立花山南西麓に鎮座する香椎宮は、仲哀天皇9年(200)または、神亀元年(724)の創建で、主祭神として仲哀天皇、神功皇后を祀っています。古代には神社ではなく霊廟に位置づけられ、仲哀天皇・神功皇后の神霊を祀る「香椎廟」と称されていました。普通の一般の神社と趣を異にすることから「延喜式」には、神社には列せずして「式部省」の部に記せられています。神亀元年(724)以降、勅使は都度参向され、明治18年(1885)に戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられ、大正14年(1925)の勅使奉幣以後は10年毎に勅使参向を受ける勅祭社です。
『諸神記』、『香椎宮編年記』、『香椎廟宮記』などによると、仲哀天皇8年(199)9月、御祭神である仲哀天皇は、神功皇后と共に橿日宮にて、熊襲平定の準備を進めます。その時、神懸りした神功皇后から「熊襲よりも宝のある新羅を攻めよ」との託宣を受けます。しかし仲哀天皇は、これを信じず、翌9年(200)2月6日この香椎の地にて崩御されます。
仲哀天皇の崩御の後、創建までの経緯は諸説あり、ひとつは三韓征討の仲哀天皇9年(200)で、もうひとつは神亀元年(724)です。仲哀天皇9年(200)の説には、仲哀天皇の崩御から三韓征討にかけてどの時期に創建されたのかについて、3つの説が挙げられています。
- ①【凱旋後に創建】その後を引き継いだ神功皇后は、住吉大神の神託を受け、熊襲を平定。そして新羅征討のため、海を渡り三韓征討を行い新羅を平定します。凱旋後、仲哀天皇の御霊を鎮めるべく神功皇后は、現在の古宮の地に皇霊殿のごとき祠を建て、三種の神器(御剣・御鉾鐵・御杖)を埋め、その上に鎧の袖に挿れた杉を植え、敵国を降伏し本朝を鎮護すべしと御神霊を斎き奉ったのが香椎宮の創建とされています。また、仲哀天皇崩御の時、天皇の御屍を御棺に納め奉りしばらく椎の木に掛けられた時、異香四方に薫じたことが香椎の地名の起りとされています。
- ②【征伐前に創建】仲哀天皇の御霊を鎮めるべく神功皇后は、現在の古宮の地に皇霊殿のごとき祠を建てて、三種の神器(御剣・御鉾鐵・御杖)を埋め、その上に鎧の袖に挿れた杉を植え、敵国を降伏し本朝を鎮護すべしと御神霊を斎き奉ったのが香椎宮の創建とされています。また、仲哀天皇崩御の時、天皇の御屍を御棺に納め奉りしばらく椎の木に掛けられた時、異香四方に薫じたことが香椎の地名の起りとされています。仲哀天皇の後を引き継いだ神功皇后は、熊襲を平定。そして住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、海を渡り三韓征討を行い新羅を平定します。
- ③【①と②の折衷】仲哀天皇の御霊を鎮めるべく神功皇后は、天皇の御屍を御棺に納め奉り、しばらく椎の木に掛けられると異香四方に薫じたと伝えられ、それが香椎の地名の起りとされています。仲哀天皇の後を引き継いだ神功皇后は、熊襲を平定。そして住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、海を渡り三韓征討を行い新羅を平定します。凱旋後、仲哀天皇の御霊を鎮めるべく神功皇后は、古宮の地に皇霊殿のごとき祠を建て、三種の神器(御剣・御鉾鐵・御杖)を埋め、その上に鎧の袖に挿れた杉を植え、敵国を降伏し本朝を鎮護すべしと御神霊を斎き奉ったのが香椎宮の創建とされています。
もうひとつの説は、養老7年(723)神功皇后からの託宣を受けて養老8年(724)に創建したとするものです。神功皇后が崩御されてから約450年後の養老7年(723)2月6日、仲哀天皇祠の側に神功皇后の社殿を造営するよう神功皇后からの託宣があり、太宰府から奏せられた朝廷は、即時に詔して課役を九州に出して大廟を建てます。神亀元年(724)12月20日に現在の本殿の地に社殿は竣工し、神功皇后の神霊を鎮祭します。この両宮を併せて香椎廟と称し、祭祀に軽重の差もなく奉斎されていましたが、時勢の変遷により何時しか神功皇后の神祠のみを香椎宮と称し、仲哀天皇の神祠は古宮に祀られるようになっていました。
