九州の神社

福岡県・一宮神社(北九州市)

由緒

御祭神ごさいじん王子神社おうじじんじゃ天忍穗耳命あめのおしほみみのみこと神武天皇じんむてんのう神日本磐余彦命かむやまといわれひこのみこと
大歳神社おおとしじんじゃ大歳神おおとしのかみ事代主命ことしろぬしのみこと
諏訪神社すわじんじゃ建御名方命たけみなかたのみこと仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごう応神天皇おうじんてんのう

由緒

一宮神社いちのみやじんじゃは、この地方の氏神うじがみ王子神社おうじじんじゃ大歳神社おおとしじんじゃ諏訪神社すわじんじゃの三社を合祀ごうしした神社です。昭和15年(1940)8月8日、諏訪神社すわじんじゃ王子神社おうじじんじゃ合祀ごうし。昭和16年(1941)8月2日、現社地の北隣に大歳神社おおとしじんじゃ遷座せんざ。昭和25年(1950)6月28日に王子神社おうじじんじゃ大歳神社おおとしじんじゃ氏子うじこの総意により三社を合祀ごうしし、社号しゃごう一宮神社いちのみやじんじゃと称しました。一宮いちのみやとは、元の王子神社おうじじんじゃが郷土の尊祟の中心であり一宮いちのみやと称されていたことによります。


【由緒:王子神社おうじじんじゃ

岡田宮おかだぐうの旧鎮座地ちんざち元宮もとみや)である王子神社おうじじんじゃは、神武天皇じんむてんのう日向国ひゅうがのくにより東征とうせいの途次、速吸之門はやすいのと宇佐うさを経て、この地に留まった地とされています。神武天皇じんむてんのうは当地に宮居みやいし、1年間軍務を見られ、御親おんみずから祓いをされ、地主の神を祀ったとされています。境内には礫を敷き詰めた社祠しゃしの跡が今も残っており、この祭祀の姿を残す遺跡は全国でも極めて数少なく、考古学的にも貴重な資料とされています。

『古事記』中巻・神武天皇

神倭伊波禮毘古命、與其伊呂兄五瀬命二柱、坐高千穗宮而議云、坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古、宇沙都比賣二人、作足一騰宮而、獻大御饗自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。


神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ。猶東に行かむ。」とのりたまひて、即ち日向より発たして筑紫に幸行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時、其の土人、名は宇沙都比古、宇沙都比売の二人、足一騰宮を作りて、大御饗献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。

『日本書紀』卷第三 神日本磐餘彦天皇・神武天皇

神武天皇卽位前紀甲寅年十月辛酉。其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。…(略)…。行至筑紫國菟狹。…(略)…。十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫国岡水門。 十有二月丙辰朔壬午、至安芸国、居于埃宮。


其の年(前667年)の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。…(略)…。行きて筑紫国の菟狭に至ります。…(略)…。十有一月の丙戌の朔甲午に、天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ。 十有二月の丙辰の朔壬午に、安芸国に至りまして、埃宮に居します。

神武天皇じんむてんのうの御出立の後、当地に岡田宮おかだぐう王子神社おうじじんじゃ)、御手洗公園みたらいこうえんの地に天皇守護の御巫祭神八座みかんなぎのまつるかみはちざ奉斎ほうさいする八所神社はっしょじんじゃ熊鰐命くまわにのみこと御祭神ごさいじんする熊手神社くまでじんじゃが同一の社域に祀られる稀に見る大社たいしゃであったとされています。

中世には、熊手神社くまでじんじゃの境内に岡田宮おかだぐうが祀られるようになり、岡田宮おかだぐう熊手神社くまでじんじゃを「熊手上社くまでかみしゃ」、八所神社はっしょじんじゃを「熊手下社くまでしもしゃ」と称したと伝えられています。神領地しんりょうち熊手くまでは勿論、遠く穴生あのお引野ひきのにまで及んでいました。又神功皇后じんぐうこうごう洞海どうかいを過ぎられた時、三韓降伏さんかんこうふくを此の神社に祈られ、皇后崎こうがさきから船出されたこともよく知られています。

