九州の神社

福岡県・岡田宮(北九州市)

御祭神

中殿ちゅうでん岡田宮おかだぐう 神日本磐余彦命かむやまといわれひこのみこと神武天皇じんむてんのう
右殿うでん熊手宮くまでぐう 大国主命おおくにぬしのみこと少彦名命すくなひこなのみこと県主あがたぬし熊鰐命くまわにのみこと
左殿さでん八所宮はっしょぐう 高皇産霊神たかみむすびのかみ神皇産霊神かみむすびのかみ玉留産霊神たまつめむすびのかみ生産霊神いくむすびのかみ足産霊神たるむすびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと事代主命ことしろぬしのみこと御膳神みつけかみ

由緒

岡田宮おかだぐう創始そうし不詳ふしょうですが、いにしえ崗地方おかちほう遠賀地⽅おんがちほう)を治めていた熊族くまぞくが、洞海くきのうみ菊竹浜きくたけのはま貞元さだもと・現在の熊西くまにし)に祖先神そせんしん奉斎ほうさいしたのが始まりです。記紀ききに記される初代天皇・神武天皇じんむてんのう東征とうせいの折に訪れた「岡田宮おかだぐう」とされ、第14代天皇・仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごう熊襲征圧くまそせいあつの際に、仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごうをお迎えした地ともされています。

中殿ちゅうでん岡田宮おかだぐう)の御祭神ごさいじんとしてまつられる神武天皇じんむてんのうは、日向国ひゅうがのくにより東征とうせい途次とじ速吸之門はやすいのと宇佐うさを経て当宮とうぐうまいり、1年間この地に留まりました。その時に神武天皇じんむてんのうは、岡田宮おかだぐうの旧鎮座地ちんざち神籬跡ひもろぎあとの残る一宮神社いちのみやじんじゃの地で、現在は左殿さでん八所宮はっしょぐう)でまつられている天皇守護てんのうしゅご御巫祭神みかんなぎさいじん八座はちざ八所神はっしょしん)を奉斎ほうさいしたと伝えられています。神武天皇じんむてんのう御出立ごしゅったつの後に、一宮神社いちのみやじんじゃの地(山寺やまでら)に岡田宮おかだぐう御手洗公園みたらいこうえんの地に八所神社はっしょじんじゃまつられたとも考えられています。

『古事記』中巻・神武天皇

神倭伊波禮毘古命、與其伊呂兄五瀬命二柱、坐高千穗宮而議云、坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古、宇沙都比賣二人、作足一騰宮而、獻大御饗自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。


神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ。猶東に行かむ。」とのりたまひて、即ち日向より発たして筑紫に幸行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時、其の土人、名は宇沙都比古、宇沙都比売の二人、足一騰宮を作りて、大御饗献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。

『日本書紀』卷第三 神日本磐餘彦天皇・神武天皇

神武天皇卽位前紀甲寅年十月辛酉。其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。…(略)…。行至筑紫國菟狹。…(略)…。十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫国岡水門。 十有二月丙辰朔壬午、至安芸国、居于埃宮。


其の年(前667年)の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。…(略)…。行きて筑紫国の菟狭に至ります。…(略)…。十有一月の丙戌の朔甲午に、天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ。 十有二月の丙辰の朔壬午に、安芸国に至りまして、埃宮に居します。

くだって、仲哀天皇ちゅうあいてんのう8年(199)の春、正月。仲哀天皇ちゅうあいてんのうは、朝廷ちょうていへの朝献ちょうけんを無視した熊襲くまそを討つため親征しんせいし、筑紫ちくし(九州)に向かいます。その途上、仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごうを迎えたのが、現在の岡田宮おかだぐう右殿うでん熊手宮くまでぐう)にまつられる県主あがたぬし熊鰐命くまわにのみことでした。天皇の車駕しゃがが来ることを聞きつけた熊族くまぞくおさであった熊鰐くまわには、500本のさかきを9そうの船の舳先へさきに立て、上枝うわえだ白銅鏡はくどうのかがみ中枝なかえだ十握剱とつかのつるぎ下枝しもえだ八尺瓊やさかにを掛け、周芳すおう沙麼さばうら(山口県防府市ほうふし佐波さばか?)にて出迎えます。そして魚と塩が取れる土地を御領ごりょうとして献上けんじょうし、筑紫ちくし(九州)の航路を伝え、船を導き、熊手くまでと称した当地で一行を歓待かんたいし出迎えます。社伝では、仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごうは、この滞在の折に当宮とうぐう岡田宮おかだぐう)にまいり、八所神はっしょしん親祭しんさいしたと伝えられています。また、当地から西北西1kmにある熊手岬くまでみさき皇后崎こうがさきが、仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごうがしばらく留まった地とされています。

