春日市の名称の由来となっている春日神社は、古い歴史を持つ由緒ある名社です。社記によると、後の天智天皇である中大兄皇子が、この地に天児屋根命の神籬をおかれたのが始まりされています。
斉明天皇6年9月5日(660年10月17日)百済滅亡の報告を受けた斉明天皇は、百済を助けるための出兵を命じます。斉明天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に斉明天皇7年3月25日(661年5月2日)娜大津に至り、 磐瀬行宮に御行幸してその地を長津と改名されました。この筑紫国長津宮に中大兄皇子がおられたとき、当地に藤原鎌足(中臣鎌足)の遠祖である天児屋根命の神籬を立てたと伝えられています。
神護景雲2年(768)大宰少弐に任ぜられた藤原田磨(大宰大弐藤原田麻呂とも)は、当地に藤原氏(中臣氏)の祖神である天児屋根命が祀られていることを知ります。藤原田磨は当地に参拝した後、天児屋根命に加えて、大和国の春日大社(全国の春日神社の総本社)から武甕槌命・経津主神・姫大神の三柱の神を迎え、合わせ祀ります。そして春日大神・春日権現・春日大明神と称え奉りました。この頃の里人は社より当方の原村に居住していましたが、里人も産土神として崇め奉ったので、当地を「春日」と称するようになったとされています。
天正14年(1586)7月、島津氏が大友軍の高橋紹運が籠る岩屋城を攻めた「岩屋城の戦い」に巻き込まれて兵火に罹り、社殿や宝物、創建の年月及び由縁を記したとされる文書等の一切を焼失。『筑前国続風土記拾遺』に「天正14年(1586)薩摩の兵五ケ山より岩屋城に働きし時此辺を放火せしかば御社は炎上して仮なる假殿座しを-(略)-」と出ています。里人も家屋焼失のため、神園であった現在の集落へ移り住むこととなります。天正15年(1587)豊臣秀吉が九州を平定し、筑前国主は小早川隆景、その後に小早川秀秋となります。小早川秀秋は国中の神社仏閣の神領・寺領を没収しました。それを受けて春日神社では、御神体は仮殿に移し、宮司も神職をやめて農民となりました。
慶長5年(1600)初代福岡藩主となる黒田長政の入府と共に、大老黒田一成が春日村の地行領主となります。黒田一成の先祖も藤原氏であり、春日大明神は藤原氏の祖神の社であることから、黒田一成の崇敬心は厚く、神社の北東側に別邸を構え、しばしば参詣し、寛永4年(1627)には神殿を元の位置に再興するのと共に寄進を行いました。歴代の福岡藩主・地行領主から尊崇され、第3代藩主・黒田光之は、慶安2年(1649)御供田15石を寄進し、天和3年(1683)に祭田1反を安堵。第3代地行領主・黒田一貫は元禄5年(1692)神田1反を寄進し、元禄9年(1696)には社殿を境内上段に引き上げ、遷宮の大礼をなしました。
宝永6年(1709)第4代藩主・黒田綱政が石燈籠を奉納。第5代地行領主・黒田一利が『祭田証書』、貝原益軒が『祭田記』を寄進。次いで黒田一利は、宝永7年(1710)自身の筆による額束「春日神祠」を掲げた石鳥居も寄進しています。正徳3年(1713)第5代藩主・黒田宣政が宝殿を再造。同年に春日村の領主・三奈木黒田家の家臣であった吉成尹貞による『筑前国那珂郡春日大明神記録』が成りました。第6代藩主・黒田継高は、享保8年(1723)狛犬、寛保3年(1743)石燈籠を奉納し、延享4年(1747)に宝殿の屋根の葺替え、宝暦3年(1753)には鰐口を奉納しました。また、延享4年(1747)には秋月藩第4代藩主・黒田長貞が庚申面を奉献しています。文化4年(1807)第10代藩主・黒田斉清の絵馬奉献を始め、様々な寄進がありました。江戸期の古文書としては文化4年(1807)『春日大明神御祭礼記録』、天保14年(1843)『春日大明神御祭礼記録』、安政6年(1859)『春日大明神御祭記』などが遺されています。
