岡田宮の旧鎮座地(元宮)である王子神社は、神武天皇が日向国より東征の途次、速吸之門、宇佐を経て、この地に留まった地とされています。神武天皇は当地に宮居し、1年間軍務を見られ、御親ら祓いをされ、地主の神を祀ったとされています。境内には礫を敷き詰めた社祠の跡が今も残っており、この祭祀の姿を残す遺跡は全国でも極めて数少なく、考古学的にも貴重な資料とされています。
『古事記』中巻・神武天皇
神倭伊波禮毘古命、與其伊呂兄五瀬命二柱、坐高千穗宮而議云、坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古、宇沙都比賣二人、作足一騰宮而、獻大御饗自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。
神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ。猶東に行かむ。」とのりたまひて、即ち日向より発たして筑紫に幸行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時、其の土人、名は宇沙都比古、宇沙都比売の二人、足一騰宮を作りて、大御饗献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。
『日本書紀』卷第三 神日本磐餘彦天皇・神武天皇
神武天皇卽位前紀甲寅年十月辛酉。其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。…(略)…。行至筑紫國菟狹。…(略)…。十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫国岡水門。 十有二月丙辰朔壬午、至安芸国、居于埃宮。
其の年(前667年)の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。…(略)…。行きて筑紫国の菟狭に至ります。…(略)…。十有一月の丙戌の朔甲午に、天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ。 十有二月の丙辰の朔壬午に、安芸国に至りまして、埃宮に居します。
神武天皇の御出立の後、当地に岡田宮(王子神社)、御手洗公園の地に天皇守護の御巫祭神八座を奉斎する八所神社、熊鰐命を御祭神する熊手神社が同一の社域に祀られる稀に見る大社であったとされています。
中世には、熊手神社の境内に岡田宮が祀られるようになり、岡田宮・熊手神社を「熊手上社」、八所神社を「熊手下社」と称したと伝えられています。神領地は熊手は勿論、遠く穴生・引野にまで及んでいました。又神功皇后が洞海を過ぎられた時、三韓降伏を此の神社に祈られ、皇后崎から船出されたこともよく知られています。
北部九州における海陸路(洞海船留、皇后崎津、太宰府官道)の要衝に位置することから、古来より皇室、公家武門、武将等の三社への崇敬篤く、祭礼・法度を定め社領18所、末寺9坊と大いに栄え、天慶3年(940)藤原純友追討の折には、追捕使の主将であった小野好古、副将の源経基が戦勝祈願の為に当宮に参詣、三環鈴を奉献しました。鎌倉時代に入ると、建久5年(1194)に東国の御家人である宇都宮重業(山鹿氏・麻生氏の祖)が源頼朝より当地を与えられ、藤原兼直(波多野兼直)に当社を奉仕させ、大社として崇敬されていたとされています。
しかし、永禄2年(1559)大友宗麟の兵火に罹かかり、一切を焼亡。永禄8年(1565)に麻生元重が八所神社の社殿を再興しますが、岡田宮と熊手宮は衰退し、天正年中(1573-1593)には、岡田大神・熊手大神の両神は同殿に祀まつられていたと伝えられています。
江戸時代に入り、黒田氏が筑前に入国すると、筑前六宿(長崎街道)の起点・黒崎宿として整備され、慶長8年(1603)岡田・熊手の両社と八所神社を合祀し、現在の岡田町に遷座。慶長10年(1605)黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となり、福岡藩の祈祷社、黒崎宿の産土神と定められました。
爾来、歴代福岡藩主をはじめ、参勤交代で訪れる諸大名の尊崇を受け、また上り下りの文人墨客等が数多く参詣しました。幕末の慶応元年(1865)に尊皇派の公卿・三条実美が、政変により大宰府へ配流される際、密かに当社に参拝し、維新回天の大願成就を願い和歌を奉納しています。
昭和15年(1940)8月8日に区画整理のため遷座した諏訪神社を合祀。昭和25年(1950)6月28日に王子神社、大歳神社の氏子の総意により三社を合祀し、社号を一宮神社と称しました。
「古代祭場跡・磐境」
古事記によれば、神武天皇(神倭伊波禮毘古命)御東遷の砌、豊前国宇佐よりこの筑前国に御滞在された旧蹟とされています。天皇が御滞在中、この清浄な土地を選び磐境を設けて、天神地祇を御親祭された神座・神処です。完全に近い姿で残っているのは考古学的にも貴重で、当社がいかに古代からの社であったかを物語るものです。