九州の神社

鹿児島県・稲荷神社(日置市東市来町)

由緒

御祭神ごさいじん 稲倉魂之命うかのみたまのみこと:米の神・商売繁盛
猿田彦大神さるたひこのおおかみ道開みちびらきの神
宮毘姫之命みやびひめのみこと:踊りや音楽、芸能の神・学問の神
八幡大神はちまんおおかみ:戦いに勝利する神

由緒

市来郷いちきごう総廟そうびょうとされる稲荷神社いなりじんじゃは、島津家初代しまづけしょだい島津忠久しまづただひさ薩摩守護職さつましゅごしきに任用された折[一説では承久じょうきゅう3年(1221)]、創建されたと伝えられる鹿児島最古の稲荷神社いなりじんじゃです。

島津本宗家しまづほんそうけが現在基本としている系図である『島津氏正統系図しまづしせいとうけいず』によれば、島津家初代しまづけしょだい島津忠久しまづただひさは、治承じしょう3年(1179)丹後局たんごのつぼねは、を母親として住吉大社すみよしたいしゃにて出生しました。丹後局たんごのつぼねは、比企能員ひきよしかずの妹で、源頼朝みなもとのよりともの寵愛を受けて子を宿すも、正妻の北条政子ほうじょうまさこ平政子たいらのまさこ)からの嫉妬を受けて命を狙われます。丹後局たんごのつぼねは害せられることを恐れ、関東(鎌倉)を出て、摂州せっしゅう(大坂)に赴きます。夜になり旅宿を里人に求めるも許されず、大雨が降り真暗闇の中で産気づきます。丹後局たんごのつぼね住吉神社すみよしじんじゃ(現・住吉大社すみよしたいしゃ)に入り、瑞垣みずがきかたわらにあった石の上にうづくまると、その時、狐火きつねびが暗を照らして助けたので無事男児を産むことができたのでした。その男児が島津忠久しまづただひさとされています。

今ではその石は産石うぶいし誕生石たんじょうせきと名付けられ、住吉大社すみよしたいしゃまつられています。住吉大社すみよしたいしゃでは末社まっしゃとして稲荷大神いなりおおかみ倉稲魂命うかのみたまのみこと宇迦魂命うかのみたまのみこと)がまつられており、夜の狐火きつねびはその神の助けだとされました。その伝承から島津家しまづけ稲荷大明神いなりだいみょうじん氏神うじがみとするようになり、雨が降るのを嘉瑞かずいとして「島津雨しまづあめ」と称するようになりました。後に丹後局たんごのつぼねは関東(鎌倉)に戻り、惟宗広言これむねのひろことに嫁ぐこととなりました。

尚、源氏げんじ氏神うじがみ八幡神はちまんしんである中、稲荷大神いなりおおかみ氏神うじがみとしたのは、惟宗氏これむねし秦氏はたうじより出で、秦氏はたうじ氏神うじがみ稲荷大神いなりおおかみであったことに由来するとの指摘もあります。

『島津氏正統系図:忠久』

治承三年己亥誕生攝州住吉、母丹後局也、雖爲賴家・實朝之兄不補家督以生他腹也、
傳稱、初比企判官能員妹丹後局幸於賴朝卿而有身賴朝妻平政子妬忌以遂之、丹後局畏其被害而出關東赴上方到攝州住吉、夜求旅宿里人不許之、時大雨甚闇忽有産氣、乃入社邊籬傍踞石上、時會狐火、照暗遂産男子、是卽忠久也、時治承三年也、至今號其石稱産石、住吉末社有稻荷盖其夜狐火者此神之助也、故號島津稻荷且島津家以雨爲嘉瑞者此故也、其後丹後局潛下向關東以嫁惟宗民部大輔廣言、故忠久亦冒惟宗氏、然實賴朝卿子也、

