往古は宗像社、又は宗像八幡宮と称されていた大富神社は、『日本三代實録』に授位の記載を見る国史見在社です。
創始は不詳ですが、社記によると往古、宗像大神(田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命)が真早という者に「山田の原の頓宮に住む、速く宝基を建てよ」と神託を下して祀るようになったのが始まりとされています。崇神天皇5年(前93)4月には天疫が流行したため当地で国主が神官を使わし、祈祷したところ、天疫が止んだとされています。景行天皇12年(82)の九州巡幸の際、景行天皇が岩屋の土蜘蛛を征討するために、勅命により本社に平定を祈らせたと伝えられています。成務天皇から仲哀天皇の御代(131-200)には既に勅命を以て祈雨除蟲の祭事があったとも伝えられ、神功皇后が当社に詣し御祭物を供し三韓征伐の事を祈ったとの伝承も残っています。また、神功皇后が当宮の南の山の頂きにある大石の上で、祈りを捧げたところ、その石が船の如くに動く奇瑞が現われたので、船石と名付けられました。『宗像八幡宮縁起』によれば、白鳳元年(672)郡主の横武行次に神託があり、中央殿に祀られる住吉大神(中筒男命・表筒男命・底筒男命)と齋主神、西殿に祀られる八幡大神(應神天皇・仲哀天皇・神功皇后)を合祀したとされています。
天平12年(740)9月の藤原広嗣の乱では、一度は藤原広嗣に呼応したものの、官軍に帰順した上毛郡擬大領の紀宇麻呂など五郡の郡主が宗像八幡宮に戦勝を祈願して出兵し、無事に乱を鎮圧して凱旋したことから50町5反の神田が進奉されます。現在、4月29日~5月1日に斎行される御神幸祭は、この凱旋の姿を模したものとされています。
『續日本記』卷十三 天平十二年(740)
九月己酉。大將軍東人等言。豐前國京都郡大領外從七位上楉田勢麻呂。將兵五百騎。仲津郡擬少領無位膳東人。兵八十人。下毛郡擬少領無位勇山伎美麻呂。築城郡擬少領外大初位上佐伯豐石。兵七十人。來歸官軍。又豐前國百姓豐國秋山等殺逆賊三田鹽籠。又上毛郡擬大領紀宇麻呂等三人。共謀斬賊徒首四級。
貞観2年(860)10月3日には従五位下の神階が授位されたことが『日本三代実録』に記されています。
『日本三代實録』卷第四 貞觀二年(860)
冬十月…(略)…。三日己卯。授豐前國正六位上大富神從五位下。
その後、兵乱により衰微しますが、鎌倉時代に豊前宇都宮氏(城井氏)が領主となると再興されました。慶長5年(1600)領主となった細川忠興が寄附した宝物も今に残され、寛延9年(1632)小笠原忠真が細川氏に代わり小倉藩主となると山林7町を寄附。正徳2年(1712)には社禄を寄附されました。盛時に末社は67社に及んだとされています。明治6年(1873)7月9日郷社に列し、明治16年(1883)5月26日県社に昇格。昭和36年(1961)に別表神社に指定されました。
社殿は、本殿、拝殿、参集殿、神楽殿、社務所からなり、残された11枚の棟札は室町時代から江戸時代にかけての数回にわたる社殿の造営を記録したものです。最も古い棟札の記録は仁治元年(1240)のもので、本宮建立の事が記載され、応永11年(1404)、享禄3年(1530)、明暦元年(1655)に造営の記録などの棟札が残されています。現在の本殿は、嘉永5年(1852)5年の歳月をかけて建立され、檜皮葺、入母屋造、総欅造、屋根は二段桔木構造です。
【神事・祭事】
大富神社では春の神幸祭(八屋祇園)、夏の夏越祭、秋の御供揃祭が大祭とされています。中でも最も規模の大きいものが春の神幸祭(八屋祇園)です。神幸祭(八屋祇園)は、藤原広嗣の乱の時、当社で戦勝祈願をした紀宇麻呂の凱旋の姿を模したものとされています。この神幸祭で隔年で奉納されるのが文武天皇酉年(697)より始まったとされる国重要無形民俗文化財「感応楽」です。また、正月大晦日には国重要無形民俗文化財に指定されている豊前神楽が大村神楽講により奉納されています。
