九州の神社

福岡県・岩戸見神社(築上町)

由緒

御祭神ごさいじん 天照大神あまてらすおおみかみ大己貴命おおなむちのみこと天児屋根命あめのこやねのみこと

由緒

岩戸見神社いわとみじんじゃは、文治ぶんち元年(1185)7月7日、中原信房なかはらのぶふさが先祖代々の産土神うぶすながみである下野国一宮しもつけのくにいちのみや宇都宮二荒山神社うつのみやふたらさんじんじゃ勧請かんじょうし、清寿山せいじゅさん神祠しんしを築いたのが創祀そうしです。当初は現在の鎮座地よりも宮山みややまの上部に鎮座していました。建久けんきゅう6年(1195)現在の宮山みややまに盛り土がなされ、社殿しゃでんが遷されました。

中原信房なかはらのぶふさの父である中原宗房なかはらむねふさ八田宗房はったむねふさ)は、諸説ありますが、宇都宮氏うつのみやしの初代当主とされる藤原宗円ふじわらのそうえんの次子とされています。藤原宗円ふじわらのそうえんは、藤原兼房ふじわらのかねふさを父とし、藤原兼仲ふじわらのかねなかを兄としました。藤原兼仲ふじわらのかねなかには、子息がなかったため、藤原宗円ふじわらのそうえんの長子の八田宗綱はったむねつな中原宗綱なかはらむねつな)が藤原兼仲ふじわらのかねなかの養子となりますが、弟の中原宗房なかはらむねふさが生まれると、八田宗綱はったむねつな藤原宗円ふじわらのそうえんの本に戻り常陸国八田ひたちのくにはったに勢力を置き、中原宗房なかはらむねふさ藤原兼仲ふじわらのかねなかの家督を継ぎました[01]。『吾妻鏡あずまかがみ寿永じゅえい元年(1182年)8月13日のくだり宇都宮朝綱うつのみやともつなが「宇都宮左衛門尉朝綱」と記され「宇都宮氏うつのみやし下野宇都宮氏しもつけうつのみやし)」と名乗っているのが、宇都宮氏うつのみやしの初見とされています[02]

同時代、中原宗房なかはらむねふさの子とも孫ともされる中原信房なかはらのぶふさは、治承じしょう4年10月20日(1180)富士川ふじかわたたかいでの源頼朝みなもとのよりともの勝利を受け、源平合戦げんぺいかっせん治承じしょう寿永じゅえいらん)の当所から源頼朝みなもとのよりともへの支持を明らかにします。寿永じゅえい2年(1183)2月には野木宮合戦のぎみやかっせんにて源義広みなもとのよしひろ志田義広しだよしひろ)・足利忠綱あしかがただつなの軍を破る功績を挙げます[04]。尚、『吾妻鏡あずまかがみ』では治承じしょう5年(1181)2月23日のくだりで参陣したと記されています[04]

野木宮合戦のぎみやかっせんについては『吾妻鏡あずまかがみ』の治承じしょう5年(1181)の記載は誤記で、寿永じゅえい2年(1183)が正しいとされています。

元暦げんりゃく2年3月24日(1185年4月25日)平氏へいし壇ノ浦だんのうらに亡びると中原信房なかはらのぶふさは、後鳥羽天皇ごとばじょうこうちょくほうじ、平氏へいしの残党追補のため豊前ぶぜんに入ります[05]。同年7月7日、豊前ぶぜんに入るに当り、清寿山せいじゅさんに先祖代々の産土神うぶすながみである宇都宮大明神うつのみやだいみょうじん下野国一宮しもつけのくにいちのみや宇都宮二荒山神社うつのみやふたらさんじんじゃ)を勧請かんじょうし、神祠しんしを築きました。これが岩戸見神社いわとみじんじゃ創祀そうし[06]、当初は現在の鎮座地よりも宮山みややまの上部にありました。

その後、中原信房なかはらのぶふさは、筑後ちくご肥後ひご方面へ転戦して征討の功を上げ、当地の城井きいに帰還[07]。9月5日に[05]九州平定のこと上聞じょうぶんに達し、地頭じとうとして伝法寺庄でんぼうじしょうを中心に仲津なかつ京都みやこ田川郡大任たがわぐんおおとうまでの9720町余りを賜り[08]仲津郡今井津なかつぐんいまいつに暫く寓居しました[05]文治ぶんち3年(1187年)鬼界ヶ島きかいじま平氏へいしの残党討伐にて功績を挙げ、田川郡たがわぐん伊方庄いかたしょう地頭じとう、及び薩摩守さつまのかみに任ぜられ、日向国児湯郡ひゅうがのくにこゆぐんにも所領を加増されました[09]