島津忠久しまづただひさ薩摩さつま守護職しゅごしきに任用された折に自らの出生譚しゅっせいたん霊験れいげんを偲び、又は丹後局たんごのつぼね鍋ヶ城なべがじょうに在住の時、住吉大社すみよしたいしゃ稲荷神社いなりじんじゃ勧請かんじょう。一説には、承久じょうきゅう3年(1221)の創建そうけんとされ、鹿児島最古の稲荷神社いなりじんじゃで、稲荷信仰いなりしんこうの発祥の地とされています。

天明てんめい7年(1787)に書かれ、文政ぶんせい10年(1827)の写本しゃほん臼井家うすいけに伝わる『薩州日置郡市来さっしゅうひおきぐんいちき総廟そうびょう稲荷大明神いなりだいみょうじん御由緒ごゆいしょ』では、旧記きゅうきは残されていないものの、丹後局たんごのつぼね市来いちき鍋ヶ城なべがじょうに居住した時に、御神霊ごしんれいを安置し、10町8反[湯田村ゆだむら:8町8反 / 5反:大里村おおさとむら / 5反:伊作田村いさいだむら / 1町:大隅串良おおすみくしら]の知行ちぎょう御祭料ごさいりょうとして寄附したと伝えています。

天保てんぽう14年(1843)編纂へんさんの『三国名勝図会さんごくめいしょうずえ』では市来郷史いちきごう呈状ていじょうを引用し、惟宗広言これむねのひろことは、丹後局たんごのつぼねと共に下向げこうし、鍋ヶ城なべがじょうに居住したと伝えています。丹後局たんごのつぼねが、市来駅いちきえき前の船着場跡ふなつきばあとに着くと、原野松林の間に砂磧しゃせき相連あいつらり、海上の風景は殊に勝れて、鎌倉の地形のようでした。南の赤崎浜あかさきはまは、鎌倉由比ヶ浜かまくらゆいがはまに似ていることから鍋ヶ城なべがじょうに居を定め、鎌倉七社かまくらななしゃ、及び厳島明神いつくしまみょうじんなどの神社仏閣じんじゃぶっかくを建立したと伝えています。

明治15~17年(1882-1884)にかけて編纂へんさんされた『鹿児島県地誌かごしまけんちし』の参考史料とされた諸家系図しょかけいず古文書類こもんじょるい浄写じょうしゃした『旧記雑録きゅうきざつろく拾遺地誌備考しゅういちしびこう』では、建久けんきゅう7年(1196)島津忠久しまづただひさ薩摩さつま守護職しゅごしきに補せらると共に下向げこうし、鍋ヶ城なべがじょうに居住したとされています。

『薩州日置郡市来総廟稲荷大明神御由緒』(臼井家文書)』

[記:天明7年(1787)/写:文政10年(1827)]

旧記無之候而茂申伝候次第申上候様被仰渡趣承和仕左之通申上候
-(略)-
一、丹後之御局様市来鍋ヶ城御在城之節被遊御安置御祭料御寄附之知行拾町八反、内八町八反湯田村、五反大里村 五反伊作田村、壱町隅州串良之内浮免御寄附為被遊申申伝候
一、御安置者承久三年と申伝候


『三国名勝図会:鍋ヶ城』天保14年(1843)編纂

又市来郷吏の呈状に曰、惟宗広言は、丹後局と共に薩州に下向し、鍋ヶ城に居る、又曰、丹後局御下向の時、薩摩渡瀬に着玉ひしに、原野松林の間に一帯の沙磧相連り、海上の風景殊に勝れ、地形鎌倉に類し、南の方にある赤崎濱といへる地は、鎌倉由比ヶ浜に似たりとて、即ち鍋ヶ城に居を定められ、且鎌倉の七社、及び厳島明神、其外神社仏閣を處々に建立し玉ひしなり。


『旧記雑録拾遺地誌備考二:日置郡地誌備考「市来郷」』

伊地知季安(明治30年頃まで編纂)

「市来氏系図」
廣言
筑後守 號八文字民部大輔、五品 日向國司
丹後局幸于頼朝公生男子、避御臺所政子之嫉妬、賜丹後局於廣言、故所其生之幼子亦成長于廣言之家、而后號忠久、○傳稱、廣言晩年従忠久下向于薩州、領市来院在城焉、○承元二年戊辰九月十九日廣言卒、七十六、