大正4年(1915)11月10日には勅旨により古宮より仲哀天皇の御神霊が御遷座され、神功皇后と御同座に奉斎されるようになりました。また、創建時に神功皇后・神功皇后の両柱を祀ったとの説も在り、経緯の詳細は不明です。いつしか神功皇后のみが祀られるようになったとも伝えられています。
伊勢の神宮に次ぎて朝廷の御尊崇篤く、宇佐は香椎廟に準ずるとされました。古来、即位、大嘗、変災、外寇その他にわたり、国家に大事ある時は必ず奉幣の御儀があり、「頻浪の奉幣」(絶え間なくしばしば御差遣の意)と伝えられ、伊勢神宮・氣比神宮・石清水八幡宮とともに「本朝四所」の一所にも数えられました。
香椎宮勅祭の文献上の初見は『続日本紀』天平9年(737)夏四月乙巳朔の条に「使を伊勢神宮・大神社・筑紫の住吉・八幡二社(宇佐)・及び香椎宮に遣わし、幣を奉り新羅無礼の状を告げしむ」とあります。
御炎上あれば5ヶ日廃朝あらせられ、また、大宰帥新任の場合は、まず香椎廟に参詣して後に国政を見るを例としました。後伏見天皇の御代(1298-1301)には戦乱の為に奉幣の儀は中絶するに至りましたが、櫻町天皇の延享元年(1744)に再興せられ、甲子の年のめぐる61年毎に必ず奉幣あらせらるる事となり、文化元年(1804)、元治元年(1864)を経て大正14年(1925)の勅使奉幣以後は10年毎に参向あらせられています。
相殿神に祀られている神功皇后の皇子の応神天皇(八幡大神)、新羅討伐に御功績あった住吉大神の配祀年月や由緒等は不詳ですが、八幡大神としても知られる神皇第15代の応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の御子神です。住吉大神は、三韓平定の際、神功皇后に御神託を授け、御渡海に際し、それを守護し、導いた神様です。また、神功皇后は三韓平定の際、御懐妊の身ながら石を懐に抱いて出征し、戻られて無事に応神天皇を御出産された事から聖母大明神と信仰され、安産の霊験あらたかです。
明治維新後、明治4年(1871年)6月に近代社格制度において国幣中社に列し、明治18年(1885)には官幣大社に昇格。戦後は神社本庁の別表神社に列しています。
【神事・祭事】
「勅祭」
香椎宮は、全国に16社ある勅祭社の一社で、九州では宇佐神宮と香椎宮の2社が勅祭社です。「勅祭」は、天皇の勅使が、御幣帛を捧持して御参向になり、神前に宣命を奏せられ、勅使が直接御祭儀を執り行われます。10年毎に10月29日斎行され、宮中より御献納の神饌・幣帛料を捧げ、宝祚の無窮、万民の安寧を祈ります。香椎宮に勅使が御参向せられた記録は、天平9年4月(737)新羅の無礼の状を告げ給う為のものが最初で、毎年の御参向、時には1ヶ月に2度の御参向もあり、頻浪の奉幣と伝えられています。後伏見天皇の御代(1298-1301)には戦乱の為に奉幣の儀は中絶するに至りましたが、延享元年(1744)に勅祭が再興されて以降、甲子の年(60年に1度)が勅使御参向の年と定められました。文化元年(1804)・元治元年(1864)と続き、大正14年(1925)の勅祭以後は10年毎が勅使参向の年となり、文献によると今日まで108回の勅祭の斎行が確認されています。
「大祭」
春季氏子大祭は神功皇后崩御の御忌日4月17日を祭り日と定め、氏子の奉仕で祭典が行われ、獅子楽(県指定重要文化財)、踏歌が奉納され、隔年に御神幸式があります。10月に斎行される秋季氏子大祭には流鏑馬、獅子楽、踏歌など伝統行事の奉納があります。近年、春季大祭、秋季大祭ともそれぞれ17日近くの日曜日に斎行されています。
