九州の神社

生松天神社(糸島市)

御祭神

御祭神ごさいじん 菅原道真公すがわらみちざねこう (※紅梅天神こうばいてんじん生松天神おいまつてんじんあわまつるとの資料もある)

由緒

生松天神社おいまつてんじんしゃは、平安時代後期の外寇がいこうとして知られる寛仁かんにん3年(1019)の「刀伊とい入寇にゅうこう」にそのしょを見る神社です。

寛仁かんにん3年4月7日(1019年5月20日)、中国東北部黒竜江こくりゅうこう(アムール川)下流域から沿海州えんかいしゅう一帯に勢力を持った女真族じょしんぞくの一派とみられる刀伊とい賊徒ぞくとが、対馬つしま壱岐いきに続いて筑前国ちくぜんのくに怡土いと志摩しま早良さわら諸郡しょぐん侵略しんりゃくします。その船団の数、50そうほどで1そうにつき60-50人、もしくは30-20人。その総勢、約3,000人。

刀伊とい賊徒ぞくとは、人々を拉致し、金穀きんこくを略奪し、暴虐の限りを尽くしました。翌8日(5月21日)には博多湾はかたわん能古島のこのしま、9日(5月22日)には博多はかた警護所けごしょを襲撃します。その後、能古島のこのしまに戻るも、風が強く、なみも高かったため大宰府軍だざいふぐんと膠着状態となります。その間の11日(5月24日)の未明、藤原隆家ふじわらのたかいえの率いる大宰府軍だざいふぐんは、船越津ふなこしつ財部弘延たからべのひろのぶをはじめとする精鋭を派遣し、襲撃を待ち受けました。12日(5月25日)のとりこく(17-19時)賊徒ぞくとは再び志摩郡しまぐんの沿岸をおかしますが、待ち伏せていた大宰府軍だざいふぐんに討ち取られて外洋がいように走り去りました。翌13日(5月26日)肥前国ひぜんこく松浦郡まつうらぐんの海岸をおかしますが、日本側にたれ、刀伊とい賊徒ぞくと壱岐いき対馬つしまかえり去ったのでした。

社伝しゃでんによれば、「刀伊とい入寇にゅうこう」のあった5月11日(5月24日)の未明に派遣された精鋭部隊が、大宰府天満宮だざいふてんまんぐうから御祭神ごさいじん勧請かんじょうし、賊徒退散ぞくとたいさん神明しんめい祈願きがんし、梓(あずさ・たず)の弓を奉納ほうのうしました。この時の祈願所きがんしょとなったのが生松天神社おいまつてんじんしゃのはじまりと伝えています。その戦禍の後、亡くなった人々を、刀伊とい賊徒ぞくとも含め、手厚く葬ったとされています。その由緒ゆいしょから、現在でも4月25日と11月25日の宮座祭みやざさいでは、白羽しらは弓矢ゆみや宮座当番みやざとうばんが各3組を奉献ほうけんするならいとなっています。

往古はうら久家地区くがちくの南の海岸沿いに鎮座ちんざしましたが、文政ぶんせい6年(1823)2月に現在地へ遷座せんざしました。

神宝しんぽうとして石玉いしたま御神体ごしんたいが伝えられ、御神体ごしんたいを納めた箱の蓋には「享保壬子十七年(1732)二月八日八大竜王磯取揚」との書付かきつけが記されていることから、龍王宮りゅうおうぐう現・綿積神社わだつみじんじゃ)前の磯から取上げ、納められたと考えています。この石玉いしたま御神体ごしんたい神宝しんぽう)のことはつとに知られ、『筑前国風土記拾遺ちくぜんのくにふどきしゅうい』にも「色浅青にして形西瓜の如し。水に浸せば、光沢有りて鑑むべし」との記載があります。一説には漁夫ぎょふ平戸ひらどの海中に光るものを見つけ、珍しきものなりとて持ち帰ったものとも伝えられています。

