九州の神社

竈門神社[下宮](太宰府市)

由緒

御祭神ごさいじん 玉依姫命たまよりひめのみこと
相殿神あいどのがみ 神功皇后じんぐうこうごう応神天皇おうじんてんのう

由緒

九州大宰府だざいふ鬼門封きもんふうじとして創祀そうしされたとされる宝満山ほうまんざん御笠山みかさやま竈門山かまどやま)に鎮座ちんざする竈門神社かまどじんじゃ御祭神ごさいじん玉依姫命たまよりひめのみことで、相殿あいどの神功皇后じんぐうこうごう応神天皇おうじんてんのうまつっています。宝満山ほうまんざん頂上に上宮じょうぐう(標高826m)、山麓に下宮げぐう(標高175m)、8合目(標高723m)付近に中宮跡ちゅうぐうあとが残されています。

その由緒として伝えられているのは、八幡宮はちまんぐう関係者により鎌倉期に編纂へんさんされた『竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』、及び江戸期修験道しゅげんどうによって編纂へんさんされた『竈門山旧記かまどやまきゅうき』が主要なものとされています。

竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』は、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつに関わる仔細を記し、宝満大菩薩ほうまんだいぼさつ神功皇后じんぐうこうごう姉妹神しまいがみであり、九州の鎮守ちんじゅとして竈門宮かまどぐう筥崎宮はこさきぐう宇佐宮うさぐうまつられているとしています。横浜市金沢区の称名寺しょうみょうじ・第2代住職の剱阿けんあ手沢本しゅたくぼんとして平成8年(1996)に存在が明らかになり、現在は神奈川県立金沢文庫に寄贈されています[01]

竈門神社蔵かまどじんじゃぞうの『竈門山旧記かまどやまきゅうき』は、宝満山ほうまんざん中興ちゅうこうである平石坊弘有ひらいしぼうこうゆうが、天正年間てんしょうねんかん(1573-1592)の兵乱により焼失した由緒を貞享年中じょうきょうねんちゅう(1684-87)までに古伝こでんを再編集し、国学者の松下見林まつしたけんりん校閲こうえつを経て完成を見た原本『宝満宮御伝記ほうまんざんごでんき』、それに片仮名を交えた書き下し体で書かれた縁起えんぎと推察されています。成立は不明ですが『竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』の発見以前から、一般に知られていたほとんど唯一の縁起えんぎでした。原本と考えられる『宝満宮御伝記ほうまんざんごでんき』は、今に伝わっていないものの、その編纂へんさんの経緯については、山家竈門宮やまえほうまんぐうが蔵する『竈門山かまどやま宝満宮縁起縁起ほうまんぐうえんぎ』の奥書おくがきに記されています。また別途、3本の写本しゃほんが残されている『竈門山かまどやま宝満宮伝記ほうまんぐうでんき』は、より原本『宝満宮御伝記ほうまんざんごでんき』に近いものとも考えられています[02]


御祭神ごさいじん創祀そうし

宝満山ほうまんざん最古の縁起えんぎである『竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』では、竈門宮かまどぐう九州二嶋きゅうしゅうにとう(九州・壱岐いき対馬つしま)の鎮守ちんじゅであると記しています。神の系譜として、往古は『法華経ほけきょう』第五巻「提婆達多品だいばだったぼん第十二」に登場する娑竭羅龍王しゃからりゅうおう五所ごしょ姫君ひめぎみ八歳龍女はちさいりゅうじょと合わせて五人の娘)。今生は神功皇后じんぐうこうごう父神ちちがみである息長宿禰王おきながのすくねのみこ四所ししょ御女おんむすめ宝満大菩薩ほうまんだいぼさつ聖母大菩薩しょうもだいぼさつ河上大明神かわかみだいみょうじん高知尾大明神たかちおだいみょうじん)の一尊いっそんであるとしています。

また、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの際には、宝満大菩薩ほうまんだいぼさつも金の鎧を身に着け、戒定慧かいじょうえを捧げ持って火雨を降らし共に戦います。帰朝した神功皇后じんぐうこうごう応神天皇おうじんてんのうを取り上げると、妣𫰧大宝満命ひめだいほうまんのみこと宝満大菩薩ほうまんだいぼさつ)は仏頭山ぶっちょうさん御笠山みかさやま・現在の仏頂山ぶっちょうさん)と号する高い山に登り、産湯うぶゆのため竈門かまどを立てた山を竈門山かまどやまと称されるようになったと伝えています。この時、弥勒菩薩みろくぼさつ文殊菩薩もんじゅぼさつが空より来たり戒定慧かいじょうえを授けて去ります。妣𫰧大宝満命ひめだいほうまんのみこと宝満大菩薩ほうまんだいぼさつ)は歓喜して、自らはこの山に住んで法華一乗ほっけいちじょうの法を開闢かいびゃくし、鎮護国家ちんごこっか度脱衆生どだつしゅじょうを発現するといい、竈門かまどの峯に垂迹すいじゃくします。

その後、神亀じんき元年(724)竈門山かまどやま上宮じょうぐう下宮げぐう十所王子じゅっしょおうじ香椎社かしいしゃ等が草創そうそうされたとされています。

そして改めて、三韓征伐さんかんせいばつの時に妣𫰧大宝満命ひめだいほうまんのみこと宝満大菩薩ほうまんだいぼさつ)は、我が国の鎮守ちんじゅとして、そして異国征伐いこくせいばつ顕現けんげんをしたことを記しています。八幡大菩薩はちまんだいぼさつ大分宮だいぶぐうにおいて諸国の鎮守ちんじゅと定めたとき、宝満大菩薩ほうまんだいぼさつには本朝ほんちょう鎮守ちんじゅの号を授けようとするも、天照大神あまてらすおおかみはばって九州の鎮守ちんじゅを請うたとされています。さらに数々の宣旨せんじによって本朝ほんちょう、及び九州の鎮守ちんじゅとされ、竈門宮かまどぐう筥崎宮はこさきぐう宇佐宮うさぐうが同じ神をまつっていること記されています。

『竈門山宝満大菩薩記』

※成立:天永2年(1111)以降。
 鎌倉末期の手沢本が最古史料。


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竈門山十所王子御本地事

宝満現二身御事

四王寺五旦法仏法伝来以前事

八幡降誕之時文殊弥勒授戒事

竈門山宝満菩薩記九国二嶋惣鎮守

鎮西九州二嶋 鎮守 竈門宮

宝満大菩薩

往古者 娑竭羅龍王五所姫宮 今生者 息長宿禰四所御女

第一 法華八歳龍女 今生除之

第二 宝満大菩薩 筑前国

第三 聖母大菩薩 筑前国

第四 河上大明神 肥前国

第五 高知尾大明神 日向国

神功皇后御宇三韓征伐之時、妣𫰧大宝満命、自着金鎧、捧鉄杖、降火雨、相共亡異国、十一月帰朝之後十一月十七日、皇后誕生於 応神天皇

妣𫰧大宝満命、登高山龍図峯于時名仏頭山又号御笠山立竈門以茲改仏頭山名更号竈門山始自此時矣與天龍水下生水浴、弥勒・文殊従空来坐、授戒定恵而去、妣𫰧歓喜曰、我此山常住 開闢一乗法

鎮護本朝国 度脱苦衆生 発願已畢

同御宇壬午二月日壬午垂迹於竈門峯云々

聖武天皇御宇神亀元年甲子竈門宮上下宮、同十所王子、香椎社等草創之矣

 -(略)-。

九州鎮守事

神功皇后三韓征伐之時、妣𫰧宝満顕現二身、一身守護本朝仍号本朝鎮守 一身者征伐異国云々

八幡大菩薩於大分宮、被定諸国鎮守之時、宝満大菩薩者雖被授本朝鎮守之号、奉恐 天照大神、請九州鎮守之位云々

三韓征伐記云

鎮護本朝国 度脱苦衆生云々

 -(略)-。

竈門宮三所

一御殿 宝満大菩薩 二御殿 聖母大菩薩 三御殿 八幡大菩薩

筥崎宮三所

一御殿 八幡大菩薩 二御殿 聖母大菩薩 三御殿 宝満大菩薩

宇佐宮三所

一御殿 八幡大菩薩 二御殿 妣𫰧大神(宝満大菩薩) 三御殿 大多良智女(聖母大菩薩)