建久けんきゅう6年(1195)源頼朝みなもとのよりとも摂津四天王寺せっつしてんのうじ参詣さんけいした際、中原信房なかはらのぶふさ供奉ぐぶし、豊前守護職ぶぜんしゅごしきに任ぜられます。その九州下向きゅうしゅうげこうの時、「宇都宮氏うつのみやし豊前宇都宮氏ぶぜんうつのみやし)」を建てたとされています[10]。又、この下向げこうの時、現在の宮山みややまに盛り土がなされ、社殿しゃでんが遷されました[11]宇都宮信房うつのみやのぶふさより34町の社領地しゃりょうちの寄附あり、本庄荘ほんじょうそう11ヶ村の産子うぶこを定め、豊前宇都宮氏ぶぜんうつのみやし産土神うぶすながみとなりました[05]

天正17年(1589)黒田孝高くろだよしたか長政ながまさの父子の諜計はかりごとに掛かり宇都宮氏うつのみやしは滅亡します。4月20日に宇都宮氏うつのみやし16代当主の宇都宮鎮房うつのみやしげふさ城井鎮房きいしげふさ)が、黒田長政くろだながまさに招かれた中津城なかつじょうでの酒宴の席にて謀殺。24日、城井ノ上城きいのこじょうの落城の報を受け取った黒田孝高くろだよしたかは、肥後国人一揆ひごこくじんいっきに参陣して木葉このはに宿していた宇都宮朝房うつのみやともふさ城井朝房きいともふさ)を加藤清正かとうきよまさ小西行長こにしゆきなが等の兵と共に焼き討ちにし、豊前宇都宮氏ぶぜんうつのみやしは滅びました[12]。それを受けて、岩戸見神社いわとみじんじゃ社領しゃりょう上知あげちとなり、安武手永やすたけてなが総社そうじゃとして崇敬されました。明治6年(1873)7月9日、郷社ごうしゃに列格[05]

明治44年(1913)9月16日に本庄字石堂ほんじょうあざいしどう小倉山神社おぐらやまじんじゃまと黒男神社くろおじんじゃ寺中てらなか池地神社いけちじんじゃ小川内こがわち山霊神社さんれいじんじゃ合祀ごうし本庄ほんじょう小倉山神社おぐらやまじんじゃは、天御中主神あめのみなかぬしのかみ三女神さんじょしん玉依姫命たまよりひめのみこと五柱ごはしらの神を祀り、本庄ほんじょうは、伝法寺庄でんぼうじしょう本庄ほんじょうのあった地で宇佐宮うさぐうの荘園でした。宇佐宮うさぐうの鎮座地が小倉山おぐらやまであり、宇佐宮うさぐう二之御殿にのごてん三女神さんじょしんが祀られていることから、小倉山神社おぐらやまじんじゃ宇佐宮うさぐう勧請かんじょうしたものとも[06]神護景雲じんごけいうん年中(767-770)大楠神社おおくすじんじゃにて宇佐宮うさぐう御杣始祭みそまはじめさいが行われた時に三女神さんじょしん合祀ごうししたとも伝えられています。本庄荘ほんじょうそう氏神うじがみとされていましたが、岩戸見神社いわとみじんじゃを創建されるとその摂社せっしゃとなりました。文禄ぶんろく年間(1592-1596)兵火に罹り宮殿を焼失し、暫く岩戸見神社いわとみじんじゃ合祀ごうしされていましたが、元禄げんろく12年(1699)幕府の命に依って旧地に社殿しゃでんが再建されて遷座せんざ。明治6年(1873)7月9日に村社そんしゃに列格されていました[05]。現在、小倉山神社おぐらやまじんじゃは還座しています。


境内社けいだいしゃなど】

武甕槌神社たけみかづちじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手に鎮座。鹿島神宮かしまじんぐう御祭神ごさいじんである武甕槌神たけみかづちのかみを祀っています[13]遠矢塚とおやづか上馬場かみばば、及び金敷かなしきの2社を合祀ごうしして遷座せんざ[06]

貴船神社きふねじんじゃ

本殿ほんでん向かって左手に鎮座。闇龗神くらおかみのかみ高龗神たかおかみのかみを祀っています[13]遠矢塚とおやづか上馬場かみばば、及び金敷かなしきの2社を合祀ごうしして遷座せんざ[06]

祖靈社それいしゃ

御神木ごしんぼくのカシの木の右手に鎮座する石碑。明治3年(1870)6月14日、士族の川本永頼かわもとながよりの霊を祀り、爾来神葬者しんそうしゃの霊を合祀ごうししています[06]

