコムソー、以上の5種類としており、道中の長歌は伝承が途切れていると記しています[10]

近年は学問の神をまつ御社おやしろとして、合格祈願ごうかくきがんに参られる方々をはじめとする参拝者も多く、鹿児島市内北部の由緒ゆいしょある神社としてあつ崇敬すうけいされています。


【HP管理者覚書】

鹿児島市北部の川上かわかみ地区は、旧石器時代から縄文時代の遺構を残す加栗山遺跡かくりやまいせきがある地である。その加栗山遺跡かくりやまいせきは、県内でも出土例が少ない平安時代前半(9世紀中頃)の越州窯系青磁えっしゅうようけいせいじ緑釉陶器りょくゆうとうきが出土しており、その上層部は「川上城かわかみじょう」の遺構という重層的な遺跡である[6]。また、川上天満宮かわかみてんまんぐう周辺の狭いながらも平野部の土地は、肥沃な黒土くろつちとなっており、古くから稲作が可能な地域であったと考えられる[3]

川上氏かわかみしが当地を治めるようになったのが確認できるのは、応永おうえい11年(1404)『島津元久宛行状しまづもとひさあておこないじょう』における「薩摩国さつまのくに鹿児嶋郡かごしまぐん河上村事かわかみむらのこと」の記述が初見である[7]北野天満宮きたのてんまんぐうから川上天満宮かわかみてんまんぐうが勧請されたのが島津家しまづけ第5代当主とうしゅ島津貞久しまづさだひさ(1269-1363)であることから、川上氏かわかみし領主りょうしゅになる際、川上天満宮かわかみてんまんぐう産土神うぶすながみとして継承されたと推測される[1]

当時の戦乱の政情から鑑みて、既に築城されていたと推測されるが、「川上城かわかみじょう」の名が文献に見えるのは、享和きょうわ2年(1802)に編纂された『島津国史しまづこくし』が唯一のものである。天文4年(1535)島津家しまづけ第14代当主とうしゅ島津勝久しまづかつひさ国老こくろうとして諫言かんげんした川上昌久かわかみまさひさ川上昌久かわかみまさひさが、その翌年、島津勝久しまづかつひさにより自害に追い込まれる。続いて島津勝久しまづかつひさの正規軍が川上城かわかみじょうを攻めるも、籠城した川上軍は島津勝久しまづかつひさの軍勢を撃退したと『島津国史しまづこくし』では記している[9]

島津家しまづけ当主とうしゅであった島津勝久しまづかつひさの政治的背景は不安定であったにせよ、川上城かわかみじょうを攻めたのは島津軍しまづぐんの正規軍であり、それなりに充実していた陣容であったと考えて差し支えないだろう。その正規軍を、夫の川上昌久かわかみまさひさ川上昌久かわかみまさひさを自害という詰め腹を切らされた後、川上城かわかみじょうに残された奥方が城を護り通し、それが島津勝久しまづかつひさの瓦解へと連なったのであった。

そういった背景を持つのが「川上城かわかみじょう」である。そしてその発掘調査は、緑ヶ丘台地みどりがおかだいちの団地造成が終わった後に行われた高速道路造成の際、遺跡調査が行われ、中世の山城やまじろと同定された。それが現在の「川上城かわかみじょう」である[4]

高速道路造成、それより何よりも緑ヶ丘台地みどりがおかだいちの団地造成が終わった状況下で「川上城かわかみじょう」の遺跡調査は、再調査できる切っ掛けも遺構も望むべくもない状況と言って差し支えない。残念ながら、後述する緑ヶ丘台地みどりがおかだいち全体を山城やまじろとする「川上城かわかみじょう」ではなく、そのふちに微かに残った遺構を、「川上城かわかみじょう」の遺跡としたのが「川上城かわかみじょう」としたと推察されるのである。

なぜならば、地元に在住する立場からすると、どう考えても現状で指摘されている「川上城かわかみじょう」が、島津勝久しまづかつひさの正規軍による猛攻を跳ね返すだけの堅牢な城だとは到底考えられないからである。

兎にも角にも現状の「川上城かわかみじょう」は脆弱すぎるのだ。

緑ヶ丘台地から栫山
緑ヶ丘台地みどりがおかだいち中心部からの眺望。標高差40m。

現行の「川上城かわかみじょう」は、栫山がくいやま加栗山かくりやま)を山城やまじろとしたものである。しかし、40mの高台である緑ヶ丘台地みどりがおかだいちを征すれば、この栫山がくいやまは実に簡単に陣容を丸裸にできる。

南北に細く舌状に伸びた栫山がくいやまの西側は急激な崖で崩落している。南からは狭路となっているため進撃を止められるが、東側は無駄に広がって攻撃に対することとなる。攻めるに心許なく、防禦にも弱い。