往古おうこは、三座さんざで「稲倉魂之命うかのみたまのかみ猿田彦大神さるたひこのおおかみ宮毘姫之命みやびひめのみこと大宮女姫おおみやのめひめ)」をまつっていたとされますが、『鹿児島県地誌かごしまけんちし』では「伊弉冊尊いざなみのみこと稲倉魂命うかのみたまのみこと瓊々杵尊ににぎのみこと」と伝えています。

旧社地きゅうしゃちは、現鎮座地げんちんざちから国道3号線沿いの南東部約450mの田之湯たのゆでした。年次は不詳ながらも島津家しまづけ9代当主・島津忠国しまづただくに(在位:応永おうえい32年~長禄ちょうろく3年[1425-1459])の時、鹿児島に分社ぶんしゃされることとなり、知行ちぎょうは召し上げられるも、御神体ごしんたいは当神社に置き、御幣ごへいのみ勧請かんじょうされました。また、まつられていた阿吽あうん狛犬像こまいぬぞうの一体も勧請かんじょうされる際に移されたと伝えられています。鹿児島の稲荷神社いなりじんじゃにはその狛犬こまいぬは残されていないものの、当神社の境内けいだいには正徳しょうとく5年(1715)3月に庚申供養こうしんくようで再建した阿吽像あうんぞうと、吽像うんぞうの手前に建立の板碑いたびが残されています。尚、勧請かんじょうされた稲荷神社いなりじんじゃは、鹿児島五社かごしまごしゃの一社となり、現在は稲荷町いなりちょう鎮座ちんざしています。

その後、島津義弘しまづよしひろが晩年に記した自伝『惟新公御自記いしんこうごじき』によれば、島津義弘しまづよしひろ泗川城しせんじょうにて明軍みんぐんと対した際、白狐びゃっこ赤狐あかぎつねが突如として現れ、島津軍しまづぐんを助けたとされています。それを受けて帰朝後きちょうご白狐びゃっこ赤狐あかぎつね神霊しんれいを合わせまつり、五座ござになったとされています。

『惟新公御自記』

予者於泗川息宰相家久相共令在番處自江南催数百万騎襲來日本之諸陣就中於泗川茅老爺為大将慶長三年戊戌十月一日如雲霞寄來而取巻要害揚吐氣聲放鉄砲種々戦術動揺轟天地誠難遁消息也夫日本神國非佛天之擁護争開此運哉平生之信心在此時与祈念心中指懸屏涯見敵之模様双楯傾甲頻欲攻伏不一戦而於及籠城者敵踏夲國之地軍衆之兵粮矢種等可任心味方者纔一城之人数日本者隔数百里之蒼海易難得加勢之間欲遂安否之一戦而陣中鎮鳴近敵於矢比揚吐氣聲斬出一同於是家久懸入猛勢之中自砕手被尽粉骨見之諸卒弥成勇斬懸不思議哉白狐赤狐出現走入敵軍之中即稲荷大神之御告無疑也哀哉両狐中矢而果畢如此因神慮之深無量斬崩猛勢追亡追北伏屍不知幾千万流血漂楯而集首三万八千七百有餘其外討捨不知数也日本開闢以來無比類次第云々


