九州の神社

福岡・蒲生八幡神社(北九州市小倉南区)

由緒

主祭神しゅさいじん 品陀和氣命ほんだわけのみこと応神天皇おうじんてんのう)、息長帯媛命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)、湍津姫神たぎつひめのかみ
相殿神あいどのがみ 大山祇命おおやまつみのみこと高淤加美神たかおかみのかみ闇淤加美神くらおかみのかみ闇御津羽神くらみつはのかみ罔象女神みつはのめのかみ細川藤孝ほそかわふじたか細川幽斎ほそかわゆうさい)、細川忠興ほそかわただおき

由緒

中嶋山なかしまやまいま蒲生八幡神社かもうはちまんじんじゃは、社記しゃきに寄れば、虹山にじやま尼寺山あまでらやま巣山すやま)に降臨した宗像三女神むなかたさんじょしん田心姫神たごりひめのかみ湍津姫神たぎつひめのかみ市杵島姫神いちきしまひめのかみ)が「永く此の地をまもらん」と告げます。それを受けた里人が、虹山にじやま湍津姫神たぎつひめのかみ紫池むらさきいけの上に田心姫神たごりひめのかみ紫池むらさきいけ近くに市杵島姫神いちきしまひめのかみまつったのが始まりとされています。貞観年中じょうがんねんちゅう(859-878)に宇佐八幡宮うさはちまんぐうからの勧請かんじょうが行われ、虹山社にじやましゃ相殿あいどの配祀神はいしがみとして応神天皇おうじんてんのう神功皇后じんぐうこうごうまつり、蒲生八幡宮かもうはちまんぐう紫池社むらさきいけしゃ相殿あいどの配祀神はいしがみとして応神天皇おうじんてんのう神功皇后じんぐうこうごう田心姫神たごりひめのかみまつり、中河原八幡宮なかがわらはちまんぐうと称しました。

また異説として、この時に降臨した女神は南香姫命みなみかひめのみこと於婆姑比留比売神おばこひるめひめのかみ二柱ふたはしら姫神ひめがみとされ、同様に「永く此の地をまもらん」と告げたことから虹山にじやま二神山ふたかみやまと称されました。それを受けた里人が、虹山にじやま南香姫命みなみかひめのみことやしろ紫池むらさきいけの辺りに於婆姑比留比売神おばこひるめひめのかみやしろを建ててまつりました(於婆宮神社)。貞観年中じょうがんねんちゅう(859-878)に宇佐八幡宮うさはちまんぐうからの勧請かんじょうが行われ、虹山社にじやましゃ相殿あいどの配祀神はいしがみとして応神天皇おうじんてんのう神功皇后じんぐうこうごう湍津姫神たぎつひめのかみまつり、蒲生八幡宮かもうはちまんぐう紫池社むらさきいけしゃ相殿あいどの配祀神はいしがみとして応神天皇おうじんてんのう神功皇后じんぐうこうごうまつり、中河原八幡宮なかがわらはちまんぐうと称したとされています。

元暦げんりゃく2年3月24日(1185年5月2日)長門国ながとのくに赤間関あかまのせきにおける「壇ノ浦だんのうらの戦い」にて、安徳天皇あんとくてんのうをかかげた平家一門へいけいちもんは、源義経みなもとのよしつねの率いる源氏軍げんじぐんに敗北します。平家へいけの家長たる存在であった平時子たいらのときこ平家へいけの最後を覚悟し、安徳天皇あんとくてんのうに「なみの下にもみやこさぶらふぞ」と言い聞かせ、安徳天皇あんとくてんのうと「三種さんしゅ神器じんぎ」と共に海に身を投じて自害しました。その入水で「三種さんしゅ神器じんぎ」も海に沈み、源頼朝みなもとのよりともは「三種さんしゅ神器じんぎ」が失われたことを嘆きます。規矩郡きくぐん企救郡きくぐん高濱浦たかはまうらに住む漁師りょうし岩松与三いわまつよぞうが「三種さんしゅ神器じんぎ」の探索を命じられ、岩松与三いわまつよぞう蒲生八幡宮かもうはちまんぐうに丹精を込めて祈願きがんした後、浦中うらじゅう漁師りょうしに命じて海に網をかけました。海底から網を引き揚げると八咫鏡やたのかがみ八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを網に得て、源頼朝みなもとのよりとも奏上そうじょうしました。源頼朝みなもとのよりともは、大いに喜びこれを賞し、規矩一郡きくいちぐん岩松与三いわまつよぞうとうばりました。しかし岩松与三いわまつよぞうは、神宝しんぽうを取り上げることができたのは、自分の力ではなく神力しんりきによるものだとして神恩しんおんに感謝し、とうばった田地を蒲生八幡宮かもうはちまんぐうたてまつり、壮麗な神殿しんでん造営ぞうえいしたのでした。