神社名は、生松天神社おいまつてんじんしゃ老松天神社おいまつてんじんしゃ老松神社おいまつじんしゃ生松天神社おいまつてんじんしゃ老松神社おいまつじんしゃ文化年間ぶんかねんかん:1804-1818)→生松天神社おいまつてんじんしゃ(現在)と「生松おいまつ」と「老松おいまつ」を交互によく変わっており、老松神社おいまつじんしゃ扁額へんがく幣殿へいでんかかげてあります。明治5年(1872)11月3日に村社そんしゃに定められました。

※年代表記 : 旧暦(新暦)


【刀伊の入寇】

大陸から海を隔てた日本に対する外寇がいこうとして知られる鎌倉時代の元寇げんこう。その前の平安時代後期。寛仁かんにん3年(1019)壱岐いき対馬つしま、そして怡土郡いとぐん早良郡さわらぐんなどへ中国東北部黒竜江こくりゅうこう(アムール川)下流域から沿海州えんかいしゅう一帯に勢力を持った女真族じょしんぞくの一派とみられる刀伊といが、大船団による襲撃を行います。その事変じへんが「刀伊とい入寇にゅうこう」です。

壱岐いき対馬つしま、そして怡土郡いとぐん早良郡さわらぐんなどの領民が朝鮮半島北部、及び北東部を拠点とする国外へ連れ去られた事変じへんで、公卿くぎょう藤原実資ふじわらのさねすけ(957~1046)が残した日記である『小右記しようゆうき』、平安時代後期の白河院政期しらかわいんせいき(1086-1129)に編纂へんさんされた『大鏡おおかがみ』、及び永久えいきゅう4年(1116)に成立した『朝野群載ちょうやぐんさい』にその詳細が記されています。

刀伊とい賊徒ぞくとの規模は、50余艘よそう。船の長さ12ひろ(約21.7m)、あるいは8~9ひろ(約14.5~16.3m)。かじは30~40ほどあり、乗る者は50~60人、もしくは20~30人あったとされています。耀かがやく刀を持った20~30人の先陣が奔騰ほんとうして上陸し、次に弓矢ゆみやや楯を持った者70~80人ほどがその後に従いました。その兵団へいだんの数は10~20隊に及び、総勢は3,000人に及んだと考えられています。

『朝野群載』

撃攻刀伊國賊徒状
大宰府解 申請 官裁事
言上刀伊國賊徒或撃取或逃劫状

右件賊船、五十餘艘、(略) 今月七日到來、即載在状言上先了、且整舟船、且軍兵警固要害所々、然間壱岐島講師常覺、同七日申時參來申云、合戦之間、島司及島内人民、皆被攻略、常覺獨逃脫者、同日襲來筑前國怡土郡、經志摩早良等郡、奪人物、焼民宅、其賊徒之船、或長十二箇尋、或八九尋、一船之檝、三四十許、所乗五六十人、二三十人、耀刀奔騰、次帯弓矢、負楯者七八十人許、相從如此、一二十隊。

刀伊とい賊徒ぞくとは先ず3月28日(5月11日)に対馬つしまに襲来します。その軍船ははやぶさのように速く、36人を殺害、382人(346人?)を拉致し、対馬銀山つしまぎんざん焼損しょうそんしました。続いて壱岐島いきのしまに襲い掛かり、国司こくし壱岐守いきのかみ藤原理忠ふじわらのまさただをはじめとする僧侶や地元住民たちは、応戦するも三度の襲来に討ち死にします。総計で148人が殺害され、239人が拉致。追討から逃れたのは35人だけでした。対馬つしま国司こくし対馬守遠晴つしまのかみとおはる、及び壱岐島分寺いきとうぶんじ常覚じょうかくは、島からの脱出に成功し、刀伊とい賊徒ぞくと怡土郡いとぐん志摩郡しまぐん早良郡さわらぐんを襲う寸前に大宰府だざいふ刀伊といの襲来を報告しました。大宰府だざいふがその報告を受け、朝廷ちょうてい飛駅ひえきつかわし、飛駅ひえきが到着したのは4月17日(5月30日)の事で『小右記しようゆうき』に詳細が記されています。4月8日(5月21日)に賊徒ぞくと能古島のこのしまに到り大宰府だざいふ警固所けごしょを襲ったことも時を同じくして報告されました。

