市来郷の総廟とされる稲荷神社は、島津家初代島津忠久が薩摩守護職に任用された折[一説では承久3年(1221)]、創建されたと伝えられる鹿児島最古の稲荷神社です。
島津本宗家が現在基本としている系図である『島津氏正統系図』によれば、島津家初代島津忠久は、治承3年(1179)丹後局は、を母親として住吉大社にて出生しました。丹後局は、比企能員の妹で、源頼朝の寵愛を受けて子を宿すも、正妻の北条政子(平政子)からの嫉妬を受けて命を狙われます。丹後局は害せられることを恐れ、関東(鎌倉)を出て、摂州(大坂)に赴きます。夜になり旅宿を里人に求めるも許されず、大雨が降り真暗闇の中で産気づきます。丹後局は住吉神社(現・住吉大社)に入り、瑞垣の傍らにあった石の上に踞まると、その時、狐火が暗を照らして助けたので無事男児を産むことができたのでした。その男児が島津忠久とされています。
今ではその石は産石・誕生石と名付けられ、住吉大社で祀られています。住吉大社では末社として稲荷大神(倉稲魂命・宇迦魂命)が祀られており、夜の狐火はその神の助けだとされました。その伝承から島津家は稲荷大明神を氏神とするようになり、雨が降るのを嘉瑞として「島津雨」と称するようになりました。後に丹後局は関東(鎌倉)に戻り、惟宗広言に嫁ぐこととなりました。
尚、源氏の氏神は八幡神である中、稲荷大神を氏神としたのは、惟宗氏は秦氏より出で、秦氏の氏神が稲荷大神であったことに由来するとの指摘もあります。
『島津氏正統系図:忠久』
治承三年己亥誕生攝州住吉、母丹後局也、雖爲賴家・實朝之兄不補家督以生他腹也、
傳稱、初比企判官能員妹丹後局幸於賴朝卿而有身賴朝妻平政子妬忌以遂之、丹後局畏其被害而出關東赴上方到攝州住吉、夜求旅宿里人不許之、時大雨甚闇忽有産氣、乃入社邊籬傍踞石上、時會狐火、照暗遂産男子、是卽忠久也、時治承三年也、至今號其石稱産石、住吉末社有稻荷盖其夜狐火者此神之助也、故號島津稻荷且島津家以雨爲嘉瑞者此故也、其後丹後局潛下向關東以嫁惟宗民部大輔廣言、故忠久亦冒惟宗氏、然實賴朝卿子也、
島津忠久が薩摩の守護職に任用された折に自らの出生譚の霊験を偲び、又は丹後局が鍋ヶ城に在住の時、住吉大社の稲荷神社を勧請。一説には、承久3年(1221)の創建とされ、鹿児島最古の稲荷神社で、稲荷信仰の発祥の地とされています。
天明7年(1787)に書かれ、文政10年(1827)の写本が臼井家に伝わる『薩州日置郡市来総廟稲荷大明神御由緒』では、旧記は残されていないものの、丹後局が市来の鍋ヶ城に居住した時に、御神霊を安置し、10町8反[湯田村:8町8反 / 5反:大里村 / 5反:伊作田村 / 1町:大隅串良]の知行を御祭料として寄附したと伝えています。
天保14年(1843)編纂の『三国名勝図会』では市来郷史の呈状を引用し、惟宗広言は、丹後局と共に下向し、鍋ヶ城に居住したと伝えています。丹後局が、市来駅前の船着場跡に着くと、原野松林の間に砂磧が相連り、海上の風景は殊に勝れて、鎌倉の地形のようでした。南の赤崎浜は、鎌倉由比ヶ浜に似ていることから鍋ヶ城に居を定め、鎌倉七社、及び厳島明神などの神社仏閣を建立したと伝えています。
明治15~17年(1882-1884)にかけて編纂された『鹿児島県地誌』の参考史料とされた諸家系図・古文書類を浄写した『旧記雑録拾遺地誌備考』では、建久7年(1196)島津忠久が薩摩の守護職に補せらると共に下向し、鍋ヶ城に居住したとされています。
『薩州日置郡市来総廟稲荷大明神御由緒』(臼井家文書)』
[記:天明7年(1787)/写:文政10年(1827)]
旧記無之候而茂申伝候次第申上候様被仰渡趣承和仕左之通申上候
-(略)-
一、丹後之御局様市来鍋ヶ城御在城之節被遊御安置御祭料御寄附之知行拾町八反、内八町八反湯田村、五反大里村 五反伊作田村、壱町隅州串良之内浮免御寄附為被遊申申伝候
一、御安置者承久三年と申伝候