この娑竭羅龍王しゃからりゅうおう五所ごしょ姫君ひめぎみの神の系譜は『八幡宇佐宮はちまんうさぐう御託宣集ごたくせんしゅう・名巻二』にても諸説として記されています。

天平勝宝てんぴょうしょうほう7年(755)の神託しんたくとして八幡神はちまんしんは、宇佐うさ筥崎はこさき等と一体の分身であり、竈門神かまどのかみ八幡神はちまんしん母神ははがみである大帯姫おおおびひめ等の姉、つま伯母神おばがみであるとしています。そのことから当時の八幡教学はちまんきょうがく等で共有されていた教説きょうせつであったと推察されています。尚、鎌倉時代中期・後期に成立の『八幡愚童訓はちまんぐどうくん』では宝満大菩薩ほうまんだいぼさつは、神功皇后じんぐうこうごう大帯姫おおおびひめ等)の妹神いもうとがみとしています。

『八幡宇佐宮御託宣集』名巻二・三国[月支 震旦 日本]「御修行の部」

  • 一。孝謙天皇七年、天平勝宝七年(755)乙未に神託す。
  • 大帯姫は吾が母にして、即ち娑竭羅竜王の夫人なり。竈門明神は吾が姨、竜女は吾が妹にして、是れ十一面観音の変身なり。仮に神明の名を得て、衆生を利し、遂に竜花の暁を期りて、八相記に預るてへり。

---竈門
 |
  ---大帯姫---八幡
      |
      -----竜女

竈門山旧記かまどやまきゅうき』によれば、竈門之明神かまどのみょうじん水海神わたつみのかみで、鸕鷀草葺不合尊うがやぶきあえずのみこと后神きさきかみである玉依姫たまよりひめとし、日向ひゅうが高千尾たかちお神武天皇じんむてんのうを産んだ後、竈門山かまどやまに入ったとしています。その後、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの際に官軍を助け、干珠満珠せんじゅまんじゅ龍宮りゅうぐうより借り受けたのは、この神の御神徳ごしんとくであったとしています。創建そうけんは、白村江はくすきのえの敗戦(663)の翌年の天智天皇てんじてんのう3年(664)。大宰府だざいふ大宰府政庁跡だざいふせいちょうあと都府楼跡とふろうあと)に移された際、堤に水を貯えた水城みずきを築き、大宰府だざいふ、及び国家鎮護こっかちんごのため鬼門きもん(東北)にあたる宝満山ほうまんざんの山頂に八百万神やおよろずのかみ神祭かみまつりした時としています。

『竈門山旧記・乾』

※原本と考えられる『宝満宮御伝記』は貞享年中(1684-87)以前に成立

竈門之明神其由來ヲ奉尋ニ、水海神ノ御女子玉依姫ト申。地神五代鸕鷀草葺不合尊ノ皇后、治世八十三萬六千四十二歳神武天皇ヲ日向ノ國高知尾ト云所ニテ産玉ヒ、夫ヨリ皇后ハ竈門山ニ入リ玉ウト也。神功皇后三韓之征伐シ玉ウ時モ明神出現マシマシテ官軍助ケ玉ウテ、干珠滿珠ヲ龍宮ヨリ借受玉ウハ、此明神ノ神德ナリ、世ニ崇敬シ奉ル始メハ、天智天皇ノ御宇、都ヲ太宰府ニ建玉ウ時、鬼門ニ當リ、竈門山ノ頂ニ八百萬神之神祭リシ玉ヒ、眞坂木ヲ立、端出繩ヲ引初メ玉ウ。

続いて天武天皇てんむてんのう2年(673)2月10日、心蓮上人しんれんしょうにん宝満山ほうまんざん修行しゅぎょう中、山谷が鳴動めいどうして異香いこうが満ちると、忽然こつぜんと貴婦人が姿を現します。貴婦人は「我は是れ玉依姫たまよりひめたま現国うつしくにを守りたみ鎮護ちんごせんために、此の山中に居すること年久し」と告げます。そして「異賊いぞくが我が国を傾けんとする中、皇統こうとうを守る神として山上から四海しかいの内をふさぎ、山の姿を水に写して岩の如き波を起こし、神風を吹かせて船を追い返し、神光しんこうを発して道を迷わせてきた」と続け、異賊いぞくが我が国に来ることがなかった背景を語ります。たちまちの内に四方に雲が満ちると貴婦人は、金剛神こんごうじんに姿を変じ、錫杖しゃくじょう戒定慧かいじょうえ)を手に携え、九頭くず龍馬りゅうめして飛行しました。そして末社まっしゃ十社皇子じゅっしゃおうじとして祭られる十神がそれを囲繞いじょうしました。それは頂上のすぐ下、石門せきもんはりみみ」の辺りで、龍馬りゅうめ蹄跡ひづめあととして残されているのが馬蹄石ばていせきとされています。感嘆した心蓮上人しんれんしょうにんは直ちに朝廷にその旨を奏上そうじょうし、天皇の命によって上宮じょうぐう創建そうけんされたのでした。

また、玉依姫たまよりひめ神功皇后じんぐうこうごう姉妹神しまいがみとしての宝満大菩薩ほうまんだいぼさつは、記紀ききにおいて神々の系譜が矛盾しているものの、「宝」の字の中に「玉」。海神わたつみのかみ玉依姫たまよりひめの「依」を潮が満ち引きする意の「満」に書き換え、「宝満大菩薩ほうまんだいぼさつ玉依姫たまよりひめ」となったとしています。

『竈門山旧記・乾』

天武天皇ノ御宇、心連上人常ニ樒阿伽ノ水ヲ以テ山中ヲ修行ス。白鳳二年二月十日壬午辰ノ一天ニ俄ニ山谷震動異香繽紛トシテ、忽然ト貴婦人現シ絡ヒ、貴婦人上人ニ告而曰、我ハ是玉依姫ノ靈、現國ヲ守リ民ヲ爲鎭護ニ此山中居スル㕝年久シ。異賊國ヲ傾ケントスル㕝甚多シ、吾皇統ヲ守ル神トシ此山ノ上ヨリ海内ヲ塞、或時ハ山ノ形水ニ移リ岩ノ如ク浪ヲ起シ、有時ハ神風ヲ吹せテ賊ノ舩ヲクツカヘシ、神光ヲ飛せテ舩中ヲ迷道ス。依是異賊不得來。我心勞汝ニ告クト曰フ、忽雲霧四方ニ合シ貴婦人變シテ金剛神ト顯レ玉ヒ、御手ニ、錫杖ヲ橫ヘ九頭龍馬駕シ十神其躰異形也。上人感歎シ其所今ノ針ノ耳戸ト申、昔ノ石門也。龍馬ノ蹄一ツ地ニ付處、今尚其印有リ。俗人是ヲ馬蹄岩ト呼フ。上人感歎シテ時ノ官領ニ申、此旨奏聞ス。天皇聞召、貴異ノ思ヒヲナシ有司ニ宣下有テ御社ヲ立神盧ヲ安ンせシム。今ノ上宮是也。寶滿宮ト申㕝、寶ハ珎戝ノ至亟ナルカ故ニ玉ト云字作ルト也、滿ハ鹽ノ起リ來テ至亟ナルヲ滿ト可云。然ルニ依ト云字ヲ滿ノ字ニ書改、寶滿ノ二字ト玉依ノ二字ト一和通用スヘキカ。

宝満山ほうまんざんは、心蓮上人しんれんしょうにんによる玉依姫たまよりひめ感得かんとくをもって開山かいざんされました。天武天皇てんむてんのう12年(683)6月10日に入寂にゅうじゃくした心蓮上人しんれんしょうにん仏頂山ぶっちょうさんに葬られます。現在も仏頂山ぶっちょうさん山頂に石祠いしほこらとして残される「心蓮上人しんれんしょうにんの墓」は、寛文かんぶん年間(1661-1673)に建立され、文政ぶんせい5年(1822)修理、昭和53年(1978)宇美町うみまち有志により再建されたもので、山伏やまぶし入峯にゅうぶの際、修法しゅほうの場となっています。

また、『竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』では、十所王子じゅっしょおうじ本地仏ほんじぶつが記されており、修験道しゅげんどうの影響を示すと考えられています。『竈門山旧記かまどやまきゅうき・乾』では、役行者えんのぎょうじゃの修行の次第について詳細を記し、修業地の十神として十社皇子じゅっしゃおうじを記しています[03]

当時の祭祀さいしの地であった上宮じょうぐう近くからは、8世紀後半に遡る祭祀さいしの跡が発掘されています。墨書土器ぼくしょどきを含む土器類や須恵器すえきに加えて、奈良三彩ならさんさい和同開珎わどうかいちんをはじめとする皇朝十二銭こうちょうじゅうにせんなど、奈良時代から平安初期に国家的な祭祀さいしが行われていたことを示す数々の出土品が確認されています[04]