「つなぎ馬の絵馬えま

絵馬えまの馬が逃げ出して田畑を荒らすので、求菩提山くぼてさん山伏やまぶし祈祷きとうしてもらい、つなぐ綱と餌の草を描き足してもらったと伝えられています。岩戸見神社いわとみじんじゃでは、以来、この絵馬えま祭神さいじんとして12月初午はつうまの日にうままつりが行われています。元和げんな5年(1619)の作で、県内最古の神馬図しんめず絵馬えまです[11]


神事しんじ祭事さいじ

豊前神楽ぶぜんかぐら伝法寺神楽でんぼうじかぐら檪原神楽いちきばるかぐら

豊前神楽:伝法寺神楽[地割] 神幸祭しんこうさい(5月4・5日)にて奉納ほうのうされる伝法寺神楽でんぼうじかぐら檪原神楽いちきばるかぐらは、国指定重要無形民俗文化財に指定されている豊前神楽ぶぜんかぐらです。神幸祭しんこうさいは、檪原いちきばる上本庄かみほんじょう伝法寺でんぼうじ下本庄しもほんじょう松丸まつまるの順で5年に1度、集落が持ち回りで担当します。夜になると、その年の担当集落の会場を御旅所おつきとし、夜神楽よかぐら奉納ほうのうされ、深夜まで里の人々との交流が続きます。檪原いちきばる上本庄かみほんじょうの時は檪原神楽いちきばるかぐらが、伝法寺でんぼうじ下本庄しもほんじょう松丸まつまるの時は伝法寺神楽でんぼうじかぐら奉納ほうのうされます。

建久けんきゅう6年(1195)に現在の鎮座地に社殿しゃでんが遷されて以来、岩戸見神社いわとみじんじゃでは一度も中断することなく、祭礼さいれい神楽かぐら奉納ほうのうされてきました。地割ぢわり三神舞さんじんまいの軽妙なやりとりが見所で、明治末期から昭和初期までが最も盛り上がり、各地に招かれました。昭和12年(1937)には、台湾台北市たいわんたいぺいし台湾神宮たいわんじんぐう奉納ほうのうしたこともあります[14]

豊前神楽:伝法寺神楽[御先神楽] 豊前神楽ぶぜんかぐらは旧豊前国ぶぜんのくに企救きく田川たがわ京都みやこ仲津なかつ築城ちくじょう上毛こうげ下毛しもうげ宇佐うさ)に伝わる神楽かぐらで、福岡県の34団体、大分県の5団体が平成28年(2016)3月2日に国指定重要無形文化財に指定されました。築上町ちくじょうまちは最も数が多く、赤幡神楽あかはたかぐら寒田神楽さわだかぐら小原神楽おばらかぐら岩丸神楽いわまるかぐら伝法寺岩戸神楽でんぼうじいわとかぐら檪原神楽いちきばるかぐら湊金富神楽みなときんとみかぐらの7団体が継承し、各地の神社などで奉納ほうのうしています[15]築上町ちくじょうまちに伝えられる赤幡系あかはたけい神楽かぐらは、岩戸見神社いわとみじんじゃから伝播したものです[16]神楽かぐらは江戸時代までは神職しんしょくが行っていましたが、明治4年(1871)2月14日に「是迄心願ト称シ猥ニ社頭ニ於テ神楽奉納之儀自今禁止之」と太政官達だじょうかんたっしが出され、社頭しゃずでの神楽かぐら奉納ほうのうが厳しく制限されます[17]。明治6年(1873)5月27日には「神楽伝習の儀」に関する太政官布告があり、一般庶民にも雅楽や神楽の伝習(伝承)が神楽の伝習ができることになります[18]。その時代の変化の中、岩戸見神社いわとみじんじゃには、神職しんしょくとして宮司ぐうじ熊谷重房くまがいしげふさ内尾正玄うちおしょうげんがおり、特に熊谷重房くまがいしげふさは熱心に赤幡あかはたをはじめ寒田さわだ伝法寺でんぼうじ松丸まつまる氏子うじこ神楽かぐらを伝授しました。後に、赤幡あかはた神多朗衛門こうたろうえもん松丸まつまる中川応吉なかがわおうきちといった優れた継承者が現れ、築上町ちくじょうまちに伝わる神楽かぐらの礎となりました[16]