時は移り、岩松氏いわまつし所領しょりょうを失い、再び民間に戻ります。元弘げんこう建武年中けんむねんちゅう(1331-1338)に鎮西探題ちんぜいたんだい北条英時ほうじょうひでときの子で虹山城主にじやまじょうしゅ規矩兵庫助きくひょうごのすけ時秋ときあき、及び規矩掃部助きくかもんのすけ高政たかまさ北条高政ほうじょうたかまさ)が当社を崇敬すうけいし、神田しんでんたてまつ神領しんりょうとしました。応永年中おうえいねんちゅう(1394-1428)には規矩新太郎親忠きくしんたろうちかただ稲原右衛門貞弘いねはらうえもんさだひろを使わして、改めて神殿しんでん造営ぞうえい。当時は真言宗しんごんしゅう社僧しゃそうによる神宮寺じんぐうじがあったとされています。明応めいおう大永年中だいえいねんちゅう(1492-1528)は、稲原主計いなばらかずえ、留田伊豆(宇都宮此枝流)が社司しゃしを務めます。しかし天正年間てんしょうねんかん(1573-1593)の初頭に、大友氏おおともし兵火へいかかかり、社殿しゃでん神宝しんぽうは全て灰燼かいじんに帰しました。そして社司しゃし一條隼人いちじょうはやと久松周防右京ひさまつすおうのうきょう、及び下社家しもしゃけなども全て解去することとなりました。岩松与三いわまつよぞう末裔まつえいとして漁師を続けていた岩松彌三郎兵衛いわまつやさぶろうひょうえはこれを憂い、秘かに高濱浦たかはまうら小倉北区船場町こくらきたくせんばまち)に一祠いちほこらを立てて私的にまつり、後に規矩八幡宮きくはちまんぐう高濱八幡宮たかはまはちまんぐうとも称されました。社司しゃし久松周防ひさまつすおう高濱浦たかはまうらに戻り来て、再び神事しんじ斎行さいこうされることとなりました。この時、小倉城主こくらじょうしゅ高橋三河守鑑種たかはしみかわのかみあきたねが、高濱浦たかはまうらに神社を新たに造営ぞうえいがあることを聞き及び、鳥居とりい奉納ほうのうしたと伝えとされています。

天正てんしょう15年(1587)毛利勝信もうりかつのぶ入部にゅうぶし、当社をあつ崇敬すうけいし、神領しんりょう20石を奉じて高山刑部定元たかやまぎょうぶさだもと社司しゃしとしました。慶長年中けいちょうねんちゅう(1596-1615)には細川忠興ほそかわただおき豊前国ぶぜんのくに大守たいしゅとなります。細川忠興ほそかわただおきが、小倉城こくらじょうの本城を新たにするにあたり、高濱たかはまの地を東郭とうかくと為したため中嶋山なかしまやま遷座せんざします。この時に再び旧称の蒲生八幡宮かもうはちまんぐうに戻され、社山しゃざん2町、神領しんりょう20石を寄進きしんされました。その後、高山刑部定元たかやまぎょうぶさだもとの息子の高山孫太夫定直たかやまそんだゆうさだなお社司しゃしを継ぎます。元和げんな3年(1617)2月に細川忠興ほそかわただおき小倉祇園こくらぎおん八坂神社やさかじんじゃを改めて造営ぞうえいする際、高山孫太夫定直たかやまそんだゆうさだなお祇園北殿ぎおんほくでん社司しゃし篠崎八幡宮しのざきはちまぐう社司しゃし川江左衛門盛胤かわえざえもんもりたねの三男の川江左衛門種成かわえざえもんたねしげ川江織部種成かわえおりべたねしげ)が祇園南殿ぎおんなんでん社司しゃしとなり、高山孫太夫定直たかやまそんだゆうさだなおは両社を兼務することになります。高山孫大夫たかやまそんだゆうの子の高山左京定次たかやまさきょうさだつぐ祇園北殿ぎおんほくでん社司しゃしを継ぎますが、蒲生八幡宮かもうはちまんぐう社司しゃしを辞したことから、別に蒲生八幡宮かもうはちまんぐうには社司しゃしが置かれることとなりました。細川忠興ほそかわただおきにより小倉城こくらじょうが改城されて以降は、到津八幡宮いとうづはちまんぐう甲宗八幡宮こうそうはちまんぐう篠崎八幡宮しのざきはちまぐう、及び蒲生八幡宮かもうはちまんぐうの四社を四所八幡ししょはちまんと称し、小倉祇園こくらぎおん八坂神社やさかじんじゃを合わせると近世五社きんせいごしゃあがめられ、小笠原家おがさわらけ祈願所きがんしょとされました。

明治6年(1873)7月9日郷社ごうしゃ列格れっかく。明治13年(1880)6月、境内けいだい摂社せっしゃとしてまつられていた?細川藤孝ほそかわふじたか細川幽斎ほそかわゆうさい)、細川忠興ほそかわただおき大山祇命おおやまつみのみこと合祀ごうし。明治42年(1909)4月26日に蒲生かもう鎮座ちんざしていた闇淤加美神くらおかみのかみ高淤加美神たかおかみのかみ闇御津羽神くらみつはのかみまつ貴布禰社きふねしゃ合祀ごうししました。貴布禰社きふねしゃは、現在改めて社殿しゃでん向かって左に摂社せっしゃとしてまつられています。