明治5年(1872)11月3日郷社に、明治40年(1907)9月22日に神饌幣帛供進社に指定され、昭和4年(1929)6月7日には県社に列格されました。昭和34年(1959)1月14日に斎行される婿押祭りが県指定無形民族文化財指定に指定。昭和38年(1963)1月9日に春日の杜(樟)が、昭和39年(1964)5月7日にセンリョウ叢林が県指定天然記念物に指定されます。平成7年(1995)12月26日には、婿押祭りが国指定重要無形民俗文化財に指定されました。平成8年(1996)に社殿(神殿・幣殿・拝殿)の総改修、境内地整備が行われました。
【春日の婿押し(婿押祭り)】
国指定重要無形民俗文化財である「春日の婿押し」は、由来は明らかではありませんが、前年中に結ばれた新郎新婦を祝福する行事です。正月行事の若水祭・左義長・結婚祝福行事など、いくつかの神事や民俗行事が複合されたものと考えられています。祭事は、氏子中の、45歳以下の人々で組織された三期組合を中心として斎行されます。行事は次の順序で行われます。
①お茶役
祭りは「お茶」役を選ぶ所から始まります。前年に花嫁として迎えられた花嫁は、神社でお祓いを受け、お神籤をひいて役が決められます。
②左義長
神事の当日、神苑の枯木を伐り、鳥居前中央に3mの高さの奇数段の井桁に丸太を組み、それに枝のついた樹を立てかけ左義長が積み上げられます。午後7時過ぎ、アキの方(恵方)より火を点し、正月の松飾、注連縄を焼いて無病息災を祈ります。
③お茶
左義長に点火されるのと同じくして、青年・壮年(中老)・年寄組からなる三期組合の人々が「宿(春日公民館・若水会館)」に集まり「お茶」の儀式が始まります。役となった新夫婦が正装で挨拶。振袖姿の新婦が、氏子の長老にお茶(酒)を注ぐ熨斗出しを行い、祭りは始まります。次に花婿の挨拶があり、次いで婿抱き(花婿の介添人)とが向かい合って、花嫁の酌で三度盃を交わします。これにつれて謡三番があげられる一連の儀式を「お茶」といいます。
④宿もみ
「お茶」の儀式の後、裸の少年たちが躍り込み、床の間に据えられた神酒樽を奪おうと押し掛けます。神酒樽を守る青年達との攻防戦「宿もみ」が繰り広げられます。
⑤樽せり
「宿もみ」が終わると、帳元は神酒樽を神前に供えます。青年一同は神前でお祓いを受け、神官から帳元へ樽が渡される。この樽を奪おうと大鳥居前の御池を舞台に勇壮な「樽せり」が始まります。花婿を交えた若者の集団は、締め込みひとつの裸で、冷気のしみる水の中に飛び込みます。遂には、樽は千々に割れて、木片を取り合います。樽の破片は、五穀豊穣・開運のお守りとして各戸の神棚に供えられます。
⑥汐井取り
「樽せり」が終わると全員そろって禊ぎのために汐井川へと向かいます。川に入って身を浄め、川底の汐井(砂)をつかんで帰り、神社のお汐井台に盛って神様に供えます。
⑦婿押し
「お汐井取り」から帰ると、一斉に拝殿に駆け上がって全員で拝殿揉みに移ります。祝唄をうたっては揉み合い、これを3回繰り返す。これを「拝殿揉み」と呼びます。次に花婿を中心にして祝唄をうたい、揉み合って左義長を巡る「空揉み」を行います。その後、御池前で同じ行動を繰り返します。
⑧千秋楽
最後に神前に供えた若水を花婿に注いで祝福して祭りは終わります。この時の唄を若水祝唄といいます。
【境内社など】
「若宮」
社殿向かって右手に鎮座。太力雄命・太玉命を御祭神として祀っています。
「薬師堂」
社殿向かって右手奥に鎮座。薬師如来像を堂内に祀っています。
「春日の杜(樟)」
昭和38年(1963)1月9日に県指定天然記念物に指定。春日神社境内内の11本の樟で形成した杜をいいます。杜の古さとともに、長い年月を経ていた樹齢が偲ばれます。いずれの木も樹枝が繁茂し、雄大で、特徴は樹木が近接し、特に3号木は2本の樹木が癒着し、一体となっていることです。
「センリョウ叢林」
昭和39年(1964)5月7日に県指定天然記念物に指定。社殿向かって左手奥の林に育っています。センリョウはセンリョウ科の常緑低木で、冬になると朱紅色の実を茎先の葉の上部に数個つけます。樹高は50~80cmになります。センリョウはヤブコウジ科のマンリョウ(万両)に対して千両という意味です。「千両、万両」といって縁起を祝う植物として正月用の飾りなどに使われます。