【平安時代:正史せいし国史こくしにみる竈門神かまどのかみ

宝満山ほうまんざん大宰府政庁だざいふせいちょうと密接な関係にあったことから、最澄さいちょう空海くうかいをはじめ、遣隋使けんずいし遣唐使けんとうしなど大陸へ渡る人々が航海の安全と、目標達成のために登拝とうはいし、祈りを捧げた山として大切に守られてきました。中世以降は修験者しゅげんしゃによる信仰が盛んになり、険しくも秀麗な宝満山ほうまんざんの姿に多くの山伏やまぶしが憧れ、厳しい修練を重ね、世の平安と人々の除災招福じょさいしょうふくのための加持祈祷かじきとうが行われました。

正史せいしに見るのは『扶桑略記ふそうりゃくき』、及び『叡山大師伝えいざんだいしでん』の延暦えんりゃく22年(803)うるう10月23日のじょうが初見で、最澄さいちょうが唐へ渡るのに際し、大宰府だざいふ竈門山寺かまどさんじを訪れ、渡海の平安を祈って高さ6尺余(約1.8m)もの4体の薬師仏やくしぶつ無勝浄土むしょうじょうど善名称吉祥王如来ぜんみょうしょうきちじょうおうにょらい」を納めたと記されています。それと共に法華ほっけ涅槃ねはん華厳けごん金光明経こんこうみょうきょうなどの講説こうせつを行ったと伝えています。尚、『竈門山旧記かまどやまきゅうき』では最澄さいちょうが訪れたのは前年の延暦えんりゃく21年(803)としています。

また、この竈門神社かまどじんじゃ神宮寺じんぐうじである「竈門山寺かまどさんじ」を訪れたとの記述から、当時すでに神仏習合しんぶつしゅうごうが進んでいたと考えられています。

『扶桑略記』

延暦廿二年。閏十月廿三日。最澄和上於太宰府竈門山寺。爲渡海四舩平逹。敬造檀藥師佛四躰。高六尺餘。其名號旡勝浄土善名稱吉祥王如來。


『叡山大師伝』延暦22年(803)

延暦廿二年。閏十月廿三日。於太宰府竈門山寺。爲四舩平逹。敬造檀像藥師佛四躰。高六尺餘。其名稱吉祥王如來。又講説、法華、涅槃、華嚴、金光明等大乘經。各各數返具如願文。

最澄さいちょうの訪れた翌年には、空海くうかいも訪れて宝満山ほうまんざんに登ります。その節は酷い旱魃かんばつで、一切が枯れ果てて人々は水を口にすることができませんでした。空海くうかいが神に祈りを捧げると程なく雨が降り、大地は潤うこととなりました。またある時は雲ひとつ無く、日が強く照りつける中、風が吹き荒れ、山も川も鳴動めいどうして砂埃が空に上がっていました。空海くうかいが風神に祈りを捧げるとたちまちのうちに、風は静かになったと伝えられています。

『竈門山旧記・乾』

明年空海法師登山有リ。折節旱魃甚シク諸河ニ順水無萬民咽ヲ不潤、一切生類死ニ近シ草木悉焦レ枯ルゝ。空海雨ヲ尊神ニ祈ル。降雨時ヲ不過シテ順水潤フ。亦或時天氣赫々トシテ山川鳴動シ、風荒ク吹起テ砂ヲ天ニ上ル。其時空海風神ノ祭リ天災忽ニ靜謐せり。

承和じょうわ14年(847)には、第3代天台座主てんだいざす円仁えんにん慈覚大師じかくだいし)が唐から帰国し、同年の11月28日から12月3日までの間、竈門山かまどやま大山寺だいせんじにおいて、入唐にっとうに先立ち祈願した神御報謝しんおんほうしゃ転経てんぎょうをしたことが『入唐求法巡礼行記にっとうぐほうじゅんれいこうき』にて記されています。尚、この記事が「大山寺だいせんじ」の初見とされています。

『入唐求法巡礼行記』

[十一月]廿八日。於大山寺。始入唐時所祈金剛般若五仟巻。皆先馳使、奉送綵帛。同日、早朝一時發遣綵帛使訖。便轉経。同日爲竈門大神、轉一千巻。

その円仁えんにんの帰国前後から、神階授与しんかいじゅよなどの記録が国史こくしに見えます。

  • 続日本後紀しょくにほんこうき承和じょうわ7年(840)従五位下じゅごいげ昇叙しょうじょ
  • 続日本後紀しょくにほんこうき承和じょうわ9年(842)遣使けんしが送られる。
  • 日本文徳天皇宝実録にほんもんとくてんのうじつろく嘉祥かしょう3年(850)正五位上しょうごいじょう昇叙しょうじょ。正しくは従五位上じゅごいじょうか。
  • 日本三代実録にほんもんとくてんのうじつろく貞観じょうがん元年(859)従四位下じゅよんいげ昇叙しょうじょ
  • 日本三代実録にほんもんとくてんのうじつろく元慶がんぎょう三年(879)従四位上じゅよんいじょう昇叙しょうじょ
  • 日本紀略にほんきりゃく寛平かんぴょう8年(896)正四位上しょうよんいじょう昇叙しょうじょ

『續日本後紀』卷第九・承和7年(840年4月21日)』

承和七年。夏四月丙午朔。…(略)…。丙寅奉授…(略)…。筑前國從五位下竈門神。筑後國從五位下高良玉埀神竝從五位上。又勳八等宗像神從五位下。餘如故。


『續日本後紀』卷第十二・承和9年(842年7月3日)

承和九年。秋七月癸巳朔。乙未。遣使於筑前國宗像神。竈門神。肥後國健磐龍神等諸社奉幤。


『日本文徳天皇實録』卷第二・嘉祥3年(850年10月7日)

冬十月乙巳朔。辛亥。…(略)…。筑前國宗像神從五位上。竃門神正五位上。筑後國高良玉垂命神從四位上。
※正しくは従五位上か。


『日本三代實録』卷第二・貞観元年(859年正月27日)

貞觀元年己卯春正月戊午朔。廿七日甲申。…(略)…。筑前國筑前國正三位勳八等田心姫神。湍津姫神。市杵嶋姫神。並從二位。正五位下竈門神。從五位下筑紫神。並從四位下。從五位下織幡神。志賀海神。美奈宜神。並從五位上。旡位住吉神從五位下。筑後國正三位高良玉垂命神從二位。從四位下豐比咩神從四位上。


『日本三代實録』卷第卅五・元慶三年(879年6月1日)

元慶三年六月庚申朔。…(略)…。筑前國從四位下筑紫神、竈門神並從四位上。


『日本紀略』寛平8年(896年9月4日)

丙辰八年。九月四日壬午。授筑前國從四位上竈門神、正四位上。

また、延長えんちょう元年(923)には筑前大分宮ちくぜんだいぶぐう穂浪宮ほなみぐう大分八幡宮だいぶはちまんぐう)より遷座せんざして筥崎宮はこさきぐう創建そうけんされます。その遷座せんざの由来が『筥崎宮縁起はこさきぐうえんぎ』にて記されています。延喜えんぎ21年(921)6月21日に大宰府だざいふ観世音寺かんぜおんじ西大門にしだいもん八幡神はちまんしん託宣たくせんがあり、遷座せんざの理由として三悪を示します。そのひとつとして、竈門宮かまどぐう穂浪宮ほなみぐう伯母神おばがみである。節会せちえごとに国司こくし雑任ぞうにん参来さんらいするも、暗愚な者は馬から降りて遙拝ようはいせずに過ぎ去る者、被笠かぶりがさを着たまま御前ごぜんを渡る者もいて恐れ多いと伝えています。

そのことから延喜えんぎ21年(921)までには竈門神社かまどじんじゃ八幡宮はちまんぐうとは関係付けが行われていたと考えられています。

『筥崎宮縁起』

延長元年癸未造立筥埼宮、依託宣、自穂浪宮遷此宮
延喜廿一年六月廿一日、於觀世音寺西大門、若宮一御子、七歳女子橘慈子就御志天、去地七尺上託宣曰、-(略)-。
大菩薩仰云、吾穂浪郡大分宮移住後、已有三惡。一者竈門宮、我伯母御坐、而年中節會、府官已下國司雜任參來之間、愚暗之輩、或乘馬過遙拜下、或乍着笠渡彼御前、其御恨其有恐。-(略)-。

