雷山(955.3m)に鎮座する雷神社は、雷山の7合目に鎮座する上宮(層增岐神社)。雷山中腹に鎮座する中宮(雷神社)。千如寺大悲王院の境内にあった下宮(笠折神社)の三社からなり、往昔は雷山三所の社と称されました。
- 中宮:雷神社。御祭神として水火雷電神、高祖明神(彦火々出見尊)、聖母神(神功皇后)、住吉三神(筒男神三神)、八幡大神(応神天皇)を祀る。垂仁天皇の勅命により創建されたのが創始。
- 上宮:御祭神として瓊々杵尊、天神七代、地神五代を祀る。神功皇后が三韓征伐に出陣する際、戦勝祈願のため天神地祇を祀ったのを創始とする。層增岐神社とも称されます。
- 下宮:御祭神として笠折大神、住吉大神、志賀大神を祀る。三韓征伐から凱旋した神功皇后が建立したのが創始。笠折神社とも称されていました。現在は中宮に合祀。
『雷社記略』によれば、中宮を本社とし、垂仁天皇(BC29-99)の勅命により水火雷電神を主祭神として祀る中宮が創建されたのが創始と記されています。また中宮は後に、相殿神として左殿に高祖宮(彦火々出見尊)と聖母宮(神功皇后)と、右殿に住吉三神(筒男神三神)と八幡宮(応神天皇)を祀ったとしています。
中宮に祀られる水火雷電神は、雷山の名の由来となっている雷神です。『日本書紀』にて伊弉冉尊は、軻遇突智神を産んだ際に受けた火傷で亡くなります。それを歎き悲しんだ伊弉諾尊は、軻遇突智神を三段に斬りました。その三段に切られた軻遇突智神から、雷神、大山祇神、高龗神が生まれ、その雷神を水火雷電神として祀っているとされています。
『日本書紀』神代上・第五段一書
一書曰、伊弉諾尊、拔劒斬軻遇突智、爲三段。其一段是爲雷神。一段是爲大山祇神。一段是爲高龗。
上宮(層增岐神社)に鎮座する石祠に残されている銘文、及び『雷社記略』によれば、第6代孝安天皇(BC392-291)から第11代垂仁天皇(BC29-99)の御代、異賊が七度襲来した際、敵国降伏せんと雷山に天降った瓊々杵尊が、当社の御祭神である層增岐大明神(水火雷電神)となり、雷雨を成して異賊を降したと伝えています。垂仁天皇はその御神徳を畏み、中宮の社殿を建て、敵国降伏の神として尊崇したとされています。
『上宮・石祠銘文』(宝暦3年・1753)
地神第三代天津彦火々瓊々杵尊治世三十一萬八千百四十二年後。敵國降伏降層增岐嶽。人王第六代孝安天皇以來。異賊競來凡七箇度。層增岐大明神成大雷電。扇於火雨。雨於火雨。降異賊。第十一代垂仁天皇敕建水火雷電神社。
降って仲哀天皇9年(200)三韓征伐に際して神功皇后が雷山に登り、武内宿禰に命じて宝剣・宝鏡を奉り天神七代、地神五代を祀ったとされ、『筑陽記』によれば、三韓征伐に際し、神功皇后は一七日(1週間)雷山の神社に参籠して神楽を奉納したと記しています。その時の仮面3面は、今も残されており、旱魃の際には、この面を祭祀して神楽を奉納すれば、必ず大雨が降るとされています。
『筑陽記』八巻
神功皇后征伐異国之時、一七日参籠当山神社、奏神楽。其時仮面三、今猶存在。旱魃之時、出之必大雨云。
その故事をもとに後世、雷山の7合目に天神七代、地神五代を祀る上宮(層增岐神社)が創建されました。現在は、宝暦3年(1753)第6代福岡藩主・黒田継高が建立した3社の石祠が鎮斎されています。その石祠の中殿に瓊々杵尊、左殿に天神七代神、右殿に地神五代神を御祭神として祀っています。
尚、宝暦3年(1753)上宮に3基の石祠が建立されるのに先んじて宝永6年(1709)に完成を見た『筑前国続風土記』では、上宮には天神七代、地神五代の総社として2社が鎮斎されていたと記しています。又、『太宰管内志』(天保12年・1841)に記される『筑前神社誌』では、雷山上宮は瓊々杵尊を祀ると『高祖神社縁起』にあり、天神七代の忽社一宇、地神五代の忽社一宇、雷大権現社一宇、沙羯羅竜王一宇があって、以上四座神みな石窟に祭祀してあると記しています。
又、『筑前国続風土記』では、雷山を層増岐岳(層々岐岳)と称することから、神功皇后が羽白熊鷲を討つ時、香椎宮より松峡宮に移り、層増岐野で討伐しました。その層増岐野は、層増岐岳と称される雷山であり、仲哀天皇と神功皇后が筑紫に至った際、すぐに配下となった伊覩県主の五十迹手が軍勢を集めたとの説を記しています。
『日本書紀』巻八 仲哀天皇
又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之。
『日本書紀』巻九 氣長足姫尊
三月壬申朔。…(略)…。戊子、神功皇后、欲擊熊鷲而自橿日宮遷于松峡宮。時、飄風忽起、御笠墮風、故時人號其處曰御笠也。辛卯、至層増岐野、卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。