「古宮祭」
仲哀天皇を祀る祭りで、3月及び12月の6日に年2回行われ、昔は、大宰帥以下国司が参詣して祭文を奏し、筥崎の海人が48尾の紅魚を献じ、志賀の白水郎は風俗舞を奏したと伝えられています。今も志賀島と箱崎浦から海産物が奉納されます。
【境内社など】
「古宮」
現社殿から北東100mに鎮座。仲哀天皇が熊襲平定の為に当地へ下向された時の行宮「橿日宮」の地。仲哀天皇の御神霊を祀った廟が建てられていた香椎宮起源の地です。現在、社殿はありませんが、以前は仲哀天皇の神廟があったので古宮と呼ばれています。入り口正面に仲哀天皇崩御の時、天皇の御亡骸を御棺に納め奉りしばらく椎の木に掛けられた時、異香四方に薫じ「香椎」の地名の起りとも言われる棺掛椎があります。奥には橿日宮の後を示す「仲哀天皇大本営御旧蹟」の石碑が建てられています。
「綾杉」
中門前の広場に立つ御神木の「綾杉」は、神功皇后が三韓より当地へ御帰還の際に三種の神器(御剣・御鉾鐵・御杖)を埋め、鎧の袖に挿れていた杉枝を植えたものが成長したものです。その葉は綾の様に交互に生えているので綾杉といわれています。神功皇后は御自身の神霊をこの杉に留め、仲哀天皇のお側に永仕し「永遠に本朝を鎮護すべし」と祈りを籠めたとされ、養老7年(723)2月6日、同年12月28日の御託宣にも「朕此杉に霊を留て長く異国を降伏し且杉の直なる如く正直の人を守るべし」と告げられています。国家鎮護の象徴として古来よりその杉葉を朝廷に献上され、大宰帥に新任された人は必ず香椎宮に参拝し、この杉葉を冠に挿れることが恒例の儀式として行われ、任期中の無事を祈りました。幾度か神殿と共に焼けた事がありましたが、その度毎に植え継ぐことなく今日も今猶、空高く聳えています。
「不老水」(位置)
香椎宮から北東約400mの飛び地境内、不老山の麓にある霊泉「不老水」は、300年の長寿を保ち五朝(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)にお仕えした武内宿禰が仲哀天皇と神功皇后に随ってこの地に滞在の時、掘ったと伝えられる霊泉です。この御霊泉を汲み取り朝夕奉献の飯酒を調え、また自らも用いたと伝えられています。疾病を除き寿命を延ばすと言われ、天平宝字2年(758)に井戸が補修された際に「不老水」と名付けられました。毎年正月綾杉の葉・椎茸と共に皇室に献上されています。昭和60年(1985)には環境庁「名水百選」に認定されました。また、一帯は武内宿禰が居住した地として「武内屋敷跡」と称されています。
「社殿」
国指定重要文化財の指定を受けている本殿の建築様式は「香椎造」という独特なもので、神亀元年(724)に建立されました。現在の本殿は享和元年(1801)に第10代福岡藩主黒田長順により再建されたものです。入母屋造平入りが基本となっていいますが、外陣左右に「獅子の間」と呼ばれる一間が翼状に張り出し、張り出した部分を切妻屋根で覆い、平面では凸字型となっています。また、外陣左右の突出部には、「車寄」と呼ばれる途切れた階段があります。これは鳳輦の高さに合わせて作られたものです。その他、正面中央は大千鳥破風に縋破風の向拝などの様々な建築様式が用いられ、複雑な屋根の形や車寄の特徴から「香椎造」と呼ばれています。
本殿前に建てられる幣殿は、一般的な神社でいう拝殿に相当する建物で、古来勅使が幣帛を捧げる場所であるとして「幣殿」と称されています。この幣殿からは左右に透塀が伸び、本殿を取り囲んでいます。また幣殿前に建てられる拝殿は土間敷で、正面には「香椎宮」の勅額が掲げられています。これら社殿群の正面に中門が位置し、この中門の左右には回廊が接続しています。これら本殿に続く社殿群は、明治31年(1898)頃の再建です。