『三国名勝図会:鍋ヶ城』天保14年(1843)編纂
又市来郷吏の呈状に曰、惟宗広言は、丹後局と共に薩州に下向し、鍋ヶ城に居る、又曰、丹後局御下向の時、薩摩渡瀬に着玉ひしに、原野松林の間に一帯の沙磧相連り、海上の風景殊に勝れ、地形鎌倉に類し、南の方にある赤崎濱といへる地は、鎌倉由比ヶ浜に似たりとて、即ち鍋ヶ城に居を定められ、且鎌倉の七社、及び厳島明神、其外神社仏閣を處々に建立し玉ひしなり。
『旧記雑録拾遺地誌備考二:日置郡地誌備考「市来郷」』
伊地知季安(明治30年頃まで編纂)
「市来氏系図」
廣言
筑後守 號八文字民部大輔、五品 日向國司
丹後局幸于頼朝公生男子、避御臺所政子之嫉妬、賜丹後局於廣言、故所其生之幼子亦成長于廣言之家、而后號忠久、○傳稱、廣言晩年従忠久下向于薩州、領市来院在城焉、○承元二年戊辰九月十九日廣言卒、七十六、
往古は、三座で「稲倉魂之命、猿田彦大神、宮毘姫之命(大宮女姫)」を祀っていたとされますが、『鹿児島県地誌』では「伊弉冊尊、稲倉魂命、瓊々杵尊」と伝えています。
旧社地は、現鎮座地から国道3号線沿いの南東部約450mの田之湯でした。年次は不詳ながらも島津家9代当主・島津忠国(在位:応永32年~長禄3年[1425-1459])の時、鹿児島に分社されることとなり、知行は召し上げられるも、御神体は当神社に置き、御幣のみ勧請されました。また、祀られていた阿吽の狛犬像の一体も勧請される際に移されたと伝えられています。鹿児島の稲荷神社にはその狛犬は残されていないものの、当神社の境内には正徳5年(1715)3月に庚申供養で再建した阿吽像と、吽像の手前に建立の板碑が残されています。尚、勧請された稲荷神社は、鹿児島五社の一社となり、現在は稲荷町に鎮座しています。
その後、島津義弘が晩年に記した自伝『惟新公御自記』によれば、島津義弘が泗川城にて明軍と対した際、白狐・赤狐が突如として現れ、島津軍を助けたとされています。それを受けて帰朝後に白狐・赤狐の神霊を合わせ祀り、五座になったとされています。
『惟新公御自記』
予者於泗川息宰相家久相共令在番處自江南催数百万騎襲來日本之諸陣就中於泗川茅老爺為大将慶長三年戊戌十月一日如雲霞寄來而取巻要害揚吐氣聲放鉄砲種々戦術動揺轟天地誠難遁消息也夫日本神國非佛天之擁護争開此運哉平生之信心在此時与祈念心中指懸屏涯見敵之模様双楯傾甲頻欲攻伏不一戦而於及籠城者敵踏夲國之地軍衆之兵粮矢種等可任心味方者纔一城之人数日本者隔数百里之蒼海易難得加勢之間欲遂安否之一戦而陣中鎮鳴近敵於矢比揚吐氣聲斬出一同於是家久懸入猛勢之中自砕手被尽粉骨見之諸卒弥成勇斬懸不思議哉白狐赤狐出現走入敵軍之中即稲荷大神之御告無疑也哀哉両狐中矢而果畢如此因神慮之深無量斬崩猛勢追亡追北伏屍不知幾千万流血漂楯而集首三万八千七百有餘其外討捨不知数也日本開闢以來無比類次第云々
予は泗川に於いて息宰相家久と相共に在番せしむる處、江南より数百万騎を催し襲来す。日本の諸陣、就中、泗川に於いて茅老爺大将と為りて、慶長三年戊戌十月一日、雲霞の如く寄せ来たりて要害を取り巻き、吐気の声を揚げ、鉄砲を放ち、種々の戦術をして動き揺がせ、天地を轟かす。誠に遁れ難き消息なり。夫れ日本は神国にして仏天の擁護に非ずんば、争でか此の運を開かん哉。平生の信心此の時に在りと、心中に祈念し、屏涯に指し懸かり、敵の模様を見るに、楯を双べ甲を傾け、頻りに攻め伏さんと欲す。一戦もせずして籠城に及んでは、敵は本国の地を踏み、軍衆の兵糧矢種等心に任す可し。味方は纔かに一城の人数のみ。日本は数百里の蒼海を隔て、易く加勢を得難きの間、安否の一戦を遂げんと欲して陣中に鳴りを鎮め、敵を矢比に近づけ、吐気の声を揚げ、一同に斬り出だす。是れに於いて、家久猛勢の中に懸け入り、自ら手を砕き、粉骨を尽さる。之を見た諸卒弥々勇を成し斬り懸かる。不思議なる哉。白狐・赤狐出現し、走りて敵軍の中に入る。即ち稲荷大神の御告げなること疑い無きなり。哀れなる哉。両狐矢に中りて果て畢んぬ。此くの如く神慮の深きに因り、量り無き猛勢を斬り崩し、亡びるを追い北るる追い、屍を伏すこと幾千万を知らず。流るる血は楯に漂い、集るる首は三万八千七百有余。其の外討ち捨てるものは数を知らざるなり。日本開闢以来、比類無き次第と云々。