延長えんちょう元年(923)筥崎宮はこさきぐう創建そうけん延長えんちょう5年(927)編纂へんさんされた『延喜式えんぎしき神名帳じんみょうちょう』にて竈門神社かまどじんじゃは、八幡大菩薩はちまんだいぼさつ筥崎宮はこさきぐうと共に名神大社みょうじんたいしゃとされました。

『延喜式』巻十 神祇下 ※通称『延喜式神名帳』 延長5年(927)編纂

筑前國十九座大十六座・小三座。宗像郡四座並大。宗像神社三座並名神大、織幡神社一座名神大。那珂郡四座並大。八幡大菩薩筥崎宮一座名神大、住吉神社三座並名神大。糟屋郡三座並大。志加海神社三座並名神大。怡土郡一座。志登神社。御笠郡二座並大。筑紫神社名神大、竈門神社名神大。上座群一座。麻氐良布神社。下座郡三座並大。美奈宜神社三座並名神大。夜須郡一座。於保奈牟智神社。

相次ぐ天台宗てんだいしゅうの高僧の来山、そして承平じょうへい3年(933)六所宝塔ろくしょほうとうのひとつを建立したことなどを経て、宝満山ほうまんざん天台宗てんだいしゅう比叡山ひえいざんは絆を深め、九州における天台宗てんだいしゅうの中心地的な道場と位置付けられ、鎮西ちんぜい比叡山ひえいざんともいうべき様相を呈するようになりました。その結果、竈門山かまどやま神宮寺じんぐうじの寺院側の勢力が強くなっていったと考えられています。

応徳おうとく2年(1085)5月9日には、諸社と混じさせず、神領しんりょう80しょう一條家別当いちじょうけべっとうに任せ、座主ざす下知げぢに従わしむことを「太宰権師だざいのごんのそち大江朝臣おおえのあそん」宛に下すよう綸旨りんじが発せられ、宝満宮ほうまんぐう九州総鎮守きゅうしゅうそうちんじゅであるとされました。

『竈門山旧記・乾』

七十二代白河院御宇綸旨ヲ下シ玉ウ其趣

竈門山大神ノ社九州惣鎭守不混諸社別宮也、聖朝安穩冝抽懇祈、神領八十莊任一條家別當、諸般可依座主下知者、依天氣如件 應德二年五月九日 左大史小槻宿彌 左中辨藤原朝臣、太宰權師大江朝臣ニ當ル、又下知狀ニ曰ク、「竈門嶽寶滿宮ハ九州鎭守ノ靈社一府尊崇之名神也。-(略)-。」

11世紀後半になると比叡山ひえいざんの関係と共に、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうの影響も強く受け「八幡はちまん別宮べつぐう」と称されるようになります。長治ちょうじ2年(1105)になると朝廷、大宰府だざいふをも巻き込んで、比叡山ひえいざん石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうの抗争が勃発します。双方の争いの中で、上宮じょうぐう神殿しんでん御正体みしょうだいを焼亡する騒乱となり、最終的には比叡山ひえいざんに有利な形で決着します。石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうはこの事件で竈門山かまどやまから払拭され、大山寺だいせんじは「天台之末寺てんだいのまつじ」とされました。

その翌年の嘉承かしょう元年(1106)『中右記ちゅうゆうき』にて正一位しょういちい増俸ぞうほうが記されています。長治ちょうじの事件はこの増俸ぞうほうにて落着したものと考えられています。『竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』では天永てんえい2年(1111)及び久安きゅうあん2年(1146)に本朝ほんちょう鎮守ちんじゅであるとの宣旨せんじがあったと伝えています。

『中右記』(1106年11月3日)

嘉承元年十一月。三日、宇佐使立宗隆、竈門宮奉增正一位。


『竈門山宝満大菩薩記』

鎮護本朝国 度脱苦衆生云々
 鳥羽院御宇天永二年壬辰宣旨状

八幡大菩薩伯母本朝鎮守大明神云々
 近衛院御宇久安二年丙寅宣旨状

その後も、久寿きゅうじゅ2年(1155)、平治へいじ元年(1159)に焼亡するも、平安時代末期の動乱の中、隆盛を極めたと考えられています。


【中世:修験道しゅげんどうの広まり】

山中の磨崖まがい梵字ぼんじめいなどの研究、『竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』に見る十所王子じゅっしょおうじと『竈門山旧記かまどやまきゅうき・乾』の十社皇子じゅっしゃおうじの記載から、平安時代末期には何らかの形で熊野修験くまのしゅげんの影響が及んでいたと推察されています。

竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』では、十所王子じゅっしょおうじ本地仏ほんじぶつが記されており、修験道しゅげんどうの影響を示すと考えられています。『竈門山旧記かまどやまきゅうき・乾』では、役行者えんのぎょうじゃの修行の次第について詳細を記し、修業地の十神として十社皇子じゅっしゃおうじを記しています。

『竈門山宝満大菩薩記』

-(略)-。

十所王子

第一 松尾大行事[本地不動尊]
第二 金凝王子[本地普賢菩薩]
第三 竈門王子[本地釈迦如来]
第四 竈尾王子[本地大勢至菩薩]
第五 中津尾王子[本地文殊師利菩薩]
第六 聖御子[本地地蔵菩薩]
第七 両土御子[本地弥勒菩薩]
第八 剱御子[本地阿弥陀]
第九 照御子[本地月光菩薩]
第十 日照御子[本地日光菩薩]

竈門山旧記かまどやまきゅうき・乾』では、文武天皇もんむてんのう御宇みう(697-707)に、役行者えんのぎょうじゃ宝満山ほうまんざんで49日もの間、法城窟ほうじょうくつ福城窟ふくじょうくつ剱窟つるぎのくつ大南窟だいなんくつ藤窟ふじのくつ普池ふじくつ)・宝塔窟ほうとうくつ釜蓋窟かまふたくつの7つの岩屋いわや修行しゅぎょうをなし、明神みょうじん影向ようごうを祈ります。その七窟ななくつの外に役行者えんのぎょうじゃが雨を凌ぐために入り、後世、雨宝童子うほうどうじが安置された雨宝窟うほうくつがあり、近くに獅子童子ししどうじ龍樹菩薩りゅうじゅぼさつまつられています。そこが玉依姫たまよりひめ本地仏ほんじぶつである十一面観音じゅういちめんかんのん、それを囲繞いじょうする皇子おうじとその本地ほんじ尊形そんぎょう顕現けんげんした地、「竈門山かまどやま法立灌頂地ほうりゅうかんじょうのち」とされています。その下には獅子瀧ししのたきがあり、行者ぎょうじゃ仏前ぶつぜん神前しんぜんに供える阿伽水あかのみずとされ、雨乞いの時には秘法ひほうを行ずる地とされました。

役行者えんのぎょうじゃ修行しゅぎょうした際、七窟ななくつそれぞれで異形の御影みかげ顕現けんげんしたとされています。役行者えんのぎょうじゃは猶も祈り続けて修行満願しゅぎょうまんがんの49日目の明け方、山谷が鳴動めいどうして草木が色を変ずると大慈大悲だいじだいひ観世音菩薩かんぜおんぼさつ玉依姫たまよりひめ本地仏ほんじぶつ)が現れ、弥陀みだ釈迦しゃか薬師やくし普賢ふげん文殊もんじゅ持国じこく増長ぞうじょう広目こうもく多聞たもん愛染あいぜん地蔵じぞう囲繞いじょうしました。深く信敬しんぎょうした役行者えんのぎょうじゃは、本地垂迹ほんじすいじゃく二門にもんを立てて、御祭神ごさいじんとして玉依姫たまよりひめたてまつり、本地仏ほんじぶつ十一面観音じゅういちめんかんのんとしました。そして囲繞いじょうした皇子おうじは、末社まっしゃとしてまつられました。そしてそのその本地ほんじ尊形そんぎょうは、松尾皇子まつおのおうじ不動ふどう持国天じこくてん]、金凝皇子かなこりのおうじ普賢ふげん天狗てんぐ]、竃尾皇子かまおのおうじ勢至せいし増長ぞうじょう]、竃門皇子かまどのおうじ釈迦しゃか]、根本皇子ねもとのおうじ地蔵じぞう]、中津尾皇子なかつおのおうじ文殊もんじゅ]、降日皇子[薬師やくし]、照日皇子てるひのおうじ愛染あいぜん]、剣皇子つるぎのおうじ弥陀みだ]、天智皇子てんじのおうじ多聞たもん弥勒みろく]、乙宮滝口おとひめのたきぐち広目天こうもくてん]の十一神とされました。