『小右記』寛仁三年四月一七日

戌刻許惟圓師持來帥中納言書、[只一行、]今月七日書云、刀伊國者五十余艘來、着對馬島、殺人放火、警固要害、差遣兵船、府飛驛言上者、惟圓歸去、不幾重來云、八日送内房師書同飛驛持來云、件異國船來着乃古島、[去大宰府警固咫尺云々者、


午後8時頃に惟円師が帥中納言より一行のみ書かれた書状を持ってきた。今月七日の書状に云うには、刀伊国の者の五十艘が対馬島に来着し殺人・放火をしている。要害を警固し、兵船を差し遣わしますとのことだ。惟円が帰り去って幾ばくもなく重ねて来て云うには、八日に内房に送った師の書状を、同じく飛駅で持ってきましたと。その云うには、異国船は大宰府の警固所に近い乃古島に来着したとのことだ。

『小右記』寛仁三年四月一八日

府解云。刀伊國撃對馬壹岐等嶋[對馬守遠晴參府申事由、壹岐守理忠被殺害、又筑前國乃古嶋(警固近々所云々)、示彼賊多來、不可敵對、其迅如隼云々、帥率軍到警固可合戦云々]


大宰府の解文に云うには、刀伊国が対馬・壱岐等の島を襲撃した。[対馬守大春日遠晴が大宰府に参り、事情を申しました。壱岐守藤原理忠は殺害されました。また、筑前国の乃古嶋(警固所の近々の所)より、あの賊は多く来襲しており、敵対することができません。その速さは、隼の如くです。帥は軍を率いて警固所に到り、合戦することになった]

『小右記』寛仁三年六月二九日

壹岐講師常覺、
賊徒三襲、毎度撃返後、不堪數百之衆、一身迯脫。身雖非在俗、其忠不可隠。

(略)

壹岐嶋
守藤原理忠被殺害、被殺害嶋内人民百四十八人、男四十四人、法師十六人、童廿九人、女五十九人、

追取女等二百丗九人。
遺留人民丗五人[諸司九人、郡司七人、百姓十九人]

對馬嶋
銀穴燒損事云々、
被殺害人十八人、被追取人百十六人[男三十三人、童・女合八十三人、童廿八人、女五十六人、已上百三十四人]

上縣郡百卌一人
被殺害人九人、被追取男・女・童百卅二人[男三十九人、女・童九十三人]

下縣郡男・女并百七人
被殺害男・女并百七人、被追取男・女・童九十八人[男三十人・女童并六十八人]

并三百八十二人[男百二人、女童二百八十人]


壹岐講師常覺。
賊徒は三度、襲来した。毎回、撃退した後、数百の兵に堪えられず、一身で逃れ脱した。身は在俗ではなくとも、その忠節は隠すことはできない。

(略)

壱岐島。
守藤原理忠が殺害された。殺害148人。男44人、法師16人、童29人、女59人。拉致された女達239人。遺留35人[諸司9人、郡司7人、百姓19人]。

対馬島。
対馬銀山焼損。殺害18人。拉致116人[男33人、童と女83人(童28人・女56人)。以上134人]。

上縣郡。
総計141人。殺害9人。拉致132人[男39人、女と童93人]。

下縣郡。
総計107人。殺害9人。拉致98人[男30人、女と童68人]。

対馬島の総計382人[男102人。女と童280人]。

4月7日(5月20日)。刀伊とい賊徒ぞくとは、筑前国ちくぜんのくに怡土いと志摩しま早良さわら諸郡しょぐん侵略しんりゃくします。山に登って一帯を制圧し、馬牛を斬って食らい、犬肉をほふりました。児童や老人はことごとく斬殺され、400~500人ほどの壮健な大人を船に拉致し、手当たり次第に穀米のたぐいも略奪し尽くしました。

