九州の神社

福岡県・太宰府天満宮(太宰府市)

由緒

御祭神ごさいじん 菅原道真公すがわらのみちざねこう

由緒

太宰府天満宮だざいふてんまんぐうは、菅原道真公すがわらのみちざねこうをおまつりする12,000社の天満宮てんまんぐう総本宮そうほんぐうです。

昌泰しょうたいへんにて昌泰しょうたい4年(901)大宰権師だざいのごんのそちとして左遷させんされた道真公みちざねこうは、その2年後の延喜えんぎ3年(903)2月25日に大宰府政庁だざいふせいちょうの南館であった榎社えのきしゃ榎寺えのきじにて59歳で薨去こうきょされます。道真公みちざねこうは病が重くなったとき、「他国で死んだ者は必ず遺骨を故郷に帰すのだが、自分は思うところあってこの事を願わない」と遺言していました[01]。その御遺言によりひつぎ轜車じしゃに乗せて引き出し、を去ること七八里(七八町)。四堂しどうと呼ばれる辺りで轜車じしゃの牛がして動かなくなりました。これは道真公みちざねこう御心みこころによるものに違いないと、道真公みちざねこう門弟もんていとして京師けいしより随従してきていた味酒安行うまさけやすゆきがその地に埋葬し、まつったと伝えられています[02]

※秋分の日の2日前〜9月25日の大祭たいさいにて斎行さいこうされる御神幸ごじんこうでは、秋分の日の前日の夜に神輿みこし本殿ほんでんを発し、榎社えのきしゃ榎寺えのきじ)を御旅所おたびしょとして一泊します。翌日に再び還御かんぎょする御神幸ごじんこうの道が、道真公みちざねこうが亡くなってから葬送までの道程であると伝えられています[02]

嘉承かしょう元年(1106)菅原陳経すがわらのぶつねにより編纂へんさんされた『菅家御伝記かんけごでんき』、及び鎌倉時代中期に成立した『天満宮てんまんぐう安楽寺あんらくじ草創日記そうそうにっき』によれば、延喜えんぎ5年(905)8月19日、味酒安行うまさけやすゆきにより埋葬した地に祠廟しびょう建立こんりゅうされます。それが今日の天満宮てんまんぐうの始まりであり、御本殿ごほんでんの最初の姿であるとされています。延喜えんぎ19年(919)藤原仲平ふじわらのなかひら奉行ぶぎょうにより社殿しゃでん造営ぞうえいされました。これが今の太宰府天満宮だざいふてんまんぐう本殿ほんでんです。

この神殿しんでん道真公みちざねこうの遺骸を葬った真上に建てられたので、霊柩れいきゅうは長さ三間、横一間半、高さ四尺の石畳に囲まれて、上は粘土と石灰で漆喰しっくいに固めた中にしずまっているとされています。そばには「天満自在菩薩てんまんじざいぼさつ」と刻んだ石柱せきちゅうが横たえているとされています[03] [04]

『菅家御伝記』

安樂寺學頭修奏狀云。太宰府安樂寺者。贈大相國菅原道眞公喪葬之地。十一面觀音大菩薩靈應之所也。延喜五年八月十九日。味酒安行依神託立神殿。稱曰天滿大自在天神。


『天滿宮安樂寺草創日記』

御殿者延喜五年乙丑八月十九日、安行建立

大宰府だざいふ左遷させんされる前の道真公みちざねこうは、宇多天皇うだてんのうの信任厚い近臣きんしんとして取り立てられていました。宇多天皇うだてんのうは30歳にして寛平かんぺい9年(897)醍醐天皇だいごてんのう譲位じょういするも、道真公みちざねこうの後ろ盾となり政治力を残します。寛平かんぺい10年(898)には宇多天皇うだてんのうの第3皇子の斉世親王ときよしんのう道真公みちざねこうの3女の菅原寧子すがわらのやすこ御成婚ごせいこん昌泰しょうたい2年(899)2月、藤原時平ふじわらのときひら左大臣さだいじんに、道真公みちざねこう右大臣うだいじんに任じられます。

しかし、藤原氏ふじわらし外戚がいせきとして勢力を増すのを嫌う宇多上皇うだじょうこう道真公みちざねこう、それに反発していた醍醐天皇だいごてんのう藤原時平ふじわらのときひら藤原菅根ふじわらのすがね源光みなもとのひかるらとの対立が強まる中、昌泰しょうたい4年(901)1月25日、突如「昌泰しょうたいへん」が起きます。左大臣さだいじん藤原時平ふじわらのときひらの「寒門かんもんよりにわかに大臣に取り立てられたのに止足しそくぶんを知らず、宇多上皇うだじょうこうあざむき、廃立はいりつせんとした」との讒言ざんげんにより、醍醐天皇だいごてんのうが、道真公みちざねこう大宰府だざいふ左遷させんしたのでした。

そして延喜えんぎ3年(903)2月25日、大宰府だざいふにて道真公みちざねこうが失意の内に薨去こうきょされた後、みやこでは続けざまに災異さいいが起こります。落雷、日月蝕、地震、彗星などの異変が相次ぎ、道真公みちざねこう怨霊おんりょうの仕業であると信じられました。延喜えんぎ8年(908)10月7日、「昌泰しょうたいへん」で宇多上皇うだじょうこう参内さんだいを阻止した藤原菅根ふじわらのすがねが雷に打たれて亡くなります。延喜えんぎ9年(909)4月4日には、醍醐天皇だいごてんのうの時の左大臣さだいじんとして「昌泰しょうたいへん」を主導した藤原時平ふじわらのときひらが39歳にして早世。延喜えんぎ13年(913)3月12日、藤原時平ふじわらのときひらと共に道真公みちざねこうを失脚させた張本人とされる源光みなもとのひかるが、鷹狩りに出た際、急な雷雨らいう塹壕ざんごうの泥沼に転落。遺体も上がらずに溺死します。これらの不幸な事件・事故は何れも、道真公みちざねこう左遷させんに関わった人々であったことから、道真公みちざねこう怨霊おんりょう所為せゐだと取り沙汰されました[05]

延喜えんぎ19年(919)道真公みちざねこう怨霊おんりょうの怒りをしずめるため、醍醐天皇だいごてんのう勅命ちょくめいにより安楽寺あんらくじ社殿しゃでん造営ぞうえいされ、藤原時平ふじわらのときひらの弟の藤原仲平ふじわらのなかひら下向げこうして完成を見ます。しかし延喜えんぎ23年(922)3月21日、醍醐天皇だいごてんのう藤原穏子ふじわらのおんし藤原時平ふじわらのときひらの妹)との子である皇太子こうたいし保明親王やすあきらしんのうが21歳で