これでは「常時」背水の陣の城である。つまり、易い城だ。

加えて、緑ヶ丘台地みどりがおかだいちからだと島津勝久しまづかつひさ本丸ほんまるとした清水城しみずじょうへの眺望は、ほぼ桜島一直線の線の上にある。但し、現行の「川上城かわかみじょう」は、遠方に対しての視野は全て山に囲まれ、東西南北、遠方への視野はどこにもない。

つまり、戦乱の世の山城やまじろとして地形・高低差・視野、その全てがあり得ない。しかし、その「川上城かわかみじょう」は、支持基盤が不安定ながらも島津軍しまづぐんの正規軍であった島津勝久しまづかつひさ軍を破ったのである。

ここにおいて、栫山がくいやまを「川上城かわかみじょう」とする現状での指摘が、本来の姿とは異なっていたのではないかという推察を可能にする。そして、現行の「川上城かわかみじょう」ではなく、緑ヶ丘台地みどりがおかだいち自体を空堀からぼりも含めた一回り大きな山城やまじろであると想定すると、忽然と堅牢な山城やまじろが出現する。

「川上城」推定地図

120m 
140m 
160m 
190m 
200m
参照:国土地理院 / 地図詳細(PDF・17.3M)

シラス台地の急峻な崖を四方に巡らし、南西・北東の二ヶ所に門を構えるだけで顕現する山城やまじろ。その山城やまじろは、守りに徹するだけでなく、敵の攻撃を招き入れつつ、背後に軍勢を回し遊撃できる。二重・三重に防御が構えられた堅牢な山城やまじろの姿が見えてくるのである。

ここで指摘しなければならないのは、標高図を見れば容易に推定できるこの山城やまじろの遺構は、団地造成によって既に壊滅し、推論に留まらざるを得ないことは最初に指摘しなければならない。論証は、現実に即して見るに不可能である。

その事を踏まえての結論としては、緑ヶ丘台地みどりがおかだいち自体を山城やまじろと考えれば、【本丸ほんまる】は上記地図の場所であると考えられる。何よりも東~南~西への眺望が開けている場所だからである。

緑ヶ丘台地みどりがおかだいちは、基本的に緑(140m)から薄茶(160m)、及び薄茶(160m)から茶(190m)は、急坂の東部以外はすべて急峻なシラス台地の崖になっている。南~西~北東までは崖であるため、四方からの攻撃に対処するのではなく、基本的に東からの攻撃を適切に対処すれば城として守り切れる。南から北西にかけて、入口になり得るのは、北東、又は南西の伊敷いしき方面からであるが、共に側面が崖になっている狭路である。つまり、この2ヶ所に【城門A】と【城門B】を構えれば良い。

但し、北東の【城門A】は、【攻勢4】だけでなく東から攻め上がる【攻勢3】が合流できる。しかし、【城門A】の東は崖のため、【攻勢3】が【攻勢4】に合流するには、【城門A】のすぐ前で折り返さなければならない。そのため結局は【城門A】の前で渋滞することとなる。

結果、攻め手としては【攻勢1・3・4】が本隊として攻撃。【攻勢2】は【攻勢5】の攻撃を実現するための部隊となる。しかし、【攻勢5】に抜ける道は【空堀からぼり】となっており、難路である。逆に川上城かわかみじょう側からすると、【攻勢2】によって【空堀からぼり】が突破されなければ【攻勢1~4】を引き付けた上で、南ノ城から遊撃する部隊を繰り出すことができる。そのため南ノ城の無力化なしには川上城かわかみじょうの攻略は難関である。

緑ヶ丘台地みどりがおかだいちからの眺望

  • 緑ヶ丘台地みどりがおかだいち、殊に最標高となる台地の南端部は東~南~西への眺望が開けている地である。
  • 東は、吉野台地までしか眺望は無いが、眼下にある姶良あいら国分こくぶと鹿児島市内を結ぶ街道の総てを一眼にできる。つまり、行き来の取り締まりが容易。
  • 南西の桜島を一望でき、鹿児島市内中心部への視野は確保できている。狼煙のろしなどの視野は容易。
  • 南部の開聞岳かいもんだけ金峰山きんぽうざん、そして清水城しみずじょう谷山城たにやまじょうへの視野が確保できている。北部は薩摩川内市に抜ける花尾岳はなおだけも望める。
  • つまり、薩摩藩の東西南北の要衝を掌握できる眺望を持ち合わせている。
  • しかし、現状の「川上城かわかみじょう」はその眺望の全てが無い。高低差により視野を確保できない。

城門A

  • 北東の岡之原おかのはらからの【攻勢4】、及び東の吉田街道からの北上する【攻勢3】を止める。
  • 北は急峻な崖。南は崖からの折り返し。吉田と岡之原おかのはらからの攻勢は最終的に非常に狭い城門に収斂する。
  • 城門を構えるだけで、北西~北東からの攻勢を抑えられる。
  • 但し城門が破られた場合、高低差はなだらか。
  • 一気に攻められる可能性があるため「本丸ほんまる」からは距離を確保した方が良い。
  • 【北ノ城】からの視野は北方のみで、南方への視野はないため、本丸ほんまるがあったとは考えにくい。