大宰府軍だざいふぐんは兵士を召し抱えていたものの、中心部から離れ、対峙たいじすべき場所が広すぎたことから集まるのに時間がかかり、兵船を整えることができませんでした。その中、志摩郡しまぐんの住人である文室忠光ふんやのただみつらが賊徒ぞくとを迎撃します。賊徒ぞくとの射手が数十人、船にも船員が残っている中に乗り込んで数人の賊徒ぞくとの首を斬り、10人余りの射手に危害を加えたのでした。

『朝野群載』

登山絕野、斬食馬牛、又屠犬肉。叟嫗兒童、皆悉斬殺、男女壯者、追取載船、四五百人。又所々運取穀米之類、不知其數、云々。事出處外、要害地廣、雖召人兵、來未多、雖整舟船、勢未□、雖然輿所差遣兵士、幷彼郡住人文室忠光等、合戦之塲、賊徒中矢者數十人、或扶以載船、其中追所斬首數輩、兵士等中矢十余人。

4月8日(5月21日)。刀伊とい賊徒ぞくと博多湾はかたわん能古島のこのしまを襲撃。住民は応戦するも多くが拉致されます。対して大宰府軍だざいふぐん藤原隆家ふじわらのたかいえ大宰権帥だざいのごんのそちとし、大蔵種材おおくらのたねき藤原朋範ふじわらのとものり平為賢たいらのためたか平為忠たいらのためただ藤原助高ふじわらのすけたか大蔵光弘おおくらのみつひろ藤原友近ふじわらのともちか等の府兵ふへい警固所けごしょ守護しゅごを命じました。

『朝野群載』

同八日移來同國那珂郡能古島、重錄在状、言上又了、但彼郡人民、或迷闘戰、或爲賊虜、飛驛言上之前、不申仔細也、以前少監大藏朝臣種材、藤原朝臣朋範、散位平朝臣爲賢、平朝臣爲忠、前監藤原助高、傔杖大藏光弘、藤原友近等、警固所、令相禦。

4月9日(5月22日)の朝。刀伊とい賊徒ぞくと警固所けごしょを焼こうと襲撃してきました。しかし藤原隆家ふじわらのたかいえ大宰権帥だざいのごんのそちとする大宰府軍だざいふぐんは、平為賢たいらのためたか平為忠たいらのためただが先陣を切って多くの賊徒ぞくとを射殺。賊徒ぞくとは死体を船中に持ち入ったり、て置いたり、生虜いけどられる者もいました。船には50~60人乗っており、合戦の場では全員が楯を持ち、前衛がほこ、次陣は大刀たち、その後に弓箭きゅうせんが続いていました。せんは1尺ほどの長さで、大宰府軍だざいふぐんの楯をつらぬいて人に達するほどの威力を持っていました。しかし大宰府軍だざいふぐん下人げにんが射殺されたのみで、指揮官たちは無傷でした。馬に乗って射取り、鏑矢かぶらやを放つとその音を恐れて引き退きました。賊徒ぞくとが船にのがれ、岸に沿ってさおさすも、大宰府軍だざいふぐんは兵船が無いので追撃できませんでした。次に刀伊とい賊徒ぞくとは、船を下りて筥崎宮はこさきぐうを焼こうとしましたが、前行していた兵を1人を射殺すると驚いて船に乗って能古島のこのしま逃遁とうとんしました。

『小右記』寛仁三年四月二十五日

惟円云、使者乘隼船參上、但異國八日俄來着能古嶋、同九日亂登博多田、府兵忽然不能徵發、先平爲忠・同爲方等爲帥首馳向合戰、異國軍多被射殺、不留戰塲持入船中、又有弃置者、又有生虜者等、又奪取兵具・甲冑者、一船中有五六十人、合戰塲毎人持楯、前陣者持鉾、次陣持大刀、次陣弓箭者、箭長一尺余許、射力太猛、穿楯中人、府軍被射殺者只下人也、爲將軍者不被射、乗馬馳向射取、只恐加不良聲引退、[刀伊國人之中有新羅國人等云々]乗船遁去、傍岸掉船、府軍等依無兵船不能追撃、從陸路馳行、刀伊人更下船燒欲莒前宮、府兵射殺前行兵一人、驚乗船逃遁。