予は泗川に於いて息宰相家久と相共に在番せしむる處、江南より数百万騎を催し襲来す。日本の諸陣、就中、泗川に於いて茅老爺大将と為りて、慶長三年戊戌十月一日、雲霞の如く寄せ来たりて要害を取り巻き、吐気の声を揚げ、鉄砲を放ち、種々の戦術をして動き揺がせ、天地を轟かす。誠に遁れ難き消息なり。夫れ日本は神国にして仏天の擁護に非ずんば、争でか此の運を開かん哉。平生の信心此の時に在りと、心中に祈念し、屏涯に指し懸かり、敵の模様を見るに、楯を双べ甲を傾け、頻りに攻め伏さんと欲す。一戦もせずして籠城に及んでは、敵は本国の地を踏み、軍衆の兵糧矢種等心に任す可し。味方は纔かに一城の人数のみ。日本は数百里の蒼海を隔て、易く加勢を得難きの間、安否の一戦を遂げんと欲して陣中に鳴りを鎮め、敵を矢比に近づけ、吐気の声を揚げ、一同に斬り出だす。是れに於いて、家久猛勢の中に懸け入り、自ら手を砕き、粉骨を尽さる。之を見た諸卒弥々勇を成し斬り懸かる。不思議なる哉。白狐・赤狐出現し、走りて敵軍の中に入る。即ち稲荷大神の御告げなること疑い無きなり。哀れなる哉。両狐矢に中りて果て畢んぬ。此くの如く神慮の深きに因り、量り無き猛勢を斬り崩し、亡びるを追い北るる追い、屍を伏すこと幾千万を知らず。流るる血は楯に漂い、集るる首は三万八千七百有余。其の外討ち捨てるものは数を知らざるなり。日本開闢以来、比類無き次第と云々。


私は泗川しせんに於いて息子の宰相家久さいしょういえひさと相共に守護に当っていた處、敵方は江南こうなんより数百万騎を導引し、、大挙して襲って来た。日本の諸陣、就中、私が護っていた泗川しせんでは、茅国器ぼうこくきが大将と為って、慶長けいちょう三年戊戌つちのえいぬ十月一日、大軍を卒いて雲霞うんかの如く押し寄せて来て、要害を包囲した。敵軍は吐気ときの声を揚げて鉄砲を放ち、種々の戦術を使い、猛勢をもって騒動を起こし、天地を轟かせた。誠にこの危地きちからはのがれ難い様子であった。ところで日本は神国しんこくであり、仏神の擁護なくして、どうしてこの運を開くことが出来ようか。平生の信心とはこのような時にこそ在るのだと心中に祈念し、城塀じょうへいの端から敵の様子を見ると、敵軍は楯を並べ、甲を身構え、今にも我が薩摩軍さつまぐんを攻め亡さんとして構えていた。一戦も交えずして籠城していては、敵方は自国の土を踏み、軍兵達の兵糧ひょうろう、矢等の武器類は思いのままに集めることが出来る。それに対して味方はわずかに一城の軍勢のみに過ぎない。その上、日本は数百里の青海原あおうなばらを隔てた彼方かなたにあり、容易に加勢を得ることは出来ない。そこで、薩摩軍さつまぐんは勝敗を決する決戦を遂げんと、陣中に鳴りをひそめ、敵を矢の届く所まで近づけておいて、吐気ときの声を揚げ、一同一斉に斬って出た。ここに家久いえひさは自ら猛勢の中に懸け入り、粉骨砕身ふんこつさいしんの大活躍をしたので、これを見た味方の兵卒等は、弥々いよいよ勇戦激斗ゆうせんげきとうして敵兵に斬って懸かった。不思議な事にこの時、白狐びゃっこ赤狐あかぎつねが現われ、敵軍の中に駆け込んだ。即ちこれは稲荷大神いなりおおかみ吉事きちじ御告おつげであることは間違いない。哀れなことにこの二匹の狐は矢に中って死んでしまった。然しながら、このような神慮しんりょの深きによって、島津軍しまづぐんは想像を絶するほどの多数の敵の猛勢を壊滅させ、亡びゆく者を追い、逃れる者を追った。討たれた敵の屍は幾千万とも、数えようも無かった。流れる血は楯に溢れ、集められた首は三万八千七百有余りにも及び、その外にも討ち捨てた者は数知れぬほどであった。このような戦果を上げたのは日本開闢以来ひのもとかいびゃくいらい、比類無き次第であった。云々。