北部九州における海陸路(洞海船留どうかいふなどめ皇后崎津こうがさきのつ太宰府官道だざいふかんどう)の要衝に位置することから、古来より皇室、公家武門、武将等の三社への崇敬篤く、祭礼さいれい法度はっとを定め社領しゃりょう18所、末寺まつじ9坊と大いに栄え、天慶てんぎょう3年(940)藤原純友ふじわらのすみとも追討の折には、追捕使ついぶしの主将であった小野好古おののよしふる、副将の源経基みなもとのつねもとが戦勝祈願の為に当宮に参詣さんけい三環鈴さんかんれい奉献ほうけんしました。鎌倉時代に入ると、建久けんきゅう5年(1194)に東国あづまのくに御家人ごけにんである宇都宮重業うつのみやしげなり山鹿氏やまがし麻生氏あそうしの祖)が源頼朝みなもとのよりともより当地を与えられ、藤原兼直ふじわらかねなお波多野兼直はたのかねなお)に当社を奉仕させ、大社たいしゃとして崇敬されていたとされています。

しかし、永禄えいろく2年(1559)大友宗麟おおともそうりんかの兵火にかかかかり、一切を焼亡。永禄えいろく8年(1565)に麻生元重あそうもとしげ八所神社はっしょじんじゃ社殿しゃでんを再興しますが、岡田宮おかだぐう熊手宮くまでぐうは衰退し、天正てんしょう年中(1573-1593)には、岡田大神おかだのおおかみ熊手大神くまでのおおかみの両神は同殿に祀まつられていたと伝えられています。

江戸時代に入り、黒田氏くろだし筑前ちくぜんに入国すると、筑前六宿ちくぜんむしゅく(長崎街道)の起点・黒崎宿くろさきしゅくとして整備され、慶長けいちょう8年(1603)岡田おかだ熊手くまでの両社と八所神社はっしょじんじゃ合祀ごうしし、現在の岡田町おかだまち遷座せんざ慶長けいちょう10年(1605)黒崎城くろさきじょう築城の際に筑前六宿ちくぜんむしゅくの起点となり、福岡藩の祈祷社きとうしゃ黒崎宿くろさきしゅく産土神うぶすながみと定められました。

爾来、歴代福岡藩主をはじめ、参勤交代で訪れる諸大名の尊崇を受け、また上り下りの文人墨客ぶんじんぼっきゃく等が数多く参詣さんけいしました。幕末の慶応けいおう元年(1865)に尊皇派そんのうは公卿くぎょう三条実美さんじょうさねとみが、政変により大宰府だざいふ配流はいるされる際、密かに当社に参拝し、維新回天いしんかいてんの大願成就を願い和歌を奉納しています。

昭和15年(1940)8月8日に区画整理のため遷座せんざした諏訪神社すわじんじゃ合祀ごうし。昭和25年(1950)6月28日に王子神社おうじじんじゃ大歳神社おおとしじんじゃ氏子うじこの総意により三社を合祀ごうしし、社号しゃごう一宮神社いちのみやじんじゃと称しました。

古代祭場跡・磐境

古代祭場跡こだいさいじょうあと磐境いわさか

古事記によれば、神武天皇じんむてんのう神倭伊波禮毘古命かむやまといわれびこのみこと御東遷ごとうせんみぎり豊前国宇佐ぶぜんのくにうさよりこの筑前国ちくぜんのくにに御滞在された旧蹟きゅうせきとされています。天皇が御滞在中、この清浄な土地を選び磐境いわさかを設けて、天神地祇てんしんちぎ御親祭ごしんさいされた神座かみざ神処かむどころです。完全に近い姿で残っているのは考古学的にも貴重で、当社がいかに古代からのやしろであったかを物語るものです。


【由緒:大歳神社おおとしじんじゃ

往古は『日本三代実録にほんさんだいじつろく』や『筑前国続風土記ちくぜんこくしょくふどき』に表れている古く、且つ由緒の深い壮大なやしろでした。もともと熊手港くまでこうにあって、農業ゆかりの深い五穀の神として厚く祭られました。しかし、大友宗麟おおともそうりんかによる永禄えいろく2年(1559)の兵火などにかかり衰微しますが、江戸期以降に開拓された新地しんちのおみやとして崇敬されました。大正13年(1924)1月21日に三菱の土地買収のため熊西公民館くまにしこうみんかん南側に遷座せんざ。続いて、昭和16年(1941)8月2日に区画整理のため、今の一宮神社いちのみやじんじゃ王子神社おうじじんじゃ)の北隣の地に遷座せんざ。昭和25年(1950)6月28日に王子神社おうじじんじゃ諏訪神社すわじんじゃ氏子うじこの総意により三社を合祀ごうしし、社号しゃごう一宮神社いちのみやじんじゃと称するようになりました。