三月の壬申の朔。…(略)…。戊子に、神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峡宮に遷りたまふ。時に、飄風忽に起りて、御笠堕風されぬ。故、時人、其の処を号けて御笠と曰ふ。辛卯に、層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。
現在、中宮に合祀されている下宮(笠折神社)の旧鎮座地は、千如寺大悲王院の境内の一角にあり、現在は「風穴」として神域とされています。明治43年(1910)1月25日に中宮の雷神社に合祀されています。『雷山社記』によれば、三韓征伐から凱旋した神功皇后が建立したのが創始で、笠折大神を中殿に祀り、両脇に住吉大神と志賀大神を祀るとしています。風穴に祀られていた御祭神は風を司る神とされ、風穴を軽く触れるだけで大風が起こると伝えられています。『筑前国続風土記』では上宮を遷座したとし、高祖大神と住吉大神を祀っているとしています。『筑陽記』では、高祖大神と香椎大神を祀っているとしています。
雷神に雨乞いを祈祷するに霊験あらたかと知られ、代々の天皇、及び将軍の勅願所として綸旨、御教書、そして国主・領主の文書など数多く伝えられています。文永・弘安の役でも御教書が下され、敵国降伏の祈祷がありました。
観応2年/正平6年(1351)7月には九州探題の任にあった足利直冬が、その年の旱魃を受け、当社に詣でて祠官・僧侶に雨乞いを命じました。すると忽ちに雷鳴が起こり、雨が降りだしたことに神威の思いをなして一首の和歌を詠じ、自ら序を書いて神殿に納めたのが伝えられています。
夫雷山謂伽藍則千手千眼之尊容、謂社壇亦三十三身之化現也。爰炎早累旬而苦農夫。祈祷因舊而課衆徒。不圖雷雨忽降州土普潤、誠是冥睠之奇妙也。豈非玄應之潛通乎。然閒以一首和歌爲萬代之支證而巳。
夫れ雷山を伽藍と謂ふは則ち千手千眼の尊容、社壇と謂ひ亦た三十三身の化現なり。爰に炎早累旬に農夫を苦む。祈祷旧き因り衆徒に課す。図ずして雷雨忽に降り州土普く潤ふ、誠に是れ冥睠の奇妙なり。豈に玄応の潜通に非ざるか。然間以一首和歌為万代之支証而巳。
世の末といかて思はん鳴神の
まだあらたなる天か下かな
観応二年七月十三日
佐兵衛佐直冬 花押
永禄・天正期(1558-1593)九州が大いに乱れた時には、神領は悉く将士の略奪する所となります。天正13年(1585)2月18日、雷山衆徒中より豊臣秀吉に年頭の祝儀として巻物並びに杉原10帖が捧げられ、豊臣秀吉公直書の御朱印を給ります。天正15年(1587)小早川隆景が当国の領主に任ぜられ、入国に際して69石の社領の寄附がありました。この時までは、公儀へ直に使が遣わされていましたが、慶長4年(1599)小早川秀秋が筑前に復領すると社領も没収され、使も途絶えました。
慶長6年(1601)福岡藩初代藩主・黒田長政が筑前国に入府し、11石余の社領を賜わります。福岡藩第6代藩主・黒田継高は、更に15石を増して26石余の社領となります。また、黒田継高は宝暦3年(1753)に上宮の石祠、中宮の石鳥居を再建・建立しました。旧藩主からの代々の崇敬篤く、旧筑前国十五郡からも年々若干の神饌料を奉納され、福岡藩の中でも屈指の神社として繁栄しました。明治維新後、当初は村社に列格。明治43年(1910)1月25日に下宮であった笠折神社[住吉大神、級長戸辺命、志賀大神]を合祀。大正8年(1919)3月昇格の請願を起し県社に昇格。大正9年(1920)3月29日に神饌幣帛料供進神社に指定されました。
【境内社など】
「雷神社のイチョウ」
雷神社の社殿前の階段、向かって右手に聳える大イチョウです。明治期に石垣築造の際、樹幹の根元の南側半分を埋立ているため根廻は不詳ですが、高さ:約37.2m、幹回り:約7.2m、樹齢:約900年。毎年秋には鮮やかに紅葉し、数え切れないほどの銀杏が実ります。幹の北側2mの所より出ている枝上にツバキが、南川6mの所より出ている枝上にネズミモチが着生しています。昭和35年(1960)3月19日に県指定天然記念物に指定。
「雷山の観音杉」
境内の鳥居右手に聳える1号木、駐車場側に聳える2号木の2本の大杉です。元は3本ありましたが、1945~1962年の間に、やや大きかったと考えられる中央の大杉が伐採されています。昭和35年(1960)3月19日に県指定天然記念物に指定。
※看板では昭和35年(1960)4月12日。『福岡県文化財調査報告書』では3月19日。
- 1号木[鳥居右手]
高さ:約32.2m、幹回り:約6m、根回り:約11.7m、樹齢:約1000年
- 2号木[駐車場側]
高さ:約32m、幹回り:約7m、根周り:約17m、樹齢:約1000年
「山神」
社殿向かって右手のに鎮座しています。
「小祠四社」
社殿向かって左手に四社の小祠が祀られています。尚、昭和2年(1927)の『糸島郡誌』では熊野神社と日吉神社、昭和20年(1945)の『福岡県神社誌』では天満神社(菅原神)が境内社として祀られていると記しています。