糟屋郡宇美町に鎮座する宇美八幡宮は、三韓征伐より御帰還された神功皇后が、應神天皇を安産にて御産みになられた地です。産所を蚊田邑(蚊田は宇美の古名)に定めた神功皇后は、側に生出づる槐の木の枝に取りすがって、軽い御産で應神天皇を御産みになったと伝えられ、この産所を名づけて「宇瀰」。その後に「宇美」と称されました。御産所の四辺に八つの幡を立てて兵士に守らせた故事が後世、八幡大神と称する由縁となったとも伝えられています。
『日本書紀』巻第十 譽田天皇(應神天皇)
譽田天皇、足仲彦天皇第四子也、母曰氣長足姫尊。天皇、以皇后討新羅之年、歲次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田。幼而聰達、玄監深遠、動容進止、聖表有異焉。
誉田天皇は、足仲彦天皇の第四子なり。母をば気長足姫尊と曰す。天皇、皇后の新羅を討ちたまひし年、歲次庚辰の冬十二月を以て、筑紫の蚊田に生れませり。還り給う十二月十四日誉田天皇(応神天皇)を筑紫に生み給う。幼くして聡達くいます。玄に監すこと深く遠し。動容進止あり。聖表異しきこと有り。
『古事記』中巻 神功皇后
故其政未竟之間 其懷妊臨產。卽爲鎭御腹取石以纒御裳之腰而。渡筑紫國其御子者阿禮坐。故 號其御子生地謂宇美也。亦所纒其御裳之石者在筑紫國之伊斗村也。
故、其の政未だ竟へざりし間に、其の懐妊みたまふが産れまさむとしき。即ち御腹を鎮めたまはむと為て、石を取り御裳の腰に纒かして、筑紫国に渡りまして、其の御子は阿礼坐しつ。故、其の御子の生れましし地を号けて宇美と謂ふ。亦其の御裳に纒きたまひし石は、筑紫国の伊斗村に在り。
八幡大神御降誕の聖地として、敏達天皇の御代(572-585)に宮柱太敷き建て、神功皇后と應神天皇の母子神をお祀りし、後世に至り住吉大神、宝満山の御祭神の玉依姫命、若杉山の御祭神の伊弉諾尊を合祀し、五柱としてお祀りされました。
境内には、樹齢2000年以上と推定される、国指定天然記念物の「湯蓋の森」・「衣掛の森」という2本の老大樟を始め、数多くの大樟が生い茂っています。「湯蓋の森」・「衣掛の森」は、共に樹齢2000年以上とも推定される宇美八幡宮のシンボルとも言える大樟で、「湯蓋の森」は、社殿に向かって右側の聖母宮の前、「衣掛の森」は社殿奥左側の産湯の水と湯方社の間に祀られている御神木です。
「湯蓋の森」は、神功皇后が、御産所の傍の楠の下で湯を準備したことから、「湯蓋の森」と称されるようになったと伝えられています。神功皇后の御産は軽く、楠の下で沸かしたと伝えられ、その楠が大きく茂ったものだとされています。「衣掛の森」は、御産の時に産衣を掛けた楠とされています。元禄2年(1689)貝原好古の纂述による『八幡宮本紀』巻之三・神功皇后(下)では「神功皇后新羅より帰らせ給い、香椎より巽の方、蚊田の邑に御産屋を営まれこもらせ給う、御側に生い茂れる楠あり、其の下にて産湯をめさせ給う、その大木繁茂し枝葉ことにうるわし、後人これを名付けて湯蓋の森という。また産衣を掛けたるを衣掛の森という。」と紹介されています。国指定天然記念物の指定は大正11年(1922)3月8日。
また、神功皇后が御産の時に取り縋った槐の枝は「子安の木」とされ、拝殿の向かって左の瑞垣に祀られています。槐の枝を地に挿して根ざしたものが、度々植替えるも、同じ場所に絶えることなく育っています。安産であった神功皇后の神恩を仰ぎ、古くは宇瀰宮の槐と皇后・皇女を始め朝廷からの御崇敬も篤く、「平産の幸ある木」として産平安の衣木には、必ずこの槐を用いたとされています。
尚、社殿後方に鎮座する湯方社は、産湯を沸かした官女(湯方殿)を御祭神としています。胞衣は、産所の北に流れる宇美川で洗い濯ぎ、筥に入れて、奥宮とされる北東250m程にある小山に奉安したとされています。そのため奥宮は、胞衣ヶ浦とも称されています。
平安時代ごろから石清水八幡宮と本末関係となり、鎌倉時代初期から安産の神として信仰されるようになります。別当寺も宇美山誕生寺と称されます。封戸神田も多く寄附され、祠官社僧70余人あり、宮造りも宏麗であったと伝えられますが、応仁から天正に至る戦国時代には戦禍に罹り、神領・神田は暴逆の武士に奪われ、豊臣秀吉の時、悉く没収され衰微します。天和3年(1683)福岡藩主・黒田光之公が祭田を寄附。社殿の修復もなされました。