屈指の氏子うじこ地区を誇り、厄除やくよけの神様として崇敬すうけいを集めています。

氏子うじこ地区】

小倉南区こくらみなみく

南方みなみがた高野たかの徳力とくりき石田いしだ企救丘きくがおか山手やまて星和台せいわだい含む) ・蒲生かもう小倉北区こくらきたく南丘みなみがおか含む) ・長尾ながお1~2丁目(旧祗園町ぎおんまち) ・守恒もりつね出町でまち北方きたがた葉山町はやまちょう含む)

小倉北区こくらきたく

室町むろまち1~3丁目 ・京町きょうまち魚町うおまち堺町さかいまち鍛冶町かじまち米町こめまち船場町せんばまち紺屋町こんやまち船頭町せんどうまち浅野あさの長浜ながはま末広すえひろ藍島あいのしま


境内社けいだいしゃなど】

貴布禰社きふねしゃ

社殿しゃでん向かって左手奥に鎮座ちんざしています。貴布禰社きふねしゃは、岩松与三いわまつよぞう末裔まつえい岩松萬作いわまつまんさく貴布禰尊きふねのみことの石像を網に得たことに始まることから合祀ごうしされました。天正てんしょう15年(1587)高濱浦たかはまうらに住む岩松いわまつの一族に岩松萬作いわまつまんさくという者があり、毎日潮水を汲み神社に奉納ほうのうしていました。ある日、岩松萬作いわまつまんさくが漁をしていると貴布禰尊きふねのみことの石像を網に得て、なお且つ神託しんたくもあったことから規矩郡木下村きくぐんきのしたむらかきさか社祠しゃしを営んでまつりました。その後に高濱浦たかはまうら勧請かんじょうされ、慶長年中けいちょうねんちゅう(1596-1615)に細川忠興ほそかわただおき小倉城こくらじょうを改城するに当り、規矩郡きくぐん長浜ながはまに移ります。その後、岩松萬作いわまつまんさくは、漁をしている時に木獅子もくじしかしらが潮に漂い来るのを取上げ蒲生八幡かもうはちまん奉納ほうのうしたことも伝えられています。今もその木獅子もくじしかしらは、蒲生八幡宮かもうはちまんぐう神宝しんぽうとされています。

白山社はくさんしゃ

貴布禰社きふねしゃの隣りに鎮座ちんざする石祠せきしです。菊理姫命きくりひめのみことまつっています。

幸彦神社さちひこじんじゃ

社殿しゃでん向かって左手。歌神うたがみあがめられる江戸後期の国学者こくがくしゃ西田直養にしだなおかい御祭神ごさいじんとしてまつっています。

規矩稲荷神社きくいなりじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手奥に鎮座ちんざ。商売繁盛、穀物農業の神として宇迦之御魂神うかのみたまのかみまつっています。

猿田彦神さるたひこのかみ

参道さんどうの階段下に並ぶ石碑せきひ猿田彦神さるたひこのかみまつっています。


神事しんじ祭事さいじ

どんど焼き(1月第3日曜)

毎年1月の第3日曜10時より神事しんじを実施。各ご家庭でおまつりしていた御神札おふだ御守おまもり等を、神社に納め、神事しんじの後におき上げします。その後に、参拝者さんぱいしゃにぜんざいの振る舞いや餅撒きが行われます。

敷地祓しきちはら

4月の春季例大祭しゅんきれいたいさいをお迎えする前に3月に神興みこしと共に氏子うじこのご家庭や企業を訪れ、おはらいを実施します。

蒲生八幡神社かもうはちまんじんじゃ春季例大祭しゅんきれいたいさい(4月第2日曜日)

蒲生八幡神社かもうはちまんじんじゃ秋季例大祭しゅうきれいたいさい(10月第1土曜・翌日曜日)

  • 前夜祭ぜんやさい(10月第1土曜日):午後6時より前夜祭ぜんやさい、その後イベントを開催。
  • 例大祭れいたいさい(翌日曜日):午前11時より例大祭れいたいさい神幸祭しんこうさい子供神興こどもみこしは午前9時より。

Photo・写真

  • 大鳥居
  • 神門
  • 神門横の猿田彦神石碑
  • 神門横の猿田彦神石碑
  • 参道階段
  • 参道階段
  • 手水舎
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 拝殿から本殿
  • 本殿
  • [右]貴布禰社[左]白山社
  • 規矩稲荷神社
  • 規矩稲荷神社
  • 幸彦神社
  • 幸彦神社

情報

住所〒802-0978
北九州市きたきゅうしゅうし小倉南区こくらみなみく蒲生かもう5-6-10
創始そうし不詳ふしょう八幡神はちまんしん勧請かんじょう貞観年中じょうがんねんちゅう(859-878)
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい4月第2日曜(春季)
10月第1土・日曜(秋季)
HPWikipedia

地図・マップ