開聞岳の北麓に鎮座する枚聞神社は、創建の年代は不詳ですが、社伝によれば遠く神代の創祀とされています。太古より「和田都美神社」とも称され、大日霎貴命(天照大御神)を主祭神とし、配祀神として皇祖神である天之忍穗耳命、天之穗日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、狹依日賣命、多岐津比賣命、その八柱の神を併せ祀っっています。開聞岳は「開聞神」とも表記され、噴火は「開聞神」の祟りと見なし、山頂には奥宮として御嶽神社が祀られていました。南薩地方一帯の総氏神として、又地方開拓の祖神として厚い崇敬が寄せられ、特に航海安全・漁業守護の神として船人達から厚く信仰されてきました。創建については、勅宣により開聞岳の裾野に和銅元年(708)の創建されたとの説もあります。
貞観2年(860)3月の「三代実録」にて「薩摩国従五位下開聞神加従四位下」と載せられているのを始めとして、数度の神位昇叙が記されています。貞観16年(874)7月には、開聞岳の大噴火の状態を太宰府より言上に及び、神意を和むる為、勅命により封戸二千を奉られたことが記載されています。その噴火の際、揖宿神社の地に一時避難し、後、現鎮座地に還座されました。
延長5年(927)に編纂された「延喜式神名帳」では「薩摩国頴娃郡枚聞神社」と「枚聞」の文字が用いられ、式内小社とされています。古来、薩摩国の一宮、南薩地方一帯の総氏神として代々朝廷の尊崇厚く、度々奉幣があり、殊に
藩主島津氏
入国後はその崇敬は絶大でした。正治2年(1200)の社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、元亀2年(1571)には頴娃領主家のお家騒動により1900余町の神領を焼失。天正20年(1592)9月に島津家より田畠を合計24町歩を寄進されました。明治4年(1871)5月に国幣小社に列格され、現在は薩摩国の一宮として、また神社本庁の別表神社として近隣の崇敬を集めています。
尚、境内の西側一帯には、別当寺として坊津一乗院の末寺でもある瑞応院が建てられていました。瑞応院は、智通僧正により白雉3年(652)に開山されますが、智通僧正が大陸に渡ったため数百年の間、廃寺となります。正中3年(1326)に島津氏が真言宗の舜請和尚に再興させ、旧藩時代は、枚聞神社は瑞応院と共に祭祀を営んでいました。島津氏第7代当主の島津元久、島津義久の弟で「釣り野伏せ」で知られる島津家久の位牌が安置され、頴娃郷の菩提寺でもあったとされています。明治元年(1868)の廃仏毀釈により廃されますが、御本尊は石棺に埋め隠された後、明治12年(1879)に掘り出され、現在は坊津町久志の広泉寺に安置されています。
また、南方からの海路において、開聞岳は重要な道標となっていたこともあり、往年、島津家に入貢していた琉球人は、航海で開聞岳の雄姿を遥かに拝するや神酒を奉って無事を祈ったとされています。琉球王も入貢の都度、神徳鑚仰の文字を表す扁額を奉納したと伝えられています。現在、琉球王の名によって航海安全の神徳を奉謝して献納された扁額7枚は、宝物殿に飾られています。
境内地は約7000坪で、その中には千数百年経た老樹が数多くあります。枝が鬱蒼と茂り天高くそびえている様は、このお社が由緒深い神社であることを物語っています。
朱塗りの第二鳥居(両部鳥居)の両脇には御門神社があり、樹齢800年、幹回り7.9-9.5m、樹高18.0-21.0mのクスノキが聳えています。参道を進み境内の正面は、唐破風向拝の朱漆塗極彩色の美しい勅使殿、そして左右に廻廊に類する長庁が連なります。これは鹿児島地方独特の建物で、勅使門が変形して殿となったものです。その後ろに拝殿、幣殿、本殿と連って権現造の様になっています。
本殿は千木、勝男木を有する総朱漆塗極彩色の入母屋造妻入。慶長15年(1610)9月、惟新斎(島津義弘)が寄進し、天明7年(1787)島津重豪によって改修されたものです。島田修右ェ門の作とされる雲龍の彫刻がなされた向拝柱に前方屋根が支えられ、その製作の優秀さから県指定の文化財になっています。