惟円が云ったことには、「使者は隼船に乗って参上しました。但し、異国は八日、急に能古島に来着しまし、同じく九日に博多田に乱れて上陸しました。大宰府兵は、急に徴発することはできませんでした。先ず平為忠と平為方が帥の先駆として合戦に馳せ向かいました。異国軍は多く射殺されました。死体は戦場に留めずに船中に持ち入り者も、また棄て置く者もいました。また生虜となる者もいました。また、兵具や甲冑を奪取しました」ということだ。「一船の中には五六十人がいました。合戦の場では、人毎に楯を持ち、前人の者は鉾を持っていました。次陣は大刀を持ち、その次は弓箭の者でした。箭の長さは一尺余りほどで、射力ははなはだ猛々しく、楯を穿ち人に当たりました。大宰府軍で射殺された者は、ただ下人だけです。将軍である者は射られませんでした。馬に乗って馳せ向かい、射取りました。賊徒は鏑矢の声を恐れて引き退きました[刀伊国の人の中には、新羅国の人もいましたということです]。船に乗って遁れ去り、岸に沿って船を掉さしました。大宰府軍は、兵船が無いので追撃することができませんでした。陸路から馳せ行きました。刀伊人は、更に船を下りて、筥崎宮を焼こうとしましたが、府兵は前行していた兵一人を射殺すると驚いて船に乗って逃遁しました。」。

その戦いの後の2日間は北風が強く波が高かったため互いに攻めることなく膠着状態となります。その間に大宰府軍だざいふぐんは、38そうの軍船を急ぎ造らせます。そして4月11日(5月24日)の未明に早良郡さわらぐんから志摩郡しまぐん船越津ふなこしつ財部弘延たからべのひろのぶをはじめとする精鋭を派遣し、襲撃を待ち受けました。4月12日(5月25日)のとりこく(17-19時)賊徒ぞくとは再び志摩郡しまぐんの沿岸をおかしますが、待ち伏せていた大宰府軍だざいふぐんに討ち取られて退却します。

『朝野群載』

其後二箇日風猛波高、不能相攻。十一日未明、同國早良郡至志摩郡船越津、先是分遣精兵、豫令相待、同十二日酉時上陸、與大神守宮權撿非違使弘延等、合戰、中矢之賊徒卅餘人、生得二人、其中一人被疵、一人女、少貳平朝臣致行、前監種材、大監藤原朝臣致孝、散位爲賢、同爲忠等、差加兵士、以船卅餘艘、令攻追。

『小右記』寛仁三年四月二十五日

十日・十一日北風猛烈、不得還渡逗留海中、神明所爲欤兩日間府令營造兵船卅八艘令追襲、賊徒遁去。

『小右記』寛仁三年六月二十九日

大神守宮・擬撿非違使財部弘延、
賊徒撃却之間、計要害所々、件守宮等差加兵士豫所遣也、而於筑前國志摩船越津邊合戰之間、中件守宮等之矢者多、就中生捕者二人、但一人被疵死了。

4月13日(5月26日)。刀伊とい賊徒ぞくとは、肥前国ひぜんこく松浦郡まつうらぐんの海岸をおかすも、源知みなもとのさとるをはじめとする大宰府軍だざいふぐんが討ち取り賊船は遂に本土から離れたのでした。