『日本書紀』巻第八

仲哀天皇八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫抜取五百枝賢木、以立九尋船之舳先、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握剱、下枝掛八尺瓊、参迎于周芳沙麼之浦。而獻魚鹽地。…(略)…。既而導海路。自山鹿岬廻之入岡浦。到水門、御船不得進。則問熊鰐曰、朕聞、汝熊鰐者、有明心以參來。何船不進。熊鰐奏之曰、御船所以不得進者、非臣罪。是浦口有男女二神。男神曰大倉主。女神曰菟夫羅媛。必是神之心歟。天皇則祷祈之、以挾抄者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭。則船得進。皇后別船、自洞海入之。潮涸不得進。時熊鰐更還之、自洞奉迎皇后。則見御船不進、惶懼之、忽作魚沼・鳥池、悉聚魚鳥。皇后看是魚鳥之遊、而忿心稍解。及潮滿卽泊于岡津。


仲哀天皇八年(199)の春正月の己卯朔壬午に、筑紫に幸す。時に、岡県主の祖熊鰐、天皇の車駕を聞りて、予め五百枝の賢木を抜じ取りて、九尋の船の舳先に立てて、上枝には白銅鏡を掛け、中枝には十握剱を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼の浦に参迎ふ。魚塩の地を献る。既にして海路を導きつかへまつる。山鹿岬より廻りて岡浦に入ります。水門に到るに、御船、進くことを得ず。則ち熊鰐に問ひて曰はく、「朕聞く、汝熊鰐は、明き心有りて参来り。何ぞ船の進かざる」とのたまふ。熊鰐奏して曰はく、「御船進くこと得ずは、臣が罪に非ず。是の浦の口に男女の二神有す。男神をば大倉主と曰す。女神をば菟夫羅媛と曰す。必に是の神の心か」とまうす。天皇、則ち祷祈みたまひて、挟抄者倭国の菟田の人伊賀彦を以て祝として祭らしめたまふ。則ち船進くこと得つ。皇后、別船にめして、洞海より入りたまふ。潮涸て進くこと得ず。時に熊鰐、更た還りて、洞より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進かざることを見て、惶ぢ懼りて、忽に魚沼・鳥池を作りて、悉に魚鳥を聚む。皇后、是の魚鳥の遊を看して、忿の心、稍に解けぬ。潮の満つるに及びて、即ち岡津に泊りたまふ。

その後、時期は不詳ふしょうですが、熊族くまぞく祖神おやがみとして熊鰐命くまわにのみこと御祭神ごさいじんとする熊手神社くまでじんじゃ創建そうけんされたとされています。また、岡田宮おかだぐう八所神社はっしょじんじゃもそれに合わせ創建そうけんされ、同一の社域しゃいきにそれぞれ鎮座ちんざする三社であったとも考えられますが、中世には、熊手神社くまでじんじゃ境内けいだい岡田宮おかだぐうまつられるようになり、岡田宮おかだぐう熊手神社くまでじんじゃを「熊手上社くまでかみしゃ」、八所神社はっしょじんじゃを「熊手下社くまでしもしゃ」と称したと伝えられています。