天和てんな3年(1683)8月、藩の造営奉行ぞうえいぶぎょうで日吉町出身の禰寝清雄ねじめきよかつが訪れ、「当地は、平地で神の御威光ごいこうが高くない。適当な霊地れいちはないか」と問い、伊集院休兵衛いじゅういんきゅうべえ萩原五兵衛はぎはらごへえ、大庄屋の折田宗兵衛おりたそうべえが現在の鎮座地ちんざちを選定しました。同年9月4日に現鎮座地げんちんざち遷座せんざされました。遷座せんざは新田開発のためともされ、旧社地きゅうしゃちには、寛文かんぶん8年(1668)11月に建立された一本鳥居柱いっぽんとりいはしらが残されました。また、別当寺べっとうじである真言宗しんごんしゅう桂峰山宝持院けいほうざんほうじいん大明寺だいみょうじ貞享じょうきょう元年(1684)に左隣に移転しました。この遷座せんざの次第は、大明寺跡だいみょうじあと石塔せきとうに刻まれています。尚、現在、一本鳥居柱いっぽんとりいはしらは道路拡張のため旧社地きゅうしゃちから約20mほど西に移設されています。

社領しゃりょうは、稲荷免いなりめんと唱し、明治維新前までは2反余ありました。毎年祭米5斗2升5合も下附かふされていましたが、明治元年(1868)に社領しゃりょうは没収されました。明治6年(1873)5月に郷社ごうしゃ列格れっかく。明治39年12月26日に神饌幣帛料しんせんへいはくりょう供進指定きょうしんしていを受けました。

往昔おうせきは10月19日に例祭れいさい斎行さいこうされ、流鏑馬やぶさめなどがあり賑やかであったと伝えられています。島津家初代しまづけしょだい島津忠久しまづただひさ着初きぞめのよろい寄進きしんされていましたが、天明てんめい7年(1786)引き揚げられ、寛政かんせい4年(1792)2月15日代替えのよろい奉納ほうのうされたとされています。昭和49年(1974)11月16日、神殿しんでんから甲冑かっちゅうが盗まれるも、藩主はんしゅから授けられた島津しまづ紋章もんしょうが入っていたことから、古物商に売却していたものが見つかり無事神社へ返還されました。

平成26年(2014)4月8日に由須原八幡神社ゆすはらはちまんじんじゃ合祀ごうし。代々島津家しまづけ氏神うじがみとしてあつく信仰され、また鹿児島の稲荷信仰いなりしんこうの始まりとして広く一般の崇敬すうけいを集めています。


境内社けいだいしゃなど】

「ヤッコソウ発生地」

国指定天然記念物:ヤッコソウ発生地

大正11年(1922)3月8日に国指定天然記念物に指定。稲荷神社いなりじんじゃ裏山うらやまの、しいの木の根元に10月から11月に発生する顕花植物けんかしょくぶつです。高さが3~4cmでその姿が「やっこ」の姿に似ていることから明治41年(1908)牧野富太郎まきのとみたろうによって命名発表されました。 世界最大の花を咲かせるラフレシア科の植物で、シイ属の植物の根に寄生する1年生の種子植物です。10月~11月に高さ約7cmの鱗片葉りんぺいようのついた花茎かけいを出し、頂端ちょうたんに白色の花を1個つける雌雄同体しゆうどうたいの植物です。花には蜜があり小鳥などが吸いに来ることもあります。嘉永年間かえいねんかん(1848~1853)には、奄美大島あまみおおしま配流はいるされた名越左源太なごやさげんたが『南島雑話なんとうざつわ』の中で、珍しい植物があるとこの植物を図入りで説明しています。分布は四国・九州南部、種子島たねがしま屋久島やくしま奄美あまみ・沖縄ですが、各自生地での発生個体は少なく、産地も減少しています。東市来町湯田ひがしいちきちょうゆだの指定地は、稲荷神社いなりじんじゃ境内けいだいの右手の横約100㎡ です。指定地以外では、神社の裏山うらやま一帯、付近の民有林です。遠くは皆田地区かいだちく、いちき串木野市大里くしきのしおおさと宇都地区うとちく、いちき串木野市冠岳くしきのしかんむりだけ吹上町ふきあげちょうなどにも見られます。