『朝野群載』

同十三日、賊徒至肥前國松浦郡、攻劫村閭、爰彼國前介源知□、率郡内兵士戰、中矢者數十人、生得者一人、賊船不能進攻遂以歸。

この戦いの後、大宰権帥だざいのごんのそち藤原隆家ふじわらのたかいえ大宰府軍だざいふぐん刀伊軍といぐんの追撃を命じます。先ず対馬つしま壱岐いきに到り、国境に限っての襲撃を命じました。この時に捕まえた賊徒ぞくと高麗人こうらいじんで、取り調べに対し「高麗こうらいの村々を襲う刀伊といを撃退するために従軍していたものの、逆に捕まった者だ」と話をしていました。しかし、当時の日本は、女真族じょしんぞくと思われる刀伊といが何者か分からなかったため、実は攻めてきたのは高麗こうらいで、生虜いけどった賊徒ぞくとの虚言ではないかとも考えられていました。なお、朝鮮語では外夷がいいを「toi-nom」と言い、高麗こうらい時代には主として女真族じょしんぞく呼称こしょうであったとされています。

この刀伊とい入寇にゅうこうにおいて、九州本土での被害は殺害・拉致を合わせて900人近くに及びました。殺害数に比して拉致数が多いことなどから、刀伊といの襲撃の目的は奴隷であったと考えられています。

『小右記』寛仁三年六月二九日

筑前

志摩郡人五百四十七人、[被殺害者百十二人、追取者四百三十五人、牛馬七十四疋頭]

早良郡人六十四人、[男廿四人、女四十人、牛十頭、馬九疋、被殺害者十九人、被追取者四十四人、被切食牛馬疋六頭]

怡土郡人二百六十五人、[被殺害四十九人(男童并四十三人、女六人)、被追取二百十六人(男卅八人、女童并百七十八)、牛馬卅三疋頭、牛十六頭、馬十八疋]

能古島人九人、[女六人、童三人、駄四十四疋、牛廿四頭]


筑前

志摩郡。総計547人。殺害112人。拉致435人。牛馬74頭。

早良郡。総計64人。男24人、女40人。牛10頭。馬9匹。殺害19人。拉致44人。喰われた牛馬6匹。

怡土郡。総計265人。殺害49人(男と童43人・女6人)。拉致216人(男38人・童と女178人)。牛馬33匹頭。牛15頭。馬18匹。

能古島。総計9人。女6人。童3人。荷馬44匹。牛24頭。

朝廷ちょうていにこの「刀伊とい入寇にゅうこう」の報がもたらされたのは、最後の襲撃となった4月13日(5月26日)の後、4月17日(5月30日)でした。朝廷ちょうていは一報が入った翌日の4月18日(5月31日)に討伐令とうばつれいを発しました。そのことから6月29日(8月8日)に軍功ぐんこうを協議することになった際、討伐令とうばつれいが発せられる以前の戦闘は軍功ぐんこうに値しないのではとの論議がなされます。最終的には、藤原実資ふじわらのさねすけが「刀伊人といじん警固所けごしょまで攻めてきた。また、1000人余りを拉致し、数百の牛馬を殺害し、壱岐守いきのかみ藤原理忠ふじわらのまさただを殺した。対して大宰府だざいふは兵士を発し、忽然こつぜんと追撃し刀伊人といじんを射取った。やはり恩賞おんしょうを与えるべきである。もし恩賞おんしょうを与えなければ、以降の有事ゆうじに誰が戦おうとするだろうか」と反論し、軍功ぐんこうは認められることになりました。

その後、福岡沖から去った刀伊とい子細しさいが伝えられるのは、『小右記しようゆうき寛仁かんにん3年8月3日(9月10日)対馬国つしまのくに判官代ほうがんだい長嶺諸近ながみねのもろちかが拉致された状況を伝えたくだりと、9月4日(10月10日)大宰府解だざいふげにて高麗こうらいの使者・鄭子良が拉致された270人ほど(男60人・女200人余)が帰還きかんさせたのを伝えた9月19日~24日(10月25日~30日)のくだりになります。

刀伊軍といぐんは、最初に対馬つしまを襲った時、長嶺諸近ながみねのもろちかとその家族等を拉致します。刀伊とい賊徒ぞくと筑前国ちくごのくに肥前国ひぜんのくにおかした後、再び対馬つしまに立ち寄りました。その時に長嶺諸近ながみねのもろちかは隙を見て逃げ出すのに成功します。そして家族の安否を調べるため、渡海とかいの禁を破って密出国し、高麗こうらい金海府きんかいふおもむきます。そこで対応した高麗こうらい通事つうじは次のように答えたのでした。