北部九州における海陸路(洞海船留どうかいふなどめ皇后崎津こうがさきつ太宰府官道だざいふかんどう)の要衝ようしょうに位置することから、古来より皇室こうしつ公家武門くげぶもん、武将等の三社への崇敬すうけいあつく、祭礼法度さいれいほっとを定め社領しゃりょう18所、末寺まつじ9坊と大いに栄え、天慶てんぎょう3年(940)藤原純友ふじわらのすみとも追討ついとうの折には、追捕使ついぶし主将しゅしょうであった小野好古おののよしふる副将ふくしょう源経基みなもとのつねもと戦勝祈願せんしょうきがんの為に当宮とうぐう参詣さんけいし、三環鈴さんかんれい奉献ほうけんしました。鎌倉時代に入ると、建久5年(1194)に東国あづまのくに御家人ごけにんである宇都宮重業うつのみやしげなり山鹿氏やまがし麻生氏あそうし)が源頼朝みなもとのよりともより当地を与えられ、藤原兼直ふじわらかねなお波多野兼直はたのかねなお)に当社を奉仕ほうしさせ、大社たいしゃとして崇敬すうけいされていたとされています。

しかし、永禄えいろく2年(1559)大友宗麟おおともそうりん兵火へいかかかり、一切を焼亡しょうぼう永禄えいろく8年(1565)に麻生元重あそうもとしげ八所神社はっしょじんじゃ社殿しゃでん再興さいこうしますが、岡田宮おかだぐう熊手宮くまでぐうは衰退し、天正てんしょう年中(1573-1593)には、岡田大神おかだのおおかみ熊手大神くまでのおおかみの両神は同殿にまつられていたと伝えられています。

江戸時代に入り、黒田氏くろだし筑前ちくぜんに入国すると、筑前六宿ちくぜんむしゅく(長崎街道)の起点・黒崎宿くろさきしゅくとして整備され、慶長けいちょう8年(1603)岡田おかだ熊手くまでの両社と八所神社はっしょじんじゃ合祀ごうしし、現在の岡田町おかだまち遷座せんざ慶長けいちょう10年(1605)黒崎城くろさきじょう築城の際に筑前六宿ちくぜんむしゅくの起点となり、福岡藩ふくおかはん祈祷社きとうしゃ黒崎宿くろさきしゅく産土神うぶすながみと定められました。

爾来じらい、歴代福岡藩主ふくおかはんしゅをはじめ、参勤交代さんきんこうたいで訪れる諸大名の尊崇そんすうを受け、また上り下りの文人墨客ぶんじんぼっかく等が数多く参詣さんけいしました。幕末の慶応けいおう元年(1865)に尊皇派そんのうは公卿くぎょう三条実美さんじょうさねとみが、政変により大宰府だざいふ配流はいるされる際、密かに当社に参拝さんぱいし、維新回天いしんかいてん大願成就たいがんじょうじゅを願い和歌を奉納ほうのうしています。

明治維新後は黒崎熊手くろさきくまで50余町の鎮守神ちんじゅがみとして益々崇敬すうけいされ、現在では近隣住民はもちろんの事、広く北九州圏内からの参拝者さんぱいしゃで1年を通して賑わいます。


境内社けいだいしゃなど】

社殿しゃでん向かって右手(西側)の手前から

興玉神おきたまのかみ猿田彦大神さるたひこのおおかみ

天孫降臨てんそんこうりんの際に道案内をしたことから、道祖神どうそしんとしてまつられています。永禄えいろく8年(1565)京良城一本松きょうらぎいっぽんまつより勧請かんじょう例祭日れいさいびは、4月9日。

湊天満宮みなとてんまんぐう

御祭神ごさいじんは、菅原道真神すがわらのみちざねのかみ延喜えんぎ元年(901)太宰府だざいふ流謫るたくされた菅原道真すがわらのみちざねがその途次とじ、舟を留めたと伝えられる熊手湊くまでのみなと延長えんちょう2年(924)奉斎ほうさい例祭日れいさいびの9月24~25日は、放生会ほうじょうえとして御神幸祭ごしんこうさいり行われています。

