社伝によれば、神在神社は、第28代宣化天皇2年(537)松浦佐用姫との悲恋でも知られる大伴連狭手彦が征新羅将軍に任ぜられ、新羅遠征と任那・百済救援の成功と渡海の安全を為すため、都(檜隈廬入野宮)から七柱神(国之常立神・伊弉諾尊・伊弉冊尊・瓊々杵尊・彦火々出見命・保食命・大己貴命)を勧請し、当地に神社を建立したのが創始とされています。
当初は牧の天神山に鎮座し、勝れた神徳に人々が集まり村ができ、盛んに信仰されました。
伝承によれば鎮座地の「神在」の名称は、神功皇后が三韓征伐の時に当地を通った時、紫雲の棚引けるをご覧になって「彼処には神在るべし」と仰せられたことから起ったとも伝えられています。
戦国時代となり激しい戦乱の中、祭りは途絶え、社殿は荒廃し、神社の古い謂われを知る人も僅かになります。戦乱が終わり、平和な世の中になった寛文4年(1664)識者と村の有力者が、今の宮所である神在に小社を建立。宝永4年(1707)古屋敷(かみあり保育園の周辺)にあった社殿などを再建し、相殿左座に菅原神相殿右座に天常立尊、国常立尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊、瓊々杵尊、彦火々出見命を六柱天神(牧所天神)を祀りました。また野崎の天神山に祀られていた、埴安命も合祀して現在の神在神社の姿になりました。明治5年(1872)11月3日村社に列格。また、再発見された神石が、平成28年(2016)11月より聖地として整備されています。
現在の御祭神は下記になります。
- 天常立尊:天を守る神、陸・海交通守護、特に航海安全、縁結び。御祭神となった時期は不詳。
- 国常立尊:地を守る神、縁談成就、子授け、安産などもろもろの願い事。
- 伊弉諾尊:国土の基礎を築いた神、国家安泰、子孫繁栄、五穀豊穣。
- 伊弉冊尊:国土の基礎を築いた神、家内安全などの願いごと。御祭神となった時期は不詳。
- 瓊々杵尊:五穀豊穣、大漁、交通安全の神。
- 彦火々出見命:五穀豊穣、豊漁、雨乞い、一家繁栄の神。
- 菅原神:文章博士であったので学問の神様として敬う。学問全般にわたり御利益あり。御祭神となった時期は不詳。
- ※ 保食命:宣化天皇2年(537)の勧請の後、現在も合祀されているのかも含め、仔細は不詳。
- ※ 大己貴命:宣化天皇2年(537)の勧請の後、現在も合祀されているのかも含め、仔細は不詳。
尚、昭和20年刊行の『福岡県神社誌』では、御祭神は彦火々出見命、埴安命、菅原神。大宝3年(703)1月、古屋敷に社宇を創立。元禄13年(1700)、または元禄16年(1703)現在の鎮座地の地である宇野崎に遷座と記しています。
【境内社など】
「神石」
社殿向かって左手の道路から南へ260m程の地に祀られる外周16m、高さ約4mの卵型の巨石です。神功皇后が三韓征伐の時に当地を通った時、紫雲の棚引けるをご覧になって「彼処には神在るべし」と仰せられた地と伝えられています。平成28年(2016)神在神社の総代が、竹藪に埋もれた巨石を再発見。同年11月に注連縄を張り、聖地として整備されました。
「埴安命」
野崎の天神山から遷座して祀られています。埴安命は、大火傷を負った伊耶那美命が、死の間際に吐瀉した大便から産まれた神です。土を豊かにする土の神、土壌の神、肥料の神、農業神として信仰され、陶器や造園など、土一般に関する神とされています。当社では、土地の神様、地鎮祭の神様とされています。小社の中に「足形石」も祀られています。
【神事・祭事】
千燈籠
秋の収穫を祈念する祭典で、参道に約200体の燈籠が並べられます。夜になるとロウソクの灯で境内が幻想的な雰囲気になります。祭典を盛り上げるため「竹馬競技会」など、日本の代表的な遊びを取り入れたイベントを開催します。また、燈籠の和紙部分を地域の皆様に製作いただき、審査表彰する「燈籠製作コンテスト」も併せて開催します。毎年、約半数近くが、このコンテストにより、絵柄が新しくなります。小学生から、80歳代の高齢者まで幅広い皆様が出展されるなど、地域の方々が開催を楽しみにされています。