刀伊とい賊徒ぞくとは、高麗こうらいで収奪を行っていたため、攻撃しようとしたところ逃げて日本に行った。兵船など準備して待ち受けていたところ、ほどなくして還ってきて海辺を荒らしたので、5ヶ所に1,000艘余そうあまり配置していた兵船で打倒した。その中に日本人の捕虜が300人余いたが、日本国に帰還きかんさせることが既に公定で決まっている。早く対馬つしまに戻り、このことを伝えるように」。

高麗史こうらいし』の4月16日(5月29日)によれば刀伊とい賊徒ぞくとを打倒した高麗水軍こうらいすいぐんは、鎮溟(現在の北朝鮮・元山市うぉんさんし付近)から出撃し、賊船8そうを捕獲して拉致されていた男女259人を保護したこと、鄭子良を使者として日本に捕虜を送り返したことが記されています。

その捕虜が帰還きかんする時に、長嶺諸近ながみねのもろちかもまた金海府きんかいふおもむいたのでした。その人々に長嶺諸近ながみねのもろちかは一家の消息を問うたところ「高麗こうらいの地に到着したる賊徒ぞくとは、強壮きょうそうなる高麗人こうらいじんを取り載せ、日本人の病羸尫弱びょうるいおうじゃくなるものは、皆な之を海に投ぜり。汝の母並に妻・妹等も以て死せり」と知ったのでした。

長嶺諸近ながみねのもろちかは、日本へ戻って大宰府だざいふに報告し、その後に高麗こうらいの使者・鄭子良が捕虜を対馬つしまへ送還して「刀伊とい入寇にゅうこう」は終息を見たのでした。


境内社けいだいしゃなど】

金刀比羅宮ことひらぐう

御祭神ごさいじんは、本座ほんざ大物主神おおものぬしのかみ / 相殿あいどの崇徳天皇すとくてんのう。元は香月地区かつけちく青木氏あおきし宅の祖先・喜右門きえもん氏の代、文政ぶんせい元年(1818)金毘羅こんぴら神号しんごうを授けられ、小祠しょうし斎祀いつきまつってきました。嘉永かえい3年(1851)大風雨によりやしろの周辺が損壊しました。かかる威徳いとくある大神おおかみを農家の近くにまつることをかしこみ、氏神うじがみである当社に遷座せんざすることを願い出て相殿あいどの遷御かんぎょしたところ、社家しゃけ宮﨑氏みやざきしの子息の身体に異変が起こりました。これは神怒しんどなりとして当社の南隣に社垣しゃがきを構えて分祀ぶんししたところ、子息は元の如く治癒したので、毎月の10日を祭日さいじつと定めて奉仕ほうしに努めたとされています。その後、祭日さいじつは1月・4月・10月と年3回行われていましたが、今は4月10日の年1回のみの斎行さいこうとなっています。大正・戦前の頃までは、祭日さいじつとなると多くの露天屋や見世物小屋が出て、村内はもちろん船越ふなこし岐志きし新町しんまちや遠く唐津からつ呼子よぶこからも船で参拝さんぱいがあり、盛大なものであったと伝えられています。近年まで祭り当日は、氏子うじこ各家ごとに多くの客を招待し接待を尽くし、香月かつけ青木家あおきけからも供え物の奉納ほうのうがなされていました。

御祭神ごさいじん大物主神おおものぬしのかみ大国主命おおくにぬしのみこと和魂神にぎみたまのかみであり、古来「海の神様」として漁業・航海など海上の安全を守ってくれる神としての信仰のみならず、農業殖産の神、医薬の神、技芸の神としても全国各地の人々から厚い崇敬すうけいが寄せられ、民衆の神様・庶民の神様として、身近な気安さを感じさせる神様です。