『竈門山旧記・乾』

四十二代文武天皇ノ御宇、役行者登山在マシ四十九日振鈴登且シ明神之影向ヲ祈リ玉ウ。其地七ヶ所ノ岩屋是也。其岩屋、寶城・福城・釼・大南・藤・寶塔・釡蓋、俗名ヲ付テ呼ト見ヘタリ。此外ニ雨寶ノ岩屋ト云處有リ。小角俄ニ雨ニ相、此岩屋ニテ凌玉ウ、小角雨ニ寶ノ岩屋トノ玉ウ、後世雨寶童子ヲ安置ス。側ニ獅子童子、龍樹菩薩存マス。行者修業ノ砌出現シ玉ウ是處ト也。同所竈門山法立灌頂ノ地也。其下ニ瀧有、獅子瀧ト云。行者阿伽水汲ウ水也。雨乞之節祕法所也。小角神通ノ明ナル㕝ヲ祈リ、七ヶ所ノ修座一々異形ニ御影ヲ顯シ玉ヘルナリ。猶高德ノ深㕝有ヘシト至心念咒祈ケルニ、四十九日ノ曉天ニ山谷鳴動シ草木色ヲ變シ大慈大悲ノ觀世音出現シ玉ウ。竝ニ彌陀、釋迦、藥師、普賢、文殊、持國、增長、廣目、多聞、愛染、地藏圍饒シ玉ウ、小角正ニ禮拜シテ自此以來本地埀跡ノ二門ヲ立。當神ヲ祭リ奉ル十神ノ尊形舊記ニ傳フ。十社皇子ト申ス御末社也、各々本地ヲ配立、松尾皇子不動・持國天金凝普賢・天狗竈尾勢至・增長竈門釋迦根夲地藏中津尾文殊降日藥師照日愛染釼皇子彌陀天智多聞・彌勒乙宮瀧口廣目天十一神也。

みやこでは永暦えいりゃく元年(1160)新熊野社いまくまのしゃ熊野三山くまのさんざん新宮しんぐう別宮べつぐうとして創建そうけんされ、天台系てんだいけい修験道しゅげんどう本山派ほんざんは総本山そうほんざん聖護院しょうごいん」の鎮守神ちんじゅがみとなります。養和ようわ元年(1181)彦山ひこさん英彦山ひこさん日子山ひこさん)は、その新熊野社いまくまのしゃの荘園とされていました。中央ではすでに、大峰山系おおみねさんけい熊野側くまのがわ半分を胎蔵界たいぞうかい吉野側よしのがわ半分を金剛界こんごうかいとした入峰にゅうぶ修行しゅぎょうが行われていたことから、それと同様に彦山ひこさん胎蔵界たいぞうかい宝満山ほうまんざん金剛界こんごうかいと見なす背景は整っていたと考えられています。

実際に宝満山ほうまんざん修験しゅげんが行われていたのを示す史料は、大永だいえい年間(1521-1528)阿吸坊あきゅうぼう即伝そくでん編纂へんさんした『彦山ひこさん順峰じゅんぶ四十八宿次第しじゅうはっしゅくしだい』にて、文永ぶんえい2年(1265)宝満山ほうまんざん行者ぎょうじゃ9人に彦山ひこさんの規則により「先達せんだつ」職を許可したとの記述が初見です。

阿吸坊あきゅうぼう即伝そくでんは、永正えいせい10年(1513)以後に『修験道しゅげんどう頓覚速証集とんがくそくしょうしゅう』も編纂へんさんしており、そこでは春の順峰じゅんぶと、秋の逆峰ぎゃくぶの図を記しています。大永だいえい5年(1525)には『三峰相承法則密記さんぶそうじょうほっそくみっき』を編纂へんさんし、竈門山かまどやま金剛界こんごうかいで、竈門かまどから峯入みねいりするのは逆峰ぎゃくぶであり、秋峰あきみねとなる。彦山ひこさん胎蔵界たいぞうかい彦山ひこさんから峯入みねいりするのは順峰じゅんぶであり、春峰はるみねとなる。中央の神山しんざん胎蔵界たいぞうかい金剛界こんごうかい、その二つが和合わごうし、因も果も順逆が分かたれずひとつとなり、自他一如じたいちにょとなるぎょうをなすのが夏峰なつみねであると記しています。

『三峰相承法則密記』大永5年(1525)

北方竈門山金剛界、従果向因、逆峰、秋峰下化衆生
中央神山胎金和合行、非因非果、順逆不二夏峰、自他一如
南方日子山胎蔵界、従因至果、順峰、春峰上求菩提

即伝そくでんによる三峰一体さんぶいったい入峰にゅうぶ修行しゅぎょうは、宝満山ほうまんざん彦山ひこさんの宗教的統合を完成し、本山修験ほんざんしゅげんにも教義は広がることとなりました。

また、中宮跡裏ちゅうぐうあとうら周辺には、文保ぶんぽう2年(1318)、元応げんおう元年(1319)、元享げんこう3年(1323)の磨崖まがい梵字ぼんじが残されています。中でも、中宮跡裏ちゅうぐうあとうら小詞しょうしの裏手)にまつられる高さ6mばかりの大岩の磨崖まがい梵字ぼんじは、径80cmの月輪げつりんを左右に掘り、その中に金胎両界こんたいりょうかい大日如来だいにちにょらい梵字ぼんじ薬研彫やげんぼりされています。その梵字ぼんじの下の銘文めいぶんは、修験者しゅげんしゃと思われる幸栄こうえいが、16度の入峰にゅうぶを果たしたことを記していると考えられています。

工彫藤原□□
文保二[戊午]九月上旬
法眼幸栄十六度

中宮ちゅうぐうを過ぎて、善哉坂ぜんざいざかの大岩にも元応げんおう元年(1319)磨崖銘まがいめいとして阿弥陀あみだ釈迦しゃか種子しゅじ元享げんこう3年(1323)磨崖銘まがいめいとして藤原貞村ふじわらのさだむらによる梵字ぼんじが彫られています。

その修験しゅげんの教えが広がりを見せる中、竈門山かまどやま太宰府だざいふを狙う山城やまじろとしての側面を見せるようになります。

蒙古軍もうこぐんによる弘安こうあんえき(1281)においては、他の九州の寺社とともに活躍したとされ、『竈門山旧記かまどやまきゅうき』では次のように記しています。

『竈門山旧記・乾』

九十代後宇多院御宇弘安四年蒙古日東ニ寄せ來る壹岐對馬ノ海中悉ク瀬ノ如ク見エ、賊舩ノ運ヒ難成所ニ社殿ヨリ光物飛出、賊舩ノ中ニ入、口ニ惡風呑、鼻ニ惡氣ヲカキ賊顛倒迷悶ス。終ニ陸ニ上ル㕝ヲ不得。半ハ亡ヒ半ハ歸。此㕝賊ノ生捕博多津ニテ語ル、寺僧文章ニ顯シテ當社ニ送ル。永祿ノ兵火ニ書類失ス、然共紹運願状ニ見へタリ。

蒙古もうこ壱岐いき対馬つしまを攻めた時、壱岐いき対馬つしまの海中は全て瀬のように見えて、賊船ぞくせんが進みにくくなりました。その時、竈門宮かまどぐう社殿しゃでんから飛び出た光が賊船ぞくせんの中に入り、口に悪風あくふうを呑ませ、鼻に悪気あくきを嗅がせました。賊は倒れて上陸できずに半分は帰りました。このことは、生け捕らえにされた賊が、博多はかたで語ったのを寺僧じそうが文にして竈門宮かまどぐうに送ったと記されています。その記録は永禄えいろく兵火へいかで失するも、高橋紹運たかはしじょううんの示した願文がんもんにはこのことが記されています。


【中世:戦乱の世の宝満山ほうまんざん

鎌倉時代の後期、南北朝を経て、日本は戦国時代と戦乱の続く世となります。宝満山ほうまんざんもその時代の大きな流れの中、九州を統治する上で、重要な拠点である太宰府だざいふを守護する地として位置付けられるようになります。