明治5年(1872)11月3日村社に、明治24年(1891)8月5日に県社に昇格。大正11年(1922)3月には「湯蓋の森」・「衣掛の森」が国指定天然記念物に指定されます。昭和15年(1940)10月に、筑前四王寺阯経塚群出土品が国指定重要文化財に指定。昭和30年(1955)9月に神功皇后と應神天皇の母子神に因む安産信仰の対象が、福岡県指定文化財(民俗資料)として一括指定されています。また、古くから当宮に伝わる「宇美神楽」が、昭和48年(1973)11月に県無形民俗文化財に指定されています。
主祭神である神功皇后・應神天皇の母子神、玉依姫命、住吉大神、伊弉諾尊の五柱がお祀りされており、八幡様は殖産文化の祖神として遍く崇敬されておりますが、八幡大神の御降誕の聖地と伝えられる当宮は、「安産・育児」の信仰が特に篤く、多くの方が安産祈願や御礼参り(初宮詣)に参拝されています。
【境内社など】
「聖母宮」
主祭神である應神天皇の安産に因む信仰から、その母后の神功皇后に対する特別の崇敬を以って神功皇后を祀っています。社殿は、宝永3年(1706)当時の福岡藩主・黒田綱政公による寄進。今から約600年前の室町末期の作と伝えられ、県下の代表的秀作とされています。その寄進の際、福岡県指定文化財(民俗資料)である聖母宮御神像も祀られ、御神像の随神として阿形・吽形の随神王像も奉安されています。神功皇后が崩御されたと伝えられる年から数えて25年に一度、御開帳の神事が斎行されています。前回は平成30年(2018)に御開帳されました。
「湯方社」
社殿後方、子安の石に囲まれている湯方社は、助産師の祖神として湯方殿を祀る全国唯一の神社です。湯方殿は、神功皇后が御産の時に産湯を沸かした官女とされ、産婆の役として功績により、敏達天皇の御代(572-585)本宮の創建の時にお祀りされたと伝えられています。湯方大神、又は湯方殿とも称されています。皇室の御崇敬も篤く、古来より安産及び小児成長の守護神として広く信仰されています。12月14日の湯方社祭には、多くの助産師が参列し、祭典が奉仕されています。
「子安の石」
湯方社を囲むように、玉垣を築き、こぶし大の石が山ほど積まれています。安産祈願を終えた妊婦が「御産の鎮め」として此処の石を預かって持ち帰り、目出度くご出産の暁には、別の新しい石にお子様の名前等を記して健やかなる成長を願い、安産御礼(初宮詣)の御祈願にてお祓いの後に、預かった石と一緒お納めするのが慣しとなっています。隣には聖母子像が祀られています。
「産湯の水」
社殿後方の左奥、衣掛の森の左に祀られています。「應神天皇御降誕の時、此の水を産湯に用い給いしより今に至るまで妊婦拝受して安産を祈る」と伝えられています。
「武内社」
聖母宮と恵比須社の左に鎮座。御祭神として、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・應神天皇・仁徳天皇の五代の天皇、そして神功皇后に仕えた武内宿禰を祀っています。300歳程の長命であったとされ、数多くの功労・忠誠により八幡大神に御奉仕された神として知られています。延命長寿・武運長久・厄除の神としてお祀りされています。
「稲荷社」
境内後方右奥に鎮座。御祭神として保食神を祀っています。楠森神社とも称されています。
「恵比須社」
聖母宮の左に鎮座。御祭神として事代主命を祀っています。事代主命は「事を知る神」として、善悪を判断する力があるとされ、一般的に「えびすさま」と称されています。商売繁盛・開運の神として崇敬され、1月3日には「宇美三日恵比須まつり」が斎行されます。
「山神社」
産湯の水の前の楠の下に鎮座する石祠。御祭神として大山祇命を祀っています。
「奥宮(胞衣ヶ浦)」
境内から後方、北東250m程にある小山に鎮座。神功皇后が御産の後、胞衣を筥に入れて奉安したとされる地です。胞衣ヶ浦と称されています。(⇒詳細)