感応楽
天地感応楽・国楽とも呼ばれる感応楽は、激しい動きを通じて天地感応・神人感応を旨とする勇壮な楽です。『宗像八幡宮縁起(大富神社縁起)』によれば文武天皇酉年(697)大旱魃を受け、雨乞、厄病退散、五穀豊穣、天下泰平、国家長久を願って楽を奉じたのが始まりとされています。その演技・演奏法は豊前地方の代表的な楽打として、特色の著しいものとされています。4月30日と5月1日の春の神幸祭(八屋祇園)が斎行される両日に隔年(西暦偶数年)で奉納されています。
楽は団扇使2人、中楽(本楽)6人、笛12人、鐘打2人、読立の少年が正副の2人。さらに五色の幣をつけた側楽(花楽)で編成されます。舞の中心となるのは、中楽(本楽)と団扇使で、中楽(本楽)は前垂、ヘラの皮の腰蓑、赫熊(毛頭)を冠り、背に幣を立てるという出で立ちで、直径約50cm、重さ約10kgの桶胴太鼓を胸の前に抱えます。団扇使は菅笠にかすり縞の着物、腰蓑を着け、角団扇を持ち楽の指揮をとります。拝殿横の広庭に団扇使・中楽(本楽)により円陣が組まれ、読立が感応楽祭文を奏上した後、「ヨウー」の掛け声とともに鐘にあわせて楽は始まります。団扇使は右手で柄を握り、縦横に振り動かし、あるいは顔に当てて天を仰ぎ、地に伏せて掬い上げます。中楽(本楽)は体を左右に振りながら撥を大きく振りあげ、桶胴太鼓を打ち鳴らします。その周りに笛・鉦で構成された囃子、さらに側楽(花楽)などが円陣を組み、神と人とを感応させようと緊張感を漲らせて演じられます。大富神社で奉納された後、お旅所でも舞われ、5月1日は四郎丸地区の10ヶ所で奉納されます。楽打ちの所作は「ダンメンドロ」、「道楽」、「念仏の切」など19種があります。
昭和29年4月21日に県無形民俗文化財に指定。昭和46年11月11日に文化庁「記録作製等の措置を講ずべき無形文化財」に指定。令和2年(2020)3月16日に国重要無形民俗文化財に指定されました。
春季神幸祭(八屋祇園)
八屋祇園と称される春季神幸祭は、毎年4月29日~5月1日に斎行される八尋浜神幸場(御旅所)への神幸祭です。
『宗像八幡宮縁起(大富神社縁起)』によれば天平12年(740)9月の藤原広嗣の乱にその起源は遡ります。乱が始まった当初、当地の上毛郡擬大領の紀宇麻呂を始めとする五郡の郡主は藤原広嗣に呼応したものの、いち早く官軍に帰順します。そして当社にて戦勝祈願を行い出兵し、無事に乱を鎮圧して凱旋します。郡主は神力の偉大さを尊び、共に議りて宮殿及び神門を造立して、八屋八尋浜に神輿安置の仮殿を造り、行幸を行いました。この神事が神幸祭の起源だとされ、神幸祭の行列は紀宇麻呂の凱旋の姿を模したものといわれています。
江戸時代までは夏越祭と同時に行われていましたが、明治初年、春の御田植祭に併せて現在の毎年4月29日~5月1日に斎行されるようになりました。氏子全地区が参加する豊前を代表する祭りで、昭和31年(1956)7月21日に福岡県無形民俗文化財に指定されています。
祭りは、4月29日の汐かき、4月30日のお下り、5月1日のお上りで執り行われます。
4月29日は八尋浜神幸場(御旅所)のある八屋町の各地区の山車(大船2基・山鉾2基・踊車3基)が八尋浜神幸場(御旅所)に赴き、山車に海の汐を掛けてお清めをする汐かきを行い、各々の地区に戻ります。山車は氏子100人程で曳く大型のもので、特に山鉾には車輪が付いていないため氏子が担いで曳かれています。
翌30日は、大富神社の神前に安置された神輿3基の前で舟歌組による「天狗そろい」が歌われ、続いて隔年(西暦偶数年)で感応楽が奉納されます。その後、神輿・傘鉾・威儀物などの行列が八屋町を通り八尋浜神幸場(御旅所)を目指します。途中で大船・山鉾・踊車などの各町の山車がこの行列を迎え、夕方に神輿・傘鉾を先頭に八尋浜神幸場(御旅所)に次々に山車が到着し、大変な賑わいを見せます。ここでお着きの神事を行い、舟歌組によって泰平楽が奉納され、再び隔年(西暦偶数年)で感応楽が奉納されます。そして神輿・山車は八尋浜神幸場(御旅所)にて1夜駐輦します。
