九州大宰府の鬼門封じとして創祀されたとされる宝満山(御笠山・竈門山)に鎮座する竈門神社の御祭神は玉依姫命で、相殿に神功皇后、応神天皇を祀っています。宝満山頂上に上宮(標高826m)、山麓に下宮(標高175m)、8合目(標高723m)付近に中宮跡が残されています。
標高829.6mの宝満山の山頂は約100平方mの広さがあり、「肇祉」の文字の刻まれた礼拝石、社殿後方の舞台石、山頂北面の稚児落としなどの大岩に覆われています。当初より、宝満山信仰の中心とされ、舞台石から10mほど下った岩棚状のテラスから8世紀後半に遡る祭祀の跡や、墨書土器を含む土師器・須恵器、奈良三彩、皇朝銭十二銭などが収拾されています。社殿の存在を示す初見史料は応徳2年(1085)の『石清水文書』の「八幡宮造営日時勘文等」になります。
『竈門山宝満大菩薩記』では神亀元年(724)上宮、下宮、十所王子社が合わせて創建されたと伝えています[01]。
『竈門山宝満大菩薩記』
聖武天皇御宇神亀元年甲子竈門宮上下宮、同十所王子、香椎社等草創之矣
九州の最重要地点である太宰府に位置することから、それ以降の江戸時代までの戦乱の続く中、幾度となく戦禍に見舞われます。永正15年(1518)上宮が炎上するも大永元年(1518)再建。天文21年(1552)からは高橋鑑種が宝満山の頂上付近を宝満城とし当地を治めます。そのことから大友宗麟、龍造寺隆信、秋月種実、筑紫広門など何度も山中で争います。天正13年(1585)には宝満山が火に包まれ、西谷坊中・講堂をはじめ、本尊三体・誕生仏・唐筆涅槃像などの宝物も悉く焼失。天正14年(1586)高橋紹運は島津氏と戦い、岩屋城に敗れ、宝満城で籠城していた高橋統増(立花直次)は降伏し宝満城を開城しました。
その後、秋月種実を経て、天正15年(1587)小早川隆景が筑前領主となり宝満山の復興を進めます。文禄2年(1593)には小早川隆景が自ら登山し、祈祷料として米百石を寄進し毎年恒例となりました。文禄3年(1594)には38年間中絶していた峰入りが再開。慶長2年(1597)には御本社2宇が完成。神殿は三間四面で、古法の如く朱彩色・金柱。全ての金物に菊桐の紋が用いられました。その他に、石鳥居1基、講堂、神楽堂、鐘楼、行者堂、末社も残らず建立されました。
寛延10年(1633)の焼亡の後、慶安3年(1650)福岡藩2代藩主黒田忠之により再建。嘉永6年(1853)の焼亡の後、安政元年(1854)福岡藩11代藩主黒田長溥により再建。明治5年(1872)竈門神社の上宮は村社に列格されますが、下宮は無各社の指定でした。明治28年(1895)10月6日、竈門神社が官幣小社に昇格を機に、上宮・下宮・中宮跡が竈門神社とされ、下宮が本社として整備されるようになりました[02]。昭和27年(1952)にも焼亡しますが、昭和32年(1957)社殿をコンクリート造りで復興されました。
「礼拝石」
上宮の北側、「肇祉」の二文字が刻され注連縄がかかった巨岩です。竈門神社の信仰の基となり、国家の安泰と大宰府の繁栄を祈った神聖な肇まりの聖地であることを意味しています。大正2年(1913)5月9日、竈門神社の官幣小社への昇格に先駆的な役割を果たした吉嗣拝山により「肇祉」の二文字が刻され、同年10月には盛大な落成式が挙行されました[03]。
「馬蹄石」
表登山道から上宮のすぐ手前の大岩です。白鳳2年(673)2月10日の辰の刻、法相宗の僧で宝満山を開山した心蓮上人が宝満山に籠り、樒と閼伽水をもって修行していたところ、俄に山谷が鳴動して何とも言えない香りが漂い、忽然と貴婦人があらわれました。貴婦人は「我は玉依姫なり、現国を守り民を鎮護するためにこの山中に居ること年久し」と告げたかと思うと、たちまちに雲霧がおこり、貴婦人は姿を変じて金剛神となり九頭の龍馬に駕して飛行しました。その時の龍馬の蹄のあとが、大岩の上の窪みであると言い伝えられています。