社殿の向かって右隣りには、御嶽神社の遥拝所が鎮座しています。御嶽神社は、開聞岳の山頂直下の岩場に鎮座する枚聞神社の奥宮です。参道東側には、明治維新の戊辰戦争から太平洋戦争に至る戦役・事変における戦没者並びに、郷里で郷土の発展に大きく貢献された方々を祀られる「頌徳碑」が奉斎されています。「頌徳碑」の奥には、火産霊神を御祭神とする火の神が祀られています。
【天智天皇の御巡幸伝説】
境内に祀られている神馬は、天智天皇の御巡幸伝説に依るものです。
その昔、開聞岳の麓の岩屋仙宮に、一頭の牝鹿が現われ、仏前に供える水を舐めると忽ち懐妊して、翌年の春、女の子が生まれます。その時、草庵は黄金の光に包まれ、端象が現れたことから瑞照姫と名付けられました。
姫は非常に聡明であった為、2歳で采女として京の都に上がり、藤原鎌足に育てられます。13歳になって美しく成長した姫は、大宮姫と名を改め、丁度その頃、皇后様を亡くした天智天皇のお側で格別の御寵愛を受けました。
しかし、大宮姫は牝鹿の口から産まれて来たためか、足の爪が2つに割れていて、ちょうど牛の爪のようであったとされています。ある雪の日、雪遊びをしていた大宮姫は、履いていた足袋が脱げます。その裸足を見た、大宮姫の美貌と出世を妬んでいた宮中の女官たちは、ここぞとばかりに皆の面前でそれを嘲りました。
それを恥じた大宮姫は、遂に宮中を逃れ出でて、伊勢の安濃津より船出し、指宿市山川地区の牟瀬浜に上陸し、当地に帰って来られました。その時、大甕2個を持ち帰られ、1個は途中で破損するも、残りの1個は、現在でも神社の宝物館に保管され、付き添った供人の子孫が社家として残っています。
その後、天智天皇は、大宮姫を慕って白馬に乗り薩摩に御下向され、姫の許で余生を送られ、御年79歳で崩御遊ばされたと伝記には記されています。天皇の愛する白馬は、仙田地区の御馬所で井上・大山両家により飼育されることとなり、それ以来、両家は枚聞神社の神馬役を務めたとされています。
【玉の井】
薩摩国一之宮の枚聞神社から北へ700m程の地にある「玉の井」は、山幸彦(彦火々出見命)と豊玉姫命の出合った地です。開聞岳の北麓は上古、和田津見神である豊玉彦命の宮地、鴨着島と称され、海幸彦(火照命)と山幸彦(彦火々出見命)の神話舞台となった龍宮であったとされています。
海幸彦(火照命)と山幸彦(彦火々出見命)の神話にて、山幸彦(彦火々出見命)は御兄の海幸彦(火照命)から借りた釣針を紛失します。
海幸彦(火照命)から責め立てられ、落胆していた山幸彦(彦火々出見命)は、塩土翁の教えにより綿津見神宮に赴かれ、その和田津見神宮の門前にあった日本最古の井戸と伝えられる「玉の井」の辺で豊玉彦命の娘である豊玉姫命に御逢いになり、御結婚されます。その後、地上へ戻った山幸彦(彦火々出見命)は、海幸彦(火照命)を懲らしめて忠誠を誓わせ、豊玉姫命は鵜草葺不合命を御出産されます。その神話の舞台となった綿津見神宮の入り口の井戸とされているのが、枚聞神社の北、約300mにある「玉の井」で、日本最古の井戸と伝えられています。更に其の西方の岡には、二人の御結婚をされた婿入谷の遺跡があります。
現在、現在は「玉井」地区に合併されている「拝ケ尾・拝顔」地区は、二人の顔合わせの地、龍宮の大手門があった地の名称であると考えられています。その「玉井」地区のすぐ北は、「そうめん流し」の発祥地として知られる「唐船峡京田湧水」のある「京田」地区です。「京田」は、和田津見神の宮殿のあった地とされ、山幸彦(彦火々出見命)を招き、あらゆる珍味佳酒を供えて、山幸彦(彦火々出見命)を歓待した饗応の御殿「饗殿」が名として残っているとされています。「京田」は、江戸時代に至っても深くまで入り江があった地で、「玉の井」を門前とする「拝顔」から「饗殿」まで、龍宮の本丸であったとされています。
また、時代が下って、この地に仮宮殿を作ったとされる天智天皇の御代に「京殿」とも書かれるようになっていたとも、その後、宮殿の跡は法華寺となり「経殿」とも記述されるようになったとも伝えられています。
山幸彦(彦火々出見命)が結婚を申込み、豊玉姫命が聞入れて返事をしたとされる「御返事川・御瓶子川」。和田津見神が、二人の為の宮殿を作った「婿入谷」との地名も残されています。尚、「御瓶子川」は朝夕の御饌の水として瓶子に汲んでお供えしたことから「御瓶子川」、その両方の意味があるのだとされています。