建久けんきゅう2年(1191)少弐氏しょうにし家祖かそとなる武藤資頼むとうすけより大宰府だざいふの次官である大宰少弐だざいしょうにに任命され、息子の少弐資能しょうにすけよしの代より少弐しょうにを姓として名乗るようになります。少弐氏しょうにしは、いつの築城かは不詳ですが、本城として有智山城うちやまじょう内山城うちやまじょうを築きます。史料としては、建武けんむ3年(1336)九州に落ち延びた足利尊氏あしかがたかうじ少弐頼尚しょうによりひさ赤間関あかまのせきに出迎えに向かった際、菊池勢きくちぜい阿蘇勢あそぜいによって有智山城うちやまじょうが落城した記録が残されています。この有智山合戦うちやまのかっせんで、宝満山ほうまんざん社殿しゃでん坊舎ぼうしゃなどことごとく焼失。その後、少弐氏しょうにし有智山城うちやまじょうの落城と奪還を繰り返しますが、明応めいおう6年(1497)少弐政資しょうにまさすけ大内義興おおうちよしおきに敗れ、有智山城うちやまじょうは歴史の舞台から消えることになりました。

永正えいせい15年(1518)上宮じょうぐうが炎上するも大永だいえい元年(1518)再建。天文てんぶん20年(1551)大寧寺たいねいじへん大内氏おおうちしが実質的に滅亡し、天文てんぶん21年(1552)からは大友宗麟おおともそうりん高橋鑑種たかはしあきたね宝満城主ほうまんじょうしゅとし、当地を治めます。宝満城ほうまんじょうの築城も不詳ですが、当地の任命に合わせて高橋鑑種たかはしあきたねにより築城されたと考えられています。また、宝満山ほうまんざんには盛時には、有智山うちやま南谷みなみたに北谷きたたにの三所に370坊の僧舎そうしゃがあったとされますが、少弐氏しょうにしの没落と有智山城うちやまじょうの落城、弘治こうじ3年(1557)大友氏おおともし検地けんちによって25坊の行者方ぎょうじゃかたを残すのみになっていたとされます。この検地けんちの翌年の永禄えいろく元年(1558)寺僧じそう25坊は、現在の百段ひゃくだんガンギの上、或いは宝満山ほうまんざんキャンプセンター下の東院谷とういんだにに移住しました。

永禄えいろく5年(1562)高橋鑑種たかはしあきたねは、大友宗麟おおともそうりんから毛利氏もうりしに寝返るも、大友氏おおともし毛利氏もうりしが和睦することで大友氏おおともしの配下に戻ります。しかし、永禄えいろく10年(1567)再び反旗を翻し、宝満山ほうまんざんは戦場となります。永禄えいろく12年(1569)高橋鑑種たかはしあきたねは降伏し豊前小倉ぶぜんこくらに移され、高橋の名を継いだ高橋鎮種たかはししげたね紹運じょううん)が城主となります。しかし、太宰府だざいふをめぐる争奪戦は繰り返され、龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶ秋月種実あきづきたねざね筑紫広門つくしひろかどなど何度も山中で争います。天正てんしょう13年(1585)には宝満山ほうまんざんが火に包まれ、西谷坊中にしたにぼうちゅう講堂こうどうをはじめ、本尊三体ほんぞんさんたい誕生仏たんじょうぶつ唐筆涅槃像とうひつねはんぞうなどの宝物ほうもつことごとく焼失。天正てんしょう14年(1586)高橋紹運たかはしじょううん島津氏しまづしと戦い、岩屋城いわやじょうに敗れ、宝満城ほうまんじょうで籠城していた高橋統増たかはしむねます立花直次たちばななおつぐ)は降伏し宝満城ほうまんじょうを開城しました。この時、宝満宮ほうまんぐう宝物ほうもつ古文書こもんじょを焼失しました[05]

その後、秋月種実あきづきたねざねを経て、天正てんしょう15年(1587)小早川隆景こばやかわたかかげ筑前領主ちくぜんりょうしゅとなり宝満山ほうまんざんの復興を進めます。文禄ぶんろく2年(1593)には小早川隆景こばやかわたかかげが自ら登山し、祈祷料きとうりょうとして米百石を寄進きしんし毎年恒例となりました。文禄ぶんろく3年(1594)には38年間中絶していた峰入みねいりが再開。慶長けいちょう2年(1597)には御本社ごほんしゃ2が完成。神殿しんでん三間四面さんけんしめんで、古法の如く朱彩色しゅさいしょく金柱きんばしら。全ての金物に菊桐きくきりの紋が用いられました。その他に、石鳥居いしとりい1基、講堂こうどう神楽堂かぐらどう鐘楼しょうろう行者堂ぎょうじゃどう末社まっしゃも残らず建立されました[06]


【江戸時代】

慶長けいちょう5年(1600)関ケ原せきがはら合戦かっせんの後、黒田長政くろだながまさ筑前国ちくぜんのくにに入国するとすぐに宝満山ほうまんざんに登山し、社領しゃりょうとして300石(当初は1000石)の寄進きしんを伝えられるも「僧徒そうとは衣食が足りると行法ぎょうほうの心が薄くなる」と辞退し、代わりに課役かやくの免除を申し出て受領されます。黒田長政くろだながまさは、度々たびたび登山して臨時の俸禄ほうろく御盃ぎょはい小袖こそでなどを給わりました。元和げんな4年(1618)には、神領しんりょう宰府村ざいふむらから25石を寄進きしんされます。

元和げんな6年(1620)講堂こうどう造立のため米100石が下賜かしされ、元和げんな8年(1622)には鐘楼しょうろうも完成しました。しかし、寛延かんえん10年(1633)本社ほんしゃ講堂こうどうとその本尊ほんぞん十一面観音じゅういちめんかんのん大錫杖だいしゃくじょう、古くより伝わる重宝じゅうほう鐃銅鉢どらどうばち大般若経だいはんにゃきょう一箱百巻、御供ごくうの器物、音楽器の全てを焼亡します。慶安けいあん3年(1650)に黒田忠之くろだただゆきにより社殿しゃでんが竣工しますが、正保しょうほう2年(1645)座主ざす幸吟こうぎんが殺害されるなど内情は不安定な状況でした。

中世末、修験道しゅげんどう天台宗系てんだいしゅうけい本山派ほんざんは真言宗系しんごんしゅうけい当山派とうざんはの二派による支配が進みました。江戸時代に入ると、江戸幕府は国々を横断して修行しゅぎょうする修験道しゅげんどうを危険視して統制を強めることとなります。彦山ひこさん本山派ほんざんは総本山そうほんざん聖護院しょうごいんの系統であるものの、独自の発展をしてきていたことから、宝満山ほうまんざん修験道しゅげんどうを含めての本末論争ほんまつろうそうを引き起こすこととなります。

慶長けいちょう7年(1601)本山派ほんざんは当山派とうざんはの確執がピークを迎え、江戸幕府は慶長けいちょう18年(1613)「修験道法度しゅげんどうほっと山伏法度やまぶしほっと)」を発布。圧倒的な本山派ほんざんはによる修験道しゅげんどう山伏やまぶしの支配力を嫌い、本山派ほんざんは当山派とうざんはとは別派として認定し、互いに牽制させる意図がありました。元和げんな4年(1618)には、当山派とうざんは本山派ほんざんは以外の山伏やまぶし偽山伏にせやまぶしとして諸国勧進しょこくかんじんを禁止し、本山派ほんざんは当山派とうざんはの必ずどちらかの派に属するものとされます。しかし、本山派ほんざんは聖護院しょうごいんと関係があるものの、独自の歴史を持っていた彦山ひこさん聖護院しょうごいんの配下になることに抵抗します。

  • 本山派ほんざんは天台宗てんだいしゅう系で修行しゅぎょうの拠点は熊野三山くまのさんざん本寺ほんじ聖護院しょうごいん
  • 当山派とうざんは真言宗系しんごんしゅうけい修行しゅぎょうの拠点は大峰山おおみねさん本寺ほんじ三宝院さんぼういん醍醐寺だいごじ)。

承応じょうおう3年(1654)福岡藩ふくおかはん藩主が第3代・黒田光之くろだみつゆきに代わると、明暦めいれき年間(1655-58)福岡藩ふくおかはんは、藩内の修験道しゅげんどうを取り仕切る「惣職そうしょく」に博多はかた真言宗しんごんしゅう当山派とうざんは明厳院みょうげんいんを指名。明厳院みょうげんいんを通して山伏やまぶしを支配するよう舵を切ります。それに対し宝満山ほうまんざんはその配下になることに反発し、彦山ひこさんに協力を求めます。この時の宝満山ほうまんざんの使者であった財行坊ざいぎょうぼう山中坊さんちゅうぼうは「宝満山ほうまんざん彦山ひこさん末山まつざん紛れ無き」との証文しょうもんを受けたことで、逆に宝満山ほうまんざん彦山ひこさん末山まつざんであると主張されることになりました。