【由緒:諏訪神社すわじんじゃ

花尾城主はなおじょうしゅ麻生氏あそうしが、信州の諏訪神社すわじんじゃを現・御手洗公園みたらいこうえんの敷地に分祀ぶんしし、貞元じょうげんのおみやとして厚く祭られました。殊に祭礼は非常に盛大であつたことが古文書こもんじょに記されています。昭和15年(1940)8月8日に区画整理のため遷座せんざと併せて王子神社おうじじんじゃ合祀ごうしされます。昭和25年(1950)6月28日に王子神社おうじじんじゃ大歳神社おおとしじんじゃ氏子うじこの総意により三社を合祀ごうしし、社号しゃごう一宮神社いちのみやじんじゃと称するようになりました。


境内社けいだいしゃなど】

恵比須神社えびすじんじゃ蛭子神社えびすじんじゃ)」

社殿しゃでん前の左参道に並ぶ2社の向かって右手に鎮座ちんざ事代主命ことしろぬしのみことを祀っています。建立年不明。その昔、洞海湾どうかいわんほとり鎮座ちんざし、漁民の信仰を集めていました。大正4年(1915)三菱工場進出に伴い、現在地に遷座せんざしました。家内安全・商売繁盛・大量満足・五穀豊穣の御神徳ごしんとくが有ります。例祭日の1月10日は「十日とおかえびすまつり」で賑わいます。銅板葺流造どうばんぶきながれづくり

疫神社えきじんじゃ

社殿しゃでん前の左参道に並ぶ2社の向かって左手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんは、須佐之男命すさのおのみことです。建立年不明。元々は、山寺やまでら諏訪山すわやま(現在の御手洗公園みたらいこうえん)に鎮座ちんざしていましたが、昭和15年(1940)周辺区画整理に伴い、より清浄なる地を求め現在地に遷座せんざ。7月中旬に斎行さいこうされる例祭の黒崎祇園山笠くろさきぎおんやまがさでは、当社からも神輿みこし山笠やまがさが出て、地域をあげて盛大に行われます。病気平癒・開運称徳・良縁祈願の御神徳ごしんとくが有ります。銅板葺流造どうばんぶきながれづくり

與玉神おきたまのかみ

駐車場への坂道の右手に石碑として祀られています。御祭神ごさいじんは導きの神の猿田彦尊さるたひこのみこと宝暦ほうれき5年(1755)の猿田彦尊さるたひこのみことや建立年不詳ふしょう與玉神おきたまのかみの2基があります。

八大龍王はちだいりゅうおう

八大龍王はちだいりゅうおうは水はつかさど水神すいじんで、水郷の柳川やながわより御縁をいただき、この地に祀られました。龍神りゅうじんは水が流れるように物事を円滑にし昇竜の如く、運気を強く導くと言われています。御神徳ごしんとくは運気上昇、水難除、祈雨きう

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 神橋から二之鳥居
  • 二之鳥居と三之鳥居
  • 古代祭場跡・磐境
  • 古代祭場跡・磐境
  • 古代祭場跡・磐境
  • 古代祭場跡・磐境
  • 古代祭場跡・磐境
  • 境内全景
  • 境内全景
  • 恵比須神社(蛭子神社)
  • 疫神社
  • 石祠・石碑
  • 與玉神
  • 手水鉢
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 本殿

情報

住所〒〒806-0030
北九州市きたきゅうしゅうし八幡西区やはたにしく山寺町やまでらまち12-30
創始そうし昭和25年(1950)※三社を合祀ごうし
社格しゃかく村社そんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい4月17日(春季大祭)、10月17日(秋季大祭)
神事しんじ祇園祭ぎおんまつり(7月21日)

地図・マップ