大隅町岩川に鎮座する八幡神社は、通称、岩川八幡、岩川八幡神社と称され、後一条天皇の御代、万寿2年(1025)に山城国(京都)の石清水八幡宮より岩崎氏、黒岩氏が勧請し、今の中之内(本八幡)の地に創建したと伝えられています。その後度々戦火に遭い、賊徒に御神宝なども奪われて衰微しましたが、棟札に「天文四年 檀越 藤原重忠 当地頭 伴兼豊 造立」とあり、肝付氏により再興されたことが知られています。
戊辰の役における伊勢家家臣団・私領五番隊の功績により岩川が末吉郷から分離独立したのに伴い、明治6年(1873)、旧岩川郷の郷社となりました。明治43年3月には、新田場地区の村社の伊勢神社、並びに無格社の竹山地区の藤原神社、折田地区の笠祇神社、西山地区の宇佐神社、当地の熊野神社を合祀しました。
旧鎮座地の中之内字川崎(本八幡)は、河川に沿い出水の恐れがあり、道路も不便であったので、大正3年9月1日に現在地に遷座。現在の鎮座地は旧岩川城址で、合祀された熊野神社があった地です。
昭和になり町民の負担と岩川町出身の実業家岩崎與八郎の寄付により、社殿の改築が行われ、昭和13年(1938)10月14日、落成式が盛大に挙行されました。この改築の時、山頂を1丈5尺(4.5m)地下げして、敷地が広げられました。
県下三大祭りとも称される「弥五郎どん祭り」で知られる例大祭は、古くは旧暦10月5日が本祭でしたが、現在は新暦に改め11月3日~5日までの三日間が祭日となっており、11月3日に県無形文化財の「弥五郎どんの浜下り(神幸行列)」が行われます。
浜下りで行列の先導役を勤める「弥五郎どん」は、竹カゴ編みの胴体に25反の梅染の単衣袴を白い帯で着用し、身の丈が1丈6尺(485cm)の大男で、腰に1丈4尺(424cm)と9尺4寸(285cm)の大小の刀差し、1丈8尺(540cm)の鉾を持ち車上に立っています。
「弥五郎どん」が何者なのかについては、様々な説がありますが、朝廷に抵抗した隼人族の首領、熊襲の末裔とも、朝廷側の大臣の武内宿禰とも言われています。
祭りは、深夜午前1時の触れ太鼓で始まります。触れ太鼓とともに「弥五郎どん起こし」がはじまり、「弥五郎どんが起きっど」と町中に触れ回ります。午前2時、弥五郎どんの組立てを開始。午前4時に弥五郎どんに綱を付けて引き起こす「弥五郎どん起こし」。午前6時には、着物や刀で身支度を調えられ、弥五郎どんは車上に立ち上がります。この「弥五郎どん起こし」に参加すれば、身体が強壮になり、運気が益々目出度くなるという信仰で、大勢の人たちが夜明け前から参加します。
午前中の例大祭の神事と弥五郎太鼓の奉納の後、午後1時から台車に乗った「弥五郎どん」を小学生達が綱で引いて神社を出発し、「弥五郎どんの浜下り(神幸行列)」が始まります。
行列は、「弥五郎どん」を先頭に宮仕・前行・御神輿・供奉と続きます。宮仕は、石清水八幡宮から勧請された時に、随行してきた10人ほどの社人のことで、浜下りで幟旗・威儀物を捧持して御神輿の先導役を務める栄誉は、今でもその宮仕の末裔が担っています。
午後2時ごろ、御旅所に到着し、地域の平安と繁栄を祈願する神事が執り行われます。その後、帰路に着き、見物者や屋台が溢れる中を押し分けながら午後4時ごろに神社に帰着します。約3時間かけて町中を練り歩いた「弥五郎どん」は、例大祭の本祭が斎行される5日まで境内に安置されます。
天保14年(1843)の島津藩が制作した「三國名勝図絵」でも、
「祭祀十月五日、其日華表ヨリ一町許距レル処ニ浜下ノ式アリ、大人ノ形ヲ作テ先払トス。身ノ長ケ一丈六尺、梅染単衣ヲ著テ、刀大小ヲ偑ビ、四輪車ノ上ニ立ツ。此ノ人形ハ土人伝ヘテ大人弥五郎トイヒ、又式内宿禰󠄀ナリトイウ」
と記され、江戸時代の当時から、祭りの姿や「弥五郎どん」の形はほとんど変わらず伝えられており、「弥五郎どん」は健康長寿の神様、そして何より大隅国の守護神、大隅隼人の守護神として、人々の厚い尊崇を受けています。
境内には、社殿前、北東に伊勢神宮と皇居の遙拝所。鳥居から参道の中ほどまでに、戊辰戦役記念碑、明治維新百年碑と日露戦役記念碑。そして坂道の中ほどに大東亜戦争戦没者慰霊塔と豊磐間戸神と櫛磐間戸神を祀る門守社が鎮座しています。