須賀神社すがじんじゃ

須賀神社

御祭神ごさいじんは、素戔嗚命すさのおのみこと稲田姫命いなだひめのみこと相殿あいどの住吉三神すみよしさんじん表筒男命うわつつのおのみこと中筒男命なかつつのおのみこと底筒男命そこつつのおのみこと)をまつっています。慶長けいちょう10年(1605)8月に初代福岡藩主ふくおかはんしゅ黒田長政くろだながまさ家臣かしん井上之房いのうえゆきふさに命じて勧請かんじょう。7月21~23日の御神幸祭ごしんこうさいは、岡田宮おかだぐう、同様に慶長けいちょう10年(1605)に須賀神社すがじんじゃ勧請かんじょうされた春日神社かすがじんじゃ岡田宮おかだぐうの旧鎮座地ちんざち一宮神社いちのみやじんじゃの3社に奉納ほうのうされる黒崎祇園山笠くろさきぎおんやまがさとして知られています。黒崎祇園山笠くろさきぎおんやまがさは、昭和43年3月3日に県指定文化財の指定を受けています。

伊勢大神宮いせだいじんぐう

御祭神ごさいじんは、天照大御神あまてらすおおみかみ豊受大神とようけのおおかみ例祭日れいさいびは4月15日。宝永ほうえい4年(1707)久芳仁右エ門一巳くばにうえもんかずみにより勧請かんじょう

蛭子神社ひるこじんじゃ

御祭神ごさいじんは、事代主命ことしろぬしのみこと例祭日れいさいびは12月3日。元和げんな年間に勧請かんじょう元和げんな10年(1624)に舟町ふなまち田町たまち地区から勧請かんじょう。商売繁盛の守護神しゅごしんとしてまつられています。

琴平神社ことひらじんじゃ

御祭神ごさいじんは、崇徳天皇すとくてんのう元禄げんろく12年(1699)舟町ふなまちの舟問屋からの勧請かんじょう石祠いしほこら扁額へんがく金刀比羅宮ことひらぐう)をまつっています。例祭日れいさいびは、3月10日、9月10日。

御穀神社ごこくじんじゃ

御祭神ごさいじんは、御穀大神ごこくのおおかみ。昭和46年(1971)家業開運の守護神しゅごしんとして宮本家みやもとけ持松家もちまつけ勧請かんじょう例祭日れいさいびは、10月9日。

生目八幡神社いきめはちまんじんじゃ疫神社えきじんじゃ

最奥に並ぶ石碑せきひ2塔。向かって右手が生目八幡神社いきめはちまんじんじゃ御祭神ごさいじんは、品陀和気命ほむだわけのみこと藤原景清ふじわらのかげきよ永禄えいろく10年(1567)眼病平癒がんびょうへいゆの為に勧請かんじょうされました。例祭日れいさいびは、4月10日。向かって左手の疫神社えきじんじゃは、大禍津日神おほまがつひのかみ御祭神ごさいじんとしてまつり、天保てんぽう5年(1834)に黒崎宿くろさきしゅく悪疫あくえきが流行した時に勧請かんじょうされました。例祭日れいさいびは、9月13日。

社殿しゃでん向かって左手(東側)の奥から

稲荷神社いなりじんじゃ

創建そうけん不詳ふしょう宇迦之御魂神うかのみたまのかみまつっています。隈崎稲荷くまさきいなりとも称されていました。例祭日れいさいびは、4月8日、9月8日。

貴船神社きふねじんじゃ

御祭神ごさいじんは、水神すいじんとして知られる高龗神たかおかみのかみ闇龗神くらおかみのかみ慶長けいちょう10年(1605)に牛馬安全ぎゅうばあんぜん守護神しゅごしんとして勧請かんじょう例祭日れいさいびは、7月24日。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 二之鳥居
  • 神門
  • 神門
  • 境内
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 本殿
  • 社殿向かって右手(西側)の摂末社
  • 興玉神・猿田彦大神
  • 湊天満宮
  • 須賀神社
  • 須賀神社
  • 伊勢大神宮
  • 蛭子神社
  • 琴平神社
  • 御穀神社
  • 生目八幡神社
  • 疫神社
  • 社殿向かって左手(東側)の摂末社
  • 稲荷神社
  • 貴船神社
  • 御神木のイチョウ
  • 御神木のイチョウ

情報

住所〒806-0033
北九州市きたきゅうしゅうし八幡西区やはたにしく岡田町おかだまち1-1
創始そうし不詳ふしょう
社格しゃかく村社そんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい4月3日、10月18~19日
神事しんじ建国祭けんこくさい(2月11日)、放生会ほうじょうえ(9月24~25日)
HP 公式HP / Wikipedia

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