「竈門岩」
標高798.8mにある高さ2m程の3つの岩が鼎立している大岩です。8世紀後半から10世紀にかけての遺物が出土しています。3つの岩が竈門を思わせることから、竈門山・竈門神社の名の由来になったともされています。直下の益影井の水を応神天皇の産湯として沸かしたとの伝説があります。近世3つの大岩の内の1つが倒れたため、文化3年(1816)福岡の魚屋武四郎が願主となり再建。その時に博多の聖福寺の仙厓和尚が「仙竈」と揮毫したと伝えられています[04][05]。
「中宮跡」
宝満山の8合目(標高723m)の平坦地。明治期の廃仏毀釈が行われるまで山伏修行の中心地とされていました。付近には、文保2年(1318)から建武4年(1337)の間に彫られた摩崖梵字が残されています。建造物についての史料は江戸時代にまで下りますが、その当時には何らかの形で修行場としてあったと考えられています。
江戸初期の成立とされる『宝満山絵図』には講堂、祇園、文殊、荒神、鐘楼、神楽堂の記載が見られます。貞享年中(1684-87)の『竈門山旧記』によれば、16世紀にはすでに講堂が存在していたと記しています。大講堂は修法の中心道場で、本尊は後光から台座までが7尺(212cm)の十一面観音像。3尺(90cm)ほどの毘沙門、伊豆奈・不動を左右に祀っていました。大講堂から少し進むと金剛界・胎蔵界の両界の大日如来の種字を彫った文保2年(1318)の摩崖岩があり、その前に役行者堂がありました。
明治3年(1970)9月には、仏堂などを焼き払う廃仏毀釈が行われました。中宮の本尊・十一面観音・毘沙門天・陀祇尼天等の仏像を安置した講堂、役行者の像を安置していた行者堂、鐘楼堂、神楽堂など。中宮から上宮に至る道に建立される五百羅漢。神祇堂として利用されるようになった講堂以外のほとんどが破却されました。明治5年(1872)11月に竈門神社として村社に列せられる中、中宮は神祇殿とされ別社として扱われました[06]。
「一之鳥居(登拝道)」
登拝道にある鳥居。延宝7年(1679)の建立。平成27年(2015)10月20日に太宰府市指定文化財に指定。
【五井七窟】[07]
宝満山には、玉依姫命の山陵ともされる法城窟をはじめ、山伏の修行のための秘所とされる岩屋(窟)や清泉があります。江戸期になると、霊水の湧き出る五つの湧水地と七つの石窟(岩屋)を五井七窟と数えあげられました。現在、五所秘水の中で、益影井と閼伽井は伝わっているものの、香精水、西の井、独鈷水の場所は不詳となっています。
元禄元年(1688)に編纂された貝原益軒『筑前国続風土記』では、五井七窟について次のように記しています。
『筑前国続風土記』巻之七・御笠郡(上)』
峯の東に岩穴あり。天然の井泉なり。東西四尺餘、南北三尺にすぎたり。其水淸潔にして常に增減なし。人此水に影を映せば、老顏も、少壯の如し。故に益影井と名付侍るとかや。社家の説に、徃昔天の神出胎の時、此水を用ひて浴し玉ふと云傳ふ。其上に鼎の足の如く峙てる石三あり、高一丈餘。是を竈石といふ。此所にて湯をわかし給ひし故、釡石、釡の蓋など云。[釜のふた石、高五間許あり。]靈石あり。又應神天皇糟屋郡宇瀰村にて生れ給ひし時も、此井の泉を汲て産湯とし給ふとぞ。-(略)-。山中に七の窟あり。[法城、福城、劔の岩屋、南の岩屋、ふし内の岩屋、寶塔の岩屋、釡蓋、是なり。]皆神靈の窟宅する所なり。