稲荷神社いなりじんじゃ

御祭神ごさいじんは、稲荷大神いなりのおおかみ宇迦之御魂神うかのみたまのかみ倉稲魂命うかのみたまのみこと])。一切の食物をつかさどたまい、稲の豊饒ほうじょう守護しゅごされます。稲荷いなりは「稲生いねなり」の義とされ、神像しんぞうが稲を荷っていることから稲荷いなりの字をてたといわれています。後世、工業・商業が盛んになると、その御神徳ごしんとく農耕神のうこうしんから広がり、殖産興業神しょくさんこうぎょうしん商業神しょうぎょうしん屋敷神やしきがみ・衣食住の祖神おやがみとして稲荷大神いなりのおおかみが農村・漁村・大名・町家・商家に至るまで勧請かんじょうされました。現在では、商売繁盛・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神しゅごしんとして広く信仰を集め、神社数は全国で3万余社に達し最も多いとされています。

猿田彦大神さるたひこのおおかみ

古事記こじき』によると猿田彦大神さるたひこのおおかみ天孫降臨てんそんこうりんに際し、天孫てんそん邇々芸命ににぎのみこと日向国ひゅうがのくにに案内したとされ、導きの神として知られています。このことから「道祖神どうそしん」にも擬せられ、旅安全の神として、全国いたるところの道筋にほこらや石碑が建立こんりゅうされています。当社も久家地区くがちくの道筋から移設したと思われますが、移設前の鎮座ちんざの場所は不明です。

秋葉神社あきばじんじゃ

御祭神ごさいじんは、火之迦具土大神ひのかぐつちのおおかみ。鎮火・防火の神として信仰があつく、各地に多数の分社ぶんしゃ講社こうしゃを持っています。昔は火災が多く、勧請かんじょうしてまつったと思われています。

恵比須えびす恵美寿えびす神社じんじゃ

御祭神ごさいじんは、事代主命ことしろぬしのみこと。航行安全・漁労守護・五穀豊穣・家運隆昌・商売繁盛・家内安全の神として広く信仰を集めています。境内けいだい恵比寿神社えびすじんじゃは2社ありますが、このやしろ生松天神社おいまつてんじんしゃ金刀比羅宮ことひらぐうの奥にまつってあった小祠しょうしを昭和44年(1969)頃、久家船頭くがせんどうの人等が敬神けいしん念篤ねつんあつく近くの浜より石を運び上げ奉納ほうのうし直したものです。台座だいざ丸石まるいしの間から2~3ヶ所常時地下水が滲み出ているのは不可思議とされています。

諏訪神社すわじんじゃ

御祭神ごさいじんは、建御名方神たけみなかたのかみ持統天皇じとうてんのう5年(691)天候不順に際して勅使ちょくしを派遣して祭らせたことから、特に風鎮ふうちん水鎮すいちんの神として信仰されました。五穀豊穣の神としても信仰を集めています。古老によれば当社は、特に蛇除へびよけの神として勧請かんじょうされています。諏訪社すわしゃ蛇除へびよけの神と見立てた理由は定かではありませんが、往時は蛇(まむし)の被害が多かったためとも考えられています。また、近辺によく見られる青大将あおだいしょう(当地ではヤジラミと通称)をむし守護神まもりがみとしてまつったとも考えられています。

Photo・写真

  • 鳥居と桜
  • 鳥居と桜
  • 鳥居と桜
  • 鳥居と桜
  • 注連鳥居と社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿内
  • 金刀比羅宮
  • 狛犬と引津湾(刀伊の襲来地)
  • 狛犬と引津湾(刀伊の襲来地)
  • 猿田彦大神
  • 恵比須(恵美寿)神社
  • 稲荷神社
  • 秋葉神社
  • 恵比須神社:海亀石
  • 諏訪神社

情報

住所〒819-1331
糸島市いとしまし志摩しま久家くが2813
創始そうし寛仁かんにん3年 (1019)
社格しゃかく村社そんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい10月17日

地図・マップ