仁王像におうぞう

昭和49年(1974)に日置市指定彫刻ひおきししていちょうこくに指定。鳥居とりいの左右に建てられた、面貌めんぼう鋭く精巧に作られた石像です。高さ232cmの阿像あぞうには正徳しょうとく5年(1715)3月の建立と刻まれています。高さ239cmの吽像うんぞうには石切いしきり神主かんぬしあつかいめいが刻まれています。

狛犬こまいぬ

狛犬

仁王像におうぞうを過ぎて左右にまつられています。島津家しまづけ9代当主・島津忠国しまづただくに(在位:応永おうえい32年~長禄ちょうろく3年[1425-1459])の時、鹿児島に分社ぶんしゃされた際、当時まつられていた阿吽あうん狛犬像こまいぬぞうの一体も移されたと伝えられています。鹿児島の稲荷神社いなりじんじゃにはその狛犬こまいぬは残されていないものの、当神社の境内けいだいには正徳しょうとく5年(1715)3月に庚申供養こうしんくようで再建した阿吽像あうんぞうと、吽像うんぞうの手前に建立の板碑いたびが残されています。向かって右の阿像あぞうは高さ87cm、左の吽像うんぞうは高さ84cmです。

門守神社かどもりじんじゃ

参道さんどうの階段前、左右に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして境内けいだいの門番に当たる豊磐間戸命とよいわまどのみこと櫛磐間戸命くしいわまどのみことまつっています。明治41年(1908)2月の建立。

御田植祭おたうえさい牛面ぎゅうめん

日置市指定有形民俗文化財ひおきししていゆうけいみんぞくぶんかざい。3月3日の御田植祭おたうえさいで使用されるのがこの牛面ぎゅうめんで、5点が存在しています。稲荷神社いなりじんじゃ御田植祭おたうえさいは戦前までは東西の市来住民いちきじゅうみんが盛んに行なっていましたが、現在は東市来町ひがしいちきちょう湯之元校区ゆのもとこうくが中心となって行なっています。

青面金剛像しょうめんこんごうぞう

青面金剛像

境内けいだい向かって右手参道さんどうの一番手前にまつられています。平成10年(1998)に日置市指定彫刻ひおきししていちょうこくに指定。享和きょうわ3年(1803)庚申供養こうしんくようで建てられたものです。顔は憤怒ふんぬ形相ぎょうそうで、火焔かえんの髪を逆立てていかめしく、脚下きゃっかに悪魔を踏む形になっています。上部に日輪にちりん月輪げつりん、左側下に鶏2羽、右側下に猿3匹が彫られています。高さは122cmで浮き彫り造り。青面金剛像しょうめんこんごうぞうは県内に100体以上ありますが、ほとんどは大隅半島おおすみはんとうで、薩摩半島さつまはんとうでは珍しいとされています。

石仏せきぶつ

境内けいだい向かって右手参道さんどう青面金剛像しょうめんこんごうぞうの奥にまつられています。廃仏毀釈はいぶつきしゃくで埋められていたものを向湯田むかゆだ法者ほうじゃどんが、御夢想ごむそうをうけ、土中から堀り出したと伝えられています。

五輪塔ごりんとう宝篋印塔ほうきょういんとう連碑れんぴ

境内けいだい向かって右手参道さんどう石仏せきぶつの奥にまつられています。五輪塔ごりんとう宝篋印塔ほうきょういんとうは、神宮寺じんぐうじであった東隣りの大明寺だいみょうじの住職の墓とも考えられています。連碑れんぴ板碑いたびが繋がったものです。

山神やまのかみ山元家やまもとけ氏神うじがみ

境内けいだい向かって右手参道さんどう、3基並ぶ石祠いしほこらの手前にまつられています。右手が山元家やまもとけ氏神うじがみ。左手が山神やまのかみです。古文書こもんじょによると山元家やまもとけは古くから稲荷神社いなりじんじゃにかかわってきた家柄と伝えられています。山神やまのかみは明治3年(1870)の建立です。