豊前神楽:伝法寺神楽[御先神楽] 豊前神楽ぶぜんかぐらの大きな特徴は、鬼姿の御先みさきが登場する御先神楽みさきかぐら駈仙神楽みさきかぐら)の種類が多く、神楽かぐらの主要な部分になっていることです。御先神楽みさきかぐらは日本神話の「天孫降臨てんそんこうりん」の一場面で、ミサキ鬼=猿田彦命さるたひこのみことは、地上に降りてくる瓊瓊杵尊ににぎのみことの使いの天鈿女命あめのうずめのみことを先導する役です。しかし舞の途中でミサキ鬼は舞台から飛び出し、会場の子供と戯れたり、幼児を抱いたり、人々の頭を鬼杖で叩いて無病息災を祈ります。また湯立神楽ゆたてかぐらでもミサキ鬼が登場します。豊前神楽ぶぜんかぐらでミサキ鬼が厄払やくばらいや言祝ことほぎの役として登場するのは民間信仰のなごりとも考えられています。このほか豊前神楽ぶぜんかぐらには「天岩戸開あまのいわとひらき」の日本神話の「岩戸神楽いわとかぐら」や、厳粛で奥ゆかしい面を付けないはらいやきよめの「式神楽しきかぐら」など多くの演目があります[15]

豊前神楽:檪原神楽 尚、築上町ちくじょうまちの指定無形民俗文化財である岩戸楽いわとがくもまた、建久けんきゅう6年(1195)の御遷座祭ごせんざさいで先導した道楽みちがくが始まりとされています。演目の岩戸楽いわとがくは、毎年、神幸祭しんこうさい神輿みこしの先導をつとめ、神輿みこしを一時的に停めておく御旅所おつきでの御着おつき・御立おたちの時に、天下泰平・五穀豊穣を願う舞楽ぶがくが打たれます。出発する際の「御立おたちのがく」、到着した際の「御着おつきのがく」など、伝法寺でんぼうじ独特の神楽かぐらが残されています。構成は囃子はやしが3人で、円形の中央で笛と岩戸楽いわとがく口上こうじょうを唱えます。舞方まいかたは総勢15名程度で太鼓等を打っています。大人の囃子方はやしがたは円陣の中で笛と口上こうじょう奏上そうじょうします。子供の舞方まいかたは円陣を組みながら、鉦打かねうち、締太鼓を叩く花楽はながく頭楽かしらがくが2人で、衣装は青布の鉢巻、白の浄衣じょうえ草鞋わらじ、ヘラの繊維の腰簑こしみの、5本の御幣飾ごへいかざりを背中に立てて舞います[19]

神幸祭しんこうさい

神幸祭 5月4・5日が、神々が御輿みこしに乗って巡幸じゅんこうする神幸祭しんこうさいです。檪原いちきばる上本庄かみほんじょう伝法寺でんぼうじ下本庄しもほんじょう松丸まつまるの順で5年に1度、集落が持ち回りで担当しています。1日目は、その年の担当集落の会場を御旅所おつきとし、小学生による楽打がくうちが奉納ほうのうされ、神楽講かぐらこうの神々に導かれて集落に御輿みこしが鎮座します。夜になると神楽講かぐらこうによる夜神楽よかぐら奉納ほうのうされ、深夜まで里の人々との交流が続きます。檪原いちきばる上本庄かみほんじょうの時は檪原神楽いちきばるかぐらが、伝法寺でんぼうじ下本庄しもほんじょう松丸まつまるの時は伝法寺神楽でんぼうじかぐら奉納ほうのうされます。神幸祭しんこうさい2日目の5日は、本宮ほんぐうに向けて御輿みこしを運び、五穀豊穣を願って神事しんじは終了します[14]

夏祭り:俵替たわらがえ

記録によると明治43年(1910)8月1日に「五穀豊穣、病難除御祈祷、並びに説教相勤候問、御区内参拝相成候様、漏なく御通知方御取計下されたく依頼申し上げ候」との文書が氏子うじこに渡り、3昼夜、相撲、講演を行ったことが始まりでした。創建750年の大正15年(1926)大祭記念事業として3昼夜の講演の後に俵替たわらがえ神事しんじを行うようになり、現在まで続いています。俵替たわらがえとは、富くじのことです。3日間の講演が終わると人々は富くじを買い、自分の買ったくじを、他の人のくじと「替えましょう。替えましょう」と言い、何人もの人と交換することから俵替たわらがえと言われるようになったとされています。一等の大俵(米俵)が当たると、翌年は小俵(麦装)を奉納ほうのうしなければなりません。夏祭り、俵替たわらがえ神事しんじは、まず始めに祭典さいてんの後、講演を聞きます。講演の後に俵替たわらがえを行います。富くじの大俵は、厄年の人や快気祝のお礼など、さまざまな人たちから奉納ほうのうされ、景品も用意されます。くじの交換が終わりましたら、いよいよ当選発表です。まず宮司ぐうじが御参りされた三方さんぽうを皆の前に置きます。三方さんぽうの中には小さな紙に数字を書いた紙でつくった富くじがのせられています。それを長い中おり(紙)がついた御幣ごへい宮司ぐうじさんが引き上げて番号を呼びます。景品は後の方になるほど大物になり俵替たわらがえ神事しんじも盛り上がっていきます。最後に米俵が当たった人は、近所の人達と持ち帰り床の間に供え、近所の人達に酒盛りの接待をします。米1俵分を接待すると良い1年を送ることが出来、一人占めをすると悪い年になるという言い伝えが残っているからです[20]