近世には七窟だけを特化して巡礼する七窟巡礼を仲谷坊が発願し、巡礼路を設定しました。
「益影井」
竈門岩の直下にあり、山中第一の秘水です。岩壁の下の窪地に湧き出る泉です。大きさは東西4尺余(約120cm)、南北3尺(約90cm)。『筑前国続風土記』では「人がこの水に影を写すと、老顔も益々若く少壮の如くうつるので益影井と名づけられた」とし、「応神天皇が糟屋郡宇美町で御誕生の折に、鼎となっている竈門岩でこの水をわかして産湯にされた」と伝えています。また、雨乞いの祈祷水にも使われ、弘法大師が密教の秘法・求聞持法を行った際、閼伽水に使ったとも伝えられています。
「閼伽井」
百段ガンギを登り切った地にあります。宝満山の神仏に奉献する清浄な水を閼伽香水と言います。山中の灌頂や祭典・儀式等には閼伽井より深夜丑の刻に浄泉を汲み使用されています。般若心経を読経し閼伽香水を供えて心願をお祈りしたら、その霊験たちどころに顕れたと言う神聖な霊泉です。
「法城窟」
宝満山頂上から約150m直下にある東南向きの石窟です。花崗岩の巨岩が重なる絶壁に、上方から落下した巨岩が被さりできた窟です。窟内に湧水源、入口に小池があります。入口に立つ石に地蔵菩薩、窟内の中央上部に堆積した岩面に十一面観音菩薩座像の線刻があり、中世は修行窟であったと考えられています。
明治に入り神仏分離と廃仏毀釈が進み、竈門神社(上宮)が村社に格付けが留まった中、明治24年(1891)4月28日に玉依姫山陵取調が行われます。その翌日の29日、国学者で香椎宮などの宮司も務めた船曳鉄門は『竈門山陵考』を著し、当窟を玉依姫山陵であると主張。5月1日に福岡県知事宛に「山陵に間違いない」との復命書が提出されました。後、明治28年(1895)10月6日、竈門神社は官幣小社に昇格しました。
※尚、玉依姫の山陵を確定する一連の主張・調査では「福城窟=法城窟」とされており、現在の福城窟(虚空蔵窟)ではない。
「福城窟(虚空蔵窟)」
中宮を過ぎて男道の益影井への分岐を右に下り、益影井のすぐ先にあります。苔むした岩面に金剛界大日如来の摩崖梵字が刻まれています。江戸期は窟内に虚空蔵仏を安置し、虚空蔵岩屋、求聞持窟とも言い、空海がここで虚空蔵求聞持法を行ったと伝えられています。
「大南窟」
上宮から真南、かもしか新道の標高535mラインの所から20mほど下った地点にあります。正面に切り立った岩盤があり、その前に10平方mほどの広さの窟内に石祠が祀られています。最近では、5月の宝満山修験会の峰入りの際、入山灌頂が行われています。8世紀~12世紀の祭祀遺物が出土し、なかでも8世紀後半が主流を占めています。
「剱窟」
宝満山から仏頂山に至る東側山腹、釣船岩を下に回りこんだ場所にあります。大きな切り立った岩が組み合わさってできた洞状の隙間に仏像が祀られています。安土桃山・江戸前期の剣豪である岩見重太郎が修行した窟との伝説があります。
「普地窟」
仏頂山の東側山腹、心蓮上人の墓の先の尾根から右手に下った宇土谷の標高795mにあります。窟内は15畳くらいの広さがあり、石清水が四季を通じて流れています。玉依姫をはじめ十数体の石仏が祀られています。杖道の祖である夢想権之助勝吉が「不滅の杖」の極意を授かった窟と伝えられ、神道夢想流杖術の聖地となっています。
「宝塔窟(伝教大師窟)」
中宮から羅漢道に進み、宝満山頂上までの中程過ぎにあります。伝教大師最澄が修行されたと伝えられ、伝教大師窟とも称されています。
「釜蓋窟」
仏頂山からうさぎ道を下り、登山道から左側の尾根を少し下った標高800-805mの地点にあります。応神天皇の産湯を沸かすために竈門岩に架けた釜が、釜の蓋石になったと伝えられています。