元稲荷もといなり五重塔残欠ごじゅうのとうざんけつ

元稲荷と五重塔残欠

境内けいだい向かって右手参道さんどう、3基並ぶ石祠いしほこらの左手奥にまつられています。天和てんな3年(1683)旧鎮座地きゅうちんざち田之湯たのゆから当地に遷座せんざした際、田之湯たのゆには石鳥居一本いしとりいいっぽんが田の中に残され、石の小祠しょうし元稲荷もといなり)が置かれました。その後、昭和53年(1978)12月、国道3号線の拡張工事に際し遷座せんざすることとなり、現在の場所にまつられることとなりました。

不動明王ふどうみょうおう石祠いしほこら

社殿しゃでん向かって右手後方の裏山うらやま入口に鎮座ちんざ元禄げんろく4年(1691)建立。


神事しんじ祭事さいじ

御田植祭おたうえさい

往昔おうせきは旧暦の2月3日行われて、現在は3月3日に斎行さいこうされる豊作を祈る由緒深い祭典です。いつから祭祀さいしが始まったかは不詳ながらも、天明てんめい7年(1787)に記された『薩州日置郡市来さっしゅうひおきぐんいちき総廟そうびょう稲荷大明神いなりだいみょうじん御由緒ごゆいしょ』によれば、湯田村ゆだむら在住のものは米を出し、氏子うじこは金を出して盛大にまつったと伝えています。

当日は、午前11時から祭りは始まり、神官しんかん奏楽裡そうがくのうち降神こうしんを行い、お田植たうええに移ります。境内けいだいに水田をかたどった土俵ぐらいの広さの所で、木製のくわを持った者が横に数人並び、田を耕す仕草をします。頬被ほおかむりして、尻をまくりあげ、畦塗あぜぬりの恰好をして「あぜが塗れたぞ、水がくっど」と叫びます。そして神主かんぬしがしべを持って田の周囲を回ると、牛を引く者が出てきて「ホーホー」と甲高い声を出して田ならしが始まります。

力の強い雄牛(こって牛)は尻に米を入れた白い袋を下げ、古いおそろしい牛面ぎゅうめんかんむっています。親牛が田ならしをすると、付いてきた子牛が邪魔をして、親牛は腹を立てて逃げてしまいます。連れ戻してきて作業を始めても、子牛がすぐに悪戯を再開し、親牛も子牛も暴れ出します。観客を角で突いたり、走り回り、泥を飛ばせたり投げようとして観客は悲鳴を上げて逃げまわります。

田ならしを終えるとしいの木の葉を撒き散らし、堆肥として踏み込みます。次に神官しんかんは、もみを蒔き「今蒔いたのに、もう苗ができた」と大声で言い、田植えの仕草で松葉を配り、植えます。そして「今年しゃ豊年になりますように」、「一升まき、十三俵とれるように」などと方言で面白おかしく言って観客を笑わせて御田植祭おたうえさいは終わります。

Photo・写真

  • 参道入り口・鳥居
  • 参道入り口・鳥居
  • 仁王像
  • 仁王像
  • 境内
  • 境内
  • 手水舎
  • 狛犬
  • 狛犬
  • 門守社
  • 門守社
  • 参道階段から社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 青面金剛像
  • ★
  • 石仏
  • 五輪塔宝篋印塔・連碑
  • 石祠
  • 山元家氏神
  • 山神
  • 元稲荷と五重塔残欠
  • 不動明王石祠
  • ヤッコソウ

情報

住所〒899-2201
鹿児島県日置市ひおきし東市来町湯田ひがしいちきちょうゆだ4008-い
創始そうし承久じょうきゅう3年(1221)
社格しゃかく郷社ごうしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい10月19日(秋季例祭しゅうきれいさい
神事しんじ節分祭せつぶんさい御田植祭おたうえさい(3月3日)
夏越祭なごしさい六月灯ろくがつどう(7月第3土曜)
HP 公式HP

地図・マップ