うままつり

うままつりは、12月初めのうまの日に「つなぎ馬の絵馬えま」を一般に御開帳ごかいちょうし、1年の節目の数と言われる24の桐の入れ物にご飯を盛ったお御供ごくを用いる祭典を岩戸見神社いわとみじんじゃで行っています。絵馬えまには霊が宿っているので、祀るようになったのが始まりではないかと伝えられています。一説には作者不明とされているものの、絵馬えまを描いたのは求菩提山くぼてさんの位の高い僧侶ではないかと地域では云われています[21]


【参考文献】


【出典】

  1. 『宇都宮市史 第3巻:中世通史編』宇都宮市, 昭和56年3月25日. P36
  2. 『栃木県史 史料編 中世 5:吾妻鏡[治承五年]』栃木県, 昭和51年3月31日. P612
  3. 『築城町の史跡と伝説 第2集:築城通史・続宇都宮史』築城町教育委員会, 昭和51年4月30日. P122-123
  4. 『栃木県史 史料編 中世 5:吾妻鏡[治承五年]』栃木県, 昭和51年3月31日. P604-606
  5. 『福岡県神社誌 下巻』大日本神祇会福岡県支部, 昭和20年1月30日. P309-310
  6. 『築上郡史 下巻』臨川書店, 昭和31年7月31日. P152-154
  7. 『豊前宇都宮興亡史』海鳥社, 1988年2月10日. P13-14
  8. 『築城町の史跡と伝説 第2集:築城通史・続宇都宮史』築城町教育委員会, 昭和51年4月30日. P127
  9. 『豊前宇都宮興亡史』海鳥社, 1988年2月10日. P20
  10. 『豊前宇都宮興亡史』海鳥社, 1988年2月10日. P22
  11. 『かみきい虎の巻:C 伝法寺・松丸エリア』築上町企画振興課, 2020年8月23日. P53
  12. 『豊前宇都宮興亡史』海鳥社, 1988年2月10日. P178-184
  13. 『明治神社誌料:府県郷社 下』明治神社誌料編纂所, 明治45年1月15日. P142-143
  14. 『かみきい虎の巻:C 伝法寺・松丸エリア』築上町企画振興課, 2020年8月23日. P43
  15. 『まつり・伝統芸能・信仰:神楽』築上町教育委員会生涯学習課文化財保護係, 築上町歴史散歩HP
  16. 『京築文化考:京築の神楽』海鳥社, 1987年9月10日. P165-168
  17. 『現行神社法令』皇典講究所印刷部, 明治29年1月17日. P2
  18. 『瑞垣 第71号』神宮司庁, 昭和41年4月25日. P21
  19. 『かみきい虎の巻:C 伝法寺・松丸エリア』築上町企画振興課, 2020年8月23日. P44
  20. 『かみきい虎の巻:C 伝法寺・松丸エリア』築上町企画振興課, 2020年8月23日. P49
  21. 『かみきい虎の巻:C 伝法寺・松丸エリア』築上町企画振興課, 2020年8月23日. P48

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 二之鳥居
  • 二之鳥居
  • 二之鳥居からの参道
  • 参道階段前
  • 手水舎
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 本殿
  • 武甕槌神社・祖靈社
  • 武甕槌神社
  • 祖靈社
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  • 石祠・石碑
  • 神幸祭
  • 神幸祭
  • 豊前神楽:伝法寺神楽[地割]
  • 豊前神楽:伝法寺神楽[地割]
  • 豊前神楽:伝法寺神楽
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  • 豊前神楽:伝法寺神楽
  • 豊前神楽:伝法寺神楽

情報

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住所〒829-0122
築上郡ちくじょうぐん築上町ちくじょうまち伝法寺でんぼうじ1339
創始そうし文治ぶんち元年(1185)
社格しゃかく郷社ごうしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい4月29日
神事しんじ神幸祭しんこうさい(5月4・5日)
流鏑馬祭やぶさめさいうままつり(12月初午はつうまの日)
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