「楼門」
重層の檜皮葺総欅白木造の門です。戦火により焼失していましたが、明治36年(1903)追遠会事業により再建されました。また左右に備える筋塀は、自社の位を示し、香椎宮は最高の五本筋となっています。
「勅使参拝標石」
この標石は恐らく奈良時代に建てられたと推定されている標石で①「御休息所」②「御手水所」③「御祓所」④「御脱剣所」⑤「衛士居所」の五つの標石が立っています。これは勅使または大宰帥の香椎廟参拝儀式の順序場所を示したもので香椎宮にだけある貴重な標石です。
「武内神社」
社殿向かって左手に鎮座。大臣武内宿禰命を祀る摂社。不老長寿、学業成就、身体健康の御神徳があります。4月15日が例祭日です。
「巻尾神社」
社殿向かって右手に鎮座。中臣鳥津大連を祀る摂社。中臣鳥津大連は、神功皇后が三韓征伐の際の重臣で中臣氏の祖先とされています。勝負運向上、武芸上達、成功勝利の御神徳があります。7月8日が例祭日です。
「鶏石神社」
綾杉の隣に稲荷神社と並んで鎮座しています。石化した鶏を祀る末社。修理固成、育児夜泣き、養鶏の御神徳があります。9月1日が例祭日です。江戸時代の書物『雲根志』によると、その死を憐れんだ僧侶によって、石になった鶏が祠にお祀りされたことが起源と伝えられます。『韓詩外伝』には「冠を戴くは文なり、足に距を持つは武なり、敵前に敢えて戦うは勇なり、食を見て相呼ぶは仁なり、夜を守って時を失わぬは信なり。」とあり、鶏は文武勇仁信の五徳に優れるとされ、またその鳴き声は神様の出現を知らせる特別なものと云われます。鶏石神社は、鶏がたまごを産みそのたまごが孵化するように、形のないところから物事が成就する修理固成の御神徳があるとされます。鶏をお祀りしている神社は全国に珍しく、例祭日には鶏に関連する企業の方も数多く参詣され、また、鶏は夜鳴かないことから子どもの夜泣きにも御利益があると言われます。
「稲荷神社」
綾杉の隣に鶏石神社と並んで鎮座しています。穀物神の保食大神を祀る末社。商売繁昌、五穀豊穣、殖産興業の御神徳があります。初午、3月1日が例祭日です。
「弁財天社」
しょうぶ池の畔に鎮座する市杵島姫命を祀る末社。5月己巳日と9月己巳日が例祭日です。香椎宮八所のひとつとして香椎宮創始の昔よりお祭りしてあったこの弁財天社は『香椎宮編年紀』に「寛永8年(1631)再び宮前の池を穿がち、又古規の如く辨財天の社を建つ」と見えているように、それ以前からこの中之島に御鎮祭してあった事がわかります。明治元年、香椎馬場にお遷ししてありましたが、昭和32年(1957)9月2日に再びこの地に御遷座されました。
「早辻神社」
御田氏の氏神の大伴武以大連、及び清原氏の祖神の清原真貞を祀る末社。7月16日が例祭日です。
「朽瀬神社」
境内入り口から100m向かいに鎮座。武内宿禰の子で社家本郷氏の祖である羽田矢代宿禰を祀る末社。7月24日が例祭日です。
「平野神社」(位置)
境内入り口から200m北西に鎮座。大鷦鷯尊(仁徳天皇)を祀る境外末社。3月1日が例祭日です。
「高陪神社」(位置)
境内から北北東400m、不老水の近くに鎮座。武内宿禰の後裔で、香椎宮創建時の大宮司である武内宿禰の氏連を祀る境外末社。7月24日が例祭日です。
「印鑰神社」(位置)
境内から北北西200mに鎮座。 武内宿禰の子で社家石川氏の祖である蘇我石川宿禰を祀る境外末社。7月23日が例祭日です。
「御島神社」(位置)
境内から西北西1.5km。香椎浜と人工島間の海上の、鳥居が立っている島に鎮座する神社です。綿津見神を祀る境外末社。旧暦の8月15日が例祭日です。神功皇后が御渡海に際し、神々の神教の当否を占われたと日本書紀にも伝えている聖地です。海上安全・交通安全・開運厄除の御神徳があります。