国指定天然記念物「黒木のフジ」で知られる素盞嗚神社は、社伝によれば、猫尾城主であった黒木家九代目の黒木肥前守の願望に依り、元応~元亨年間(1319-1324)に社殿が創建されたと伝えています[『黒木家文書』では元応元年(1319)と記述]。元は祇園社と称され、御祭神は素盞嗚尊、稲田姫命の二座。御神体は木像です。
当地は黒木氏が代々領しますが、天正12年(1584)大友宗麟の家臣の立花道雪と高橋紹運の攻撃を受け、猫尾城主・黒木家永は切腹して、猫尾城は落城します。この時に素盞嗚神社もまた兵火に罹り、黒木氏代々より奉納の器物も焼亡、または散財しました。
その後、黒木家永の子の黒木延実(黒木匡実)は、大友方に寝返っていた椿原式部を討って旧領を奪還。北木屋村に居城し、従前の如く当社を崇敬しました。しかし天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定の際、黒木延実は小早川隆景の家臣となり、黒木の領主から離れました。その同年、筑紫家の家老・屋山隼人[『筑後秘鑑』・『寛延記』では八山隼人介と記述]が社殿を再建しました。
元文年間(1736-1741)社殿を造営。確たる文書はありませんが、御神体の背面に「元文二歳五月吉日、奉才色黒木町中」とあり、採色が施されたと考えられています。又、境内地が狭かったことから文化4年(1807)に郷民が、農閑期に70~80人程で社地を広げることにします。しかしなかなか作業は進まず、それを聞き及んだ近隣の大豪農の松浦某が、文化6年(1809)3月に近くの村々から800人余りの下使の人夫を呼び寄せると、数日で工事を終えることができたと伝えられています。
文政4年1月14日(1821年2月16日)町の一部を焼く大火にて、延焼して社殿など全てを焼尽しますが、文政6年(1823)6月に近隣の諸村・信仰者の助成を得て神殿が再建。翌文政7年(1824)6月に拝殿が再建されました。
明治36年(1903)10月に許可を得て境内180坪を拡張。明治38年4月(1905)併せて神殿・拝殿を改築し、元々の西向きから南向きへと移して落成しまた。明治43年(1910)1月18日、無格社より村社に昇進。明治43年(1910)4月28日に神饌幣帛料供進神社に定められました。
境内の国指定天然記念物「黒木のフジ」は、樹齢は600年を超え、南朝の征西大将軍良成親王の御手植えによるものと伝承されています。
【黒木の大藤】
社殿前に広がる広大な藤棚は、昭和3年(1928)1月31日に「黒木のフジ」として国の天然記念物に指定されています。樹齢600年を超える長寿の藤として全国に知られ、目通り幹囲は2.2m。藤棚の上に広がる枝張りは、東西48m、南北42mという巨大なもので、藤棚の面積は約3000㎡もあります。
主幹は地際から南東へ屈曲して上方に向かい、地上から2mの高さで2本の太い枝に分れています。枝は横に伸びて無数の枝を生じ、藤棚の全面を覆っています。主幹の東側の小支幹は、西に向かって上り藤棚に達しています。それ以外にも数本の支幹があり、渦巻き状の根元をなしています。4月中旬から4月下旬にかけて120cmを超える紫色の花房を垂下させています。
後村上天皇の第6皇子で征西大将軍懐良親王(別名:かねながしんのう)の後を継いで九州南軍を指揮した良成親王(別名:りょうせいしんのう)が、応永2年(1395)3月に御手植えしたものと伝承されています。
天正12年(1584)大友宗麟の家臣、立花道雪と高橋紹運の攻撃を受け、猫尾城が落城した際の大火。及び、文政4年(1821)の大火にて、焼損を蒙り樹勢を損しましたが、手厚い保護により壮観な姿を今も伝えています。