これを機に、彦山ひこさん宝満山ほうまんざん、そして本山派ほんざんは本寺ほんじである聖護院しょうごいんとの本末論争ほんまつろうそうが勃発します。

宝満山ほうまんざんおさ法頭ほうず)であった平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう彦山ひこさん末山まつざんになることに反発。万治まんじ元年(1658)2月18日、平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう福岡藩ふくおかはんに対し、真言宗系しんごんしゅうけい当山派とうざんは明厳院みょうげんいんへの支配下に、天台宗てんだいしゅう系は彦山ひこさん末山まつざん末寺まつじも含め宝満山ほうまんざんの傘下に置くよう主張。それにより宝満山ほうまんざん親彦山派しんひこさんはと、聖護院しょうごいんの配下とする反彦山派はんひこさんは親聖護院派しんしょうごいんは)に分裂します。そして宝満山ほうまんざん内部での対立は、宝満山ほうまんざんを巡る彦山ひこさん聖護院しょうごいんの対立、本末論争ほんまつろうそうへと発展することとなりました。そして寛文かんぶん5年(1665)に「古来宝満山ほうまんざん金剛界こんごうかい彦山ひこさん胎蔵界たいぞうかい役行者えんのぎょうじゃ以来双び立ちたる峯と承り候」と主張して聖護院しょうごいん末山まつざんとなります。

この宝満山ほうまんざんの動きに彦山ひこさんは激怒し、宝満山ほうまんざん山伏やまぶし秋峰あきみね入峰にゅうぶ修行しゅぎょう宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃから彦山ひこさんに入るのを許さず、彦山ひこさんでの修行しゅぎょうは中止になります。

その後、平石坊弘有ひらいしぼうこうゆうは数度の上洛の後、延宝えんぽう4年(1676)聖護院しょうごいん門主に拝謁を果たします。天和2年(1682)彦山ひこさん座主ざす相有が夏峰なつみね修行しゅぎょう宝満山ほうまんざんに入るも平石坊弘有ひらいしぼうこうゆうは面会を拒否。貞享じょうきょう2年(1685)平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう聖護院しょうごいん門主の招きで大峰山おおみねさん入峰にゅうぶにおとも。この動きの中で聖護院しょうごいんは、彦山ひこさん聖護院しょうごいん末山まつざんで、宝満山ほうまんざんの支配権は聖護院しょうごいん側にあると主張するに及び、「彦山ひこさん宝満山ほうまんざん」の本末論争ほんまつろうそうは「彦山ひこさん聖護院しょうごいん」にまで発展することになりました。

貞享じょうきょう3年(1686)彦山ひこさん福岡藩ふくおかはん寺社奉行じしゃぶぎょうに対し、宝満山ほうまんざん彦山ひこさん末山まつざんであると訴え出ます。その翌年の貞享じょうきょう4年(1987)平石坊弘有ひらいしぼうこうゆうは『竈門山かまどやま宝満宮伝記ほうまんぐうでんき』を著しています。貞享じょうきょう5年(1688)福岡藩ふくおかはん彦山ひこさん宝満山ほうまんざん聖護院しょうごいん末山まつざんと沙汰を下し、彦山ひこさん宝満山ほうまんざん本末ほんまつの判断を下しませんでした。しかし、騒動の原因となった宝満山ほうまんざん側の関係者を処分します。宝満山ほうまんざん彦山ひこさん末山まつざんとの証文しょうもんを入れさせた財行坊ざいぎょうぼう山中坊さんちゅうぼうを追放。宝満山ほうまんざん衆頭しゅがしら平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう離山りざんさせ禁固とし、元禄げんろく2年(1692)2月に彦山ひこさん宝満山ほうまんざんとは一応の和解を見ます。

しかし、元禄げんろく6年(1693)宝満山ほうまんざん新座主しんざす楞伽院りょうがいん聖護院しょうごいん入峰にゅうぶのおともをして、宝満山ほうまんざんは完全に聖護院しょうごいん末山まつざんとなります。彦山ひこさんはそれに対し反発を強め、とうとう聖護院しょうごいんとの対立が直接的に顕現けんげんします。

ついに彦山ひこさんは、元禄げんろく8年(1695)11月に彦山ひこさんは「宝満山ほうまんざん彦山ひこさん末山まつざんであり、彦山ひこさん聖護院しょうごいん末山まつざんではない」と幕府の寺社奉行じしゃぶぎょうに訴え出ました。

幕府は彦山ひこさんの提訴を受け、元禄げんろく9年(1696)3月、幕府による裁定が出されます。内容は、幕府は彦山ひこさんは、一度もどこかの末山まつざんになったことはないので別格本山べっかくほんざんと認める。そして宝満山ほうまんざん聖護院しょうごいん末山まつざんとする。これによって彦山ひこさん宝満山ほうまんざん、及び聖護院しょうごいんとの和解が成立しました[07]

宝満山ほうまんざんの峰入り行は江戸期を通じて行われ、山中でのぎょうと里での布教とが一体となった一大行事でした。黒田藩主くろだはんしゅへの祈祷奉仕きとうほうし度々たびたび行われていたことからも領主との宗教的関係が保持されていたと考えられています。嘉永かえい6年(1853)上宮じょうぐうを焼失するも、安政あんせい元年(1854)に福岡藩ふくおかはん11代藩主黒田長溥くろだながひろにより再建されました。


【明治以降】

明治元年(1868)「神仏分離令しんぶつぶんりれい」、「神祇じんぎ菩薩号廃止令ぼさつごうはいし」が布告されるも26坊中ぼうちゅう16坊が宝仲寺ほうちゅうじとして天台修験てんだいしゅげんを守り、明治2年(1869)には峰入みねいりが行われました。しかし、明治3年(1970)6月に山伏やまぶし神職しんしょくに転じるよう福岡藩ふくおかはん司祭局しさいきょくよりめいがあり惣坊中そうぼうちゅうことごとく神官しんかんに転じ、同年9月には仏を廃して神祭しんさいの復古となり、仏堂ぶつどうなどを焼き払う廃仏毀釈はいぶつきしゃくが行われました。中宮ちゅうぐう本尊ほんぞん十一面観音じゅういちめんかんのん毘沙門天びしゃもんてん陀祇尼天だきにてん等の仏像を安置した講堂こうどう役行者えんのぎょうじゃの像を安置していた行者堂ぎょうじゃどう鐘楼しょうろう堂、神楽堂かぐらどうなど。中宮ちゅうぐうから上宮じょうぐうに至る道に建立される五百羅漢ごひゅくらかん神祇堂じんぎどうとして利用されるようになった講堂こうどう以外のほとんどが破却されました。明治4年(1871)宝満山ほうまんざんの土地は国有化され、明治5年(1872)9月15日に「修験しゅげん宗廃止」が発令される中、同年11月に竈門神社かまどじんじゃとして村社そんしゃに列せられました。この竈門神社かまどじんじゃとは、上宮じょうぐうのみをさし、下宮げぐう無各社むかくしゃに、中宮ちゅうぐう神祇殿じんぎでんとされ別社べつしゃとして扱われました[08][09]

明治22年(1889)春峰はるみね秋峰あきみねが復興。竈門神社かまどじんじゃ式内社しきないしゃであるのにもかかわらず村社格そんしゃかくの扱いであったため、官幣社かんぺいしゃ昇格への運動が進められます。明治24年(1891)4月28日に玉依姫命たまよりひめのみこと山陵調査さんりょうちょうさが行われ、5月1日に福岡県知事に福城窟ふくじょうくつがその山陵さんりょうに間違いないと思われるので、確定するよう復命書が提出されます。明治28年(1895)10月6日、官幣小社かんぺいしょうしゃに昇格[10]

明治37年(1904)上宮じょうぐうを焼亡しますが、大正元年(1912)上宮じょうぐうが再興され遷宮祭せんぐうさいを行います。大正12年(1923)中宮跡ちゅうぐうあとに「竈門山碑かまどやまひ」を建立。昭和2年(1927)に下宮げぐう本殿ほんでんを改築・落成。昭和27年(1952)上宮じょうぐうを焼亡しますが、昭和32年(1957)上宮じょうぐう社殿しゃでんをコンクリート造りで復興。昭和57年(1982)宗派を超えて宝満山ほうまんざん修験会しゅげんかいが結成され、爾来、毎年5月の第2日曜日に宝満山ほうまんざん入峰にゅうぶ、5月の最終日曜日に採燈大護摩供さいとうだいごまくが修されています。