城門B

  • 南西部の伊敷いしきから攻め上がりに対しての城門。
  • 南北は急峻な崖。城門は、将に一点。
  • 両脇の崖を懸け登っての攻撃は実質不可能。

攻勢1~4

  • 東は南北に平地が広がっており陣を構えやすい。
  • 【攻勢1~4】を同時に攻めるのが常道か。
  • 【攻勢2】には、急な坂道で狭路の【空堀からぼり】で防衛。
  • 【攻略1】が攻めやすそうに見えるのは罠だから。
  • 【南ノ城】は、【空堀からぼり】の防衛と共に、実は敵の背後を取って攻撃するための遊撃部隊。
  • 【南ノ城】を攻略し、【空堀からぼり】を無効化していないと、【南ノ城】から遊撃で出陣した軍勢が背後から挟み撃ちすることになる。
  • 敵の攻勢としては、最初に【南ノ城】を攻め落とすことが最適解。
  • 続いて、空堀からぼり手前の高台の攻略になる。しかし【攻略1】の攻めが薄ければ、逆にそこから背後を衝かれることとなる。

ふもと(武家屋敷)

  • 南部の開けた平野部は水源が無いため、現在は畑地となっている。
  • 地図の薄茶(160m)を三の丸、茶(190m)を二の丸、焦茶(200m)を本丸ほんまると想定すれば、南部の平野部はふもと(武家屋敷)だったと考えられる。

以上である。つまり、緑ヶ丘台地みどりがおかだいちの南端が本丸ほんまるであったと想定すると、堅牢な山城やまじろが出現するのだ。そしてその本丸ほんまるは、薩摩半島全域に対しての眺望と、その防御性から鑑みて緑ヶ丘台地みどりがおかだいちの南端であったと推察して間違いがないかと思われるのである。

そして、当頁に則して川上天満宮かわかみてんまんぐうの位置付けを見た際、緑ヶ丘台地みどりがおかだいち川上城かわかみじょう本丸ほんまるがあり、その近くに川上天満宮かわかみてんまんぐう奥宮的おくみやてきやしろ鎮座ちんざしていた。其の上で棈木川あべきがわ沿いの田んぼの鎮守神ちんじゅがみ、及び里宮さとみやとしてあったのが現在の川上天満宮かわかみてんまんぐうなのではないかと推察する。緑ヶ丘団地みどりがおかだんちが造成された今となっては、確かめる術もないが、あながち間違っていないと言って良いのではないかと思う。


【参考文献】

  1. 川上天満宮を護り、心の拠り所とする会 有志一同『境内由緒書』,平成24年7月吉日. (参照 2023-06-30)
  2. 鹿児島県神社庁「川上天満宮」. 鹿児島県神社庁HP(参照 2023-06-30)
  3. 撰者不詳『鹿児島県地誌』巻二 鹿児島郡 下 P69&104-106,鹿児島県庁,明治15~17年(1882-1884). 鹿児島市HP (参照 2023-06-30)
  4. 吉元輝幸,有馬孝一『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書176:川上城跡』,鹿児島県立埋蔵文化財センター,2013. 全国遺跡報告総覧HP (参照 2023-06-30)
  5. 新東晃一,彌榮久志,池畑耕一,長野眞一『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書14:九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告Ⅵ6 -加治屋園遺跡 木の迫遺跡-』,鹿児島県教育委員会,1981-03. 全国遺跡報告総覧HP (参照 2023-06-30)
  6. 戸崎勝洋,青﨑和憲,立神次郎,吉永正史,牛ノ濱修,長野眞一,宮田栄二『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書16:九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告Ⅴ5 -加栗山遺跡 神ノ木山遺跡-』,鹿児島県教育委員会,1981-03. 全国遺跡報告総覧HP (参照 2023-06-30)
  7. 鹿児島県維新史料編さん所 編『鹿児島県史料:旧記雑録前編 二』P58,「720 嫡子川上氏文書」,1980-01. 鹿児島県HP (参照 2023-06-30)
  8. 鹿児島市史編さん委員会『鹿児島市史』第3巻 第3部 中世関係史料 P122,鹿児島市,1969-02. 鹿児島市HP (参照 2023-06-30)
  9. 山本正誼『島津国史』巻之十六 大中公上 P36-37,島津家編集所,明38年7月. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-06-30)
  10. 鹿児島短期大学図書委員会 編『鹿児島短期大学研究紀要』(41) P77,鹿児島短期大学,1988-03. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-06-30)

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情報

住所〒892-0875
鹿児島市川上町かわかみちょう834
創始そうし不詳ふしょう
社格しゃかく無格社むかくしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい11月25日
神事しんじ春祭はるまつり(2月25日か直前の日曜)
六月灯ろくがつどう(6月25日)
HP 公式HP / 鹿児島県神社庁 / Wikipedia

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