私は泗川に於いて息子の宰相家久と相共に守護に当っていた處、敵方は江南より数百万騎を導引し、、大挙して襲って来た。日本の諸陣、就中、私が護っていた泗川では、茅国器が大将と為って、慶長三年戊戌十月一日、大軍を卒いて雲霞の如く押し寄せて来て、要害を包囲した。敵軍は吐気の声を揚げて鉄砲を放ち、種々の戦術を使い、猛勢をもって騒動を起こし、天地を轟かせた。誠にこの危地からは遁れ難い様子であった。ところで日本は神国であり、仏神の擁護なくして、どうしてこの運を開くことが出来ようか。平生の信心とはこのような時にこそ在るのだと心中に祈念し、城塀の端から敵の様子を見ると、敵軍は楯を並べ、甲を身構え、今にも我が薩摩軍を攻め亡さんとして構えていた。一戦も交えずして籠城していては、敵方は自国の土を踏み、軍兵達の兵糧、矢等の武器類は思いのままに集めることが出来る。それに対して味方は纔かに一城の軍勢のみに過ぎない。その上、日本は数百里の青海原を隔てた彼方にあり、容易に加勢を得ることは出来ない。そこで、薩摩軍は勝敗を決する決戦を遂げんと、陣中に鳴りをひそめ、敵を矢の届く所まで近づけておいて、吐気の声を揚げ、一同一斉に斬って出た。ここに家久は自ら猛勢の中に懸け入り、粉骨砕身の大活躍をしたので、これを見た味方の兵卒等は、弥々勇戦激斗して敵兵に斬って懸かった。不思議な事にこの時、白狐・赤狐が現われ、敵軍の中に駆け込んだ。即ちこれは稲荷大神の吉事の御告げであることは間違いない。哀れなことにこの二匹の狐は矢に中って死んでしまった。然しながら、このような神慮の深きによって、島津軍は想像を絶するほどの多数の敵の猛勢を壊滅させ、亡びゆく者を追い、逃れる者を追った。討たれた敵の屍は幾千万とも、数えようも無かった。流れる血は楯に溢れ、集められた首は三万八千七百有余りにも及び、その外にも討ち捨てた者は数知れぬほどであった。このような戦果を上げたのは日本開闢以来、比類無き次第であった。云々。
天和3年(1683)8月、藩の造営奉行で日吉町出身の禰寝清雄が訪れ、「当地は、平地で神の御威光が高くない。適当な霊地はないか」と問い、伊集院休兵衛・萩原五兵衛、大庄屋の折田宗兵衛が現在の鎮座地を選定しました。同年9月4日に現鎮座地に遷座されました。遷座は新田開発のためともされ、旧社地には、寛文8年(1668)11月に建立された一本鳥居柱が残されました。また、別当寺である真言宗桂峰山宝持院大明寺も貞享元年(1684)に左隣に移転しました。この遷座の次第は、大明寺跡の石塔に刻まれています。尚、現在、一本鳥居柱は道路拡張のため旧社地から約20mほど西に移設されています。
社領は、稲荷免と唱し、明治維新前までは2反余ありました。毎年祭米5斗2升5合も下附されていましたが、明治元年(1868)に社領は没収されました。明治6年(1873)5月に郷社に列格。明治39年12月26日に神饌幣帛料供進指定を受けました。
往昔は10月19日に例祭が斎行され、流鏑馬などがあり賑やかであったと伝えられています。島津家初代島津忠久の着初めの鎧が寄進されていましたが、天明7年(1786)引き揚げられ、寛政4年(1792)2月15日代替えの鎧を奉納されたとされています。昭和49年(1974)11月16日、神殿から甲冑が盗まれるも、藩主から授けられた島津の紋章が入っていたことから、古物商に売却していたものが見つかり無事神社へ返還されました。
平成26年(2014)4月8日に由須原八幡神社を合祀。代々島津家の氏神として篤く信仰され、また鹿児島の稲荷信仰の始まりとして広く一般の崇敬を集めています。