境内社けいだいしゃなど】

下宮げぐう[現・本社]」

宝満山ほうまんざん山麓の内山うちやま鎮座ちんざする下宮げぐうは、古くから山頂の上宮じょうぐう遙拝ようはいする下宮げぐうとして位置づけられていました。江戸時代までは山頂の社殿しゃでんが「竈門宮かまどぐう」で、現在の社殿しゃでんは「下宮げぐう」と称されていました。『竈門山かまどやま宝満大菩薩記ほうまんだいぼさつき』では神亀じんき元年(724)上宮じょうぐう下宮げぐう十所王子社じゅっしょおうじしゃが合わせて創建そうけんされたと伝えています。『竈門山旧記かまどやまきゅうき』では、仁明天皇にんみょうてんのう御宇みう(833-850)に内山うちやま内山うちやま字南谷あざみなみたに)の崇敬者が上宮じょうぐうから勧請かんじょうして下宮げぐうと名付け、創建そうけんされたとしています。尚、『竈門山旧記かまどやまきゅうき』では下宮げぐう末社まっしゃのひとつとして記されています。

『竈門山宝満大菩薩記』

聖武天皇御宇神亀元年甲子竈門宮上下宮、同十所王子、香椎社等草創之矣


『竈門山旧記・乾』

五十四代仁明天皇ノ御宇。-(略)-。南谷ノ衆徒上宮ヲ勸請シ尊神ヲ祭ル。上宮對シテ下宮ト號ス。大塔、金堂、鐘樓、大講堂、僧房、食堂、文庫、經藏、神社、伽藍所々其跡猶存せり。

下宮げぐうの二之鳥居と三之鳥居さんのとりいの右手には、下宮げぐう礎石建物跡そせきたてものあとが遺跡として発掘され、700~725年頃の瓦「鴻臚館式瓦こうろかんしきかわら」が発見されています。礎石そせきは、創建そうけん時の礎石そせきを転用して平安時代後期以降に再造成された際の遺構です。東西76.88尺(約23.3m)、東西58.83尺(約17.8m)の規模の神宮寺址じんぐうじあとと考えられ、奈良時代には何らかの形で社殿しゃでんが建造されていたと考えられています。

安政あんせい元年(1854)焼失から再建。明治5年(1872)竈門神社かまどじんじゃ上宮じょうぐう村社そんしゃ列格れっかくされますが、下宮げぐう無各社むかくしゃの指定でした。明治28年(1895)10月6日、竈門神社かまどじんじゃ官幣小社かんぺいしょうしゃに昇格を機に、上宮じょうぐう下宮げぐう中宮跡ちゅうぐうあと竈門神社かまどじんじゃとされ、下宮げぐう本社ほんしゃとして整備されるようになりました。大正14年(1925)から昭和2年(1927)にかけて立て替えられ、平成25年(2013)に改修。本殿ほんでん三間社流造さんげんしゃながれづくり銅板板葺どうばんいたぶき拝殿はいでん正面三間しょうめんさんけん側面四間そくめんよんけん切妻造きりづまづくり銅板板葺どうばんいたぶき妻入つまいり形式で正面は向拝こうはい形式です。

末社まっしゃ五穀社ごこくしゃ

社殿しゃでん向かって右手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして倉稲魂命うかのみたまのみことまつっています。古来、五穀神ごこくのかみは五穀(米、麦、粟、稗、豆)の豊穣を守護し、天地万物の生成、種子しゅじの発芽を促す守護神しゅごしんと信じられています。人が志を立て目標に立ち向かい進むとき、その兆しを興し道を切り開くお力を与えてくださると信じられています。

末社まっしゃ須佐社すさしゃ

社殿しゃでん向かって左手奥に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして須佐之男命すさのおのみことまつっています。高天原たかまがはらから追放された後、出雲国いずものくにに至った須佐之男命すさのおのみことは、櫛稲田姫くしいなだみめを守るためヤマタノオロチを勇猛果敢に退治し、日本で最初の和歌である「八雲立やくもた出雲八重垣いづもやへがき つまごみに 八重垣やえがきつくる その八重垣やえがきを」を詠まれ、愛を育み、永遠の契を結んでたくさんの子宝にも恵まれました。須佐之男命すさのおのみことの勇気ある行動と深い愛情は、良縁成就、家庭円満の象徴として尊ばれています。

末社まっしゃ夢想権之助神社むそうごんのすけじんじゃ

社殿しゃでん向かって左手前に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして神道夢想流杖術しんどうむそうりゅうじょうじゅつである江戸時代初期の剣客けんかく夢想権之助勝吉むそうごんのすけかつよしまつっています。夢想権之助むそうごんのすけは、宝満山中ほうまんざんちゅう修行中しゅぎょうちゅうに開眼し「神道夢想流杖術しんどうむそうりゅうじょうじゅつ」を大成しました。現在でも杖道じょうどう愛好家の方々が御神徳ごしんとくを仰ぎ、毎月の神前稽古しんぜんけいこで技と心を磨いています。

末社まっしゃ式部稲荷社しきぶいなりしゃ

下宮げぐう三之鳥居さんのとりい過ぎの参道左手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして宇迦御霊神うかのみたまのかみまつっています。稲は「命の根」とも表され、「稲荷いなり」は「稲が成る」という意味があります。宇迦御霊神うかのみたまのかみは、私たちが生きていく上で欠かすことができない稲穂の守護神しゅごしんとして仰がれ、日々の生業を守護していただける神様です。

水鏡みずかがみ

社殿しゃでん左手前にまつられています。水には、あらゆるもの映しはらきよめる不思議な霊力があると信じられています。水鏡みずかがみに自身の顔を映すことで、心の内面までもはらきよめ、純粋で正直な心で祈れば願いが叶うと信じられています。

「再会の木」

拝殿はいでん向かって右手に植えられています。神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの折、宝満山ほうまんざん山頂に再会(サイカチ)の木を植えて「凱旋したら再会しよう」と、親しい人々との再会を祈願したと伝えられています。この木に向かって、好きな人との再会や、縁結び、まだ見ぬ人との出逢いを祈れば、きっと願いが叶うと信じられています。宝満山ほうまんざんの頂上近くには再会の木の巨木があり、人々を見守るように佇んでいます。

招霊おがたまの木」

五穀社ごこくしゃの右手前に植えられています。招霊おがたまとは神様を招くという意味で、特に竈門神社かまどじんじゃでは良縁・幸福を招く霊験れいげんの木と信仰されています。これは、神代かみよの昔、あま岩戸いわどの前で天鈿女命あめのうずめのみこと招霊おがたまの枝を手に神楽舞かぐらまいを奏されると、天照大神あまてらすおおかみは岩戸よりお出ましになり再び明るい平和な世の中となったことに由来しています。例年、四月上旬頃に香り高い白い花が咲き、また秋には鈴のような丸い実を結び、神楽鈴かぐらすずの起源と伝えられています。

愛敬あいぎょうの岩」

五穀社ごこくしゃの入口の両脇にまつられる恋占いの岩。二つの岩の間を目を閉じて歩き、無事に向こう側の石にたどりつければ恋が叶うとされています。


【参考文献】

  • 森弘子『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, 2008年3月
  • 中野幡能 編著『筑前国宝満山信仰史の研究』太宰府天満宮文化研究所, 1980年3月. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照2025-05-28)

【出典】

  1. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.59
  2. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.67-70
  3. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.315-318
  4. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.322-325
  5. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.372-378
  6. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.392
  7. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.393-397
  8. 『筑前国宝満山信仰史の研究』太宰府天満宮文化研究所, P.236-241
  9. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.432-433
  10. 『宝満山の環境歴史学的研究』太宰府顕彰会 岩田書院, P.450

Photo・写真

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  • 再会の木
  • 招霊の木
  • 水鏡
  • 須佐社
  • 夢想権之助神社

情報

住所〒818-0115
福岡県太宰府市だざいふし内山うちやま883
創始そうし天武天皇てんむてんのう2年 (673)
社格しゃかく名神大社みょうじんたいしゃ官幣小社かんぺいしょうしゃ [旧社格]、別表神社べっぴょうじんじゃ
例祭れいさい11月15日
神事しんじ宝満山ほうまんざん入峰にゅうぶ(5月第2日曜)
採燈大護摩供さいとうだいごまく(5月最終日曜)
HP 公式HP / Wikipedia

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