最終日の5月1日には、お立ちの神事の後、神輿と山車が各々帰還し、神輿は19時に本社に戻り、隔年でお着きの感応楽が奉納されます。
豊前神楽(大村神楽)
豊前市には6つの神楽団体があり、豊前神楽として国重要無形民俗文化財に指定されています。大富神社に伝わる大村神楽もそのひとつで、大富神社の社家、清原家によって伝授されたものです。
大富神社の相職であった清原家、長谷川家を中心に神職による神楽の奉納が行われ、中世には宮神楽として成立していたと考えられていますが、元和6年(1620)には、豊前小倉藩主・細川忠利の命により「領中虫止・五穀成就御祈祷」として、綱切神楽(虫切神楽)を行ったことが文献で確認できます。江戸時代には社家(神職)により演じられていましたが、明治10年(1877)頃、大村地区の局九市、平木孫市、大久保新一などの地元の氏子に伝授され、大村神楽講として継承されました。
大村神楽の特徴のひとつとして、端正な式神楽があげられます。式神楽は花神楽・笹神楽・弓正護・地割といった神楽本来の優雅な舞です。神楽の古い形態である宮廷神楽の内容を受け継いだもので、伝統をよく残したものとされています。江戸時代後期になると八岐大蛇退治などの出雲神話に歌舞伎の手法を取り入れた、芸能的要素の強い奉納神楽が加えられました。
中でも大村神楽の見所となっているのが湯立神楽で、求菩提山で隆盛を誇った山岳修験文化の影響を強く残したものとされています。湯釜が設営されている神社の広場を駈仙が駆け回り、中央に設けられた高さ10mにも及ぶ湯鉾と呼ばれる柱に登り御幣(大幡)を下で待ち受ける幣方に投げ降ろします。その後、駈仙は湯鉾の上で逆さにぶらさがり、湯鉾を支える綱を跨ぎ、両手を離して滑走する曲芸を行って降りてきます。湯立神楽は、隔年、正月大晦日の日付が変わるとともに奉納され、その後に火渡りが行われます。
平成11年(1999)3月21日に福岡県無形民俗文化財に指定。平成28年(2016)3月2日に国重要無形民俗文化財に指定されました。
【境内社など】
「勅使井」
社記によれば、当社に勅使が参向の時、この井戸水を汲んで炊事に用い、茶水と為したところから「勅使井」の名がついたと伝えられています。奈良時代より宇佐神宮への勅使の参向の際にも、その道中この井水を汲んで勅使に供し、宇佐神宮勅祭の御神水として差し上げるのが古例とされました。現在も10年毎に斎行される宇佐神宮勅祭では、神職が御神水として井戸の水を持参し、勅使にお茶を差し上げています。
「八柱神社」
本殿向かって右手に鎮座。境内地にあった八つの末社である大竈殿社、春日社、道祖神社、蛭児社、宇都宮社、武内社、山王社、北辰社を合祀したものです。
「多賀神社」
参集殿前に鎮座。豊受大御神荒御霊を祀っています。
「築上蚕神社」
御祭神は、五穀豊穣・蚕繭豊作の保食神。昭和15年(1940)宗像大社よりその御分霊を戴き、築上郡養蚕業組合の事務所に御鎮座。昭和28年(1953)築上蚕業技術指導所へ御遷座。昭和50年(1975)3月に当地に御遷座しました。
「猿田彦大神」
勅使井の東、中川の横に祀られています。道の神として崇敬されています。
「忠魂碑」
境内から道を挟んで南に鎮座。明治維新以降の山田地区の戦没者を祀っています。
「和気清麻呂公と拝野松」
神護景雲3年(769)権勢の野望を持った弓削道鏡は、宇佐神宮の神託をいただいて皇位につこうとします。称徳天皇は、宇佐神宮の神託の真偽を確かめるために和気清麻呂を勅使として遣わしました。道中、和気清麻呂は勅使街道の路頭より、下乗して当社を拝礼したと伝えられ、その地を伏拝野といい、この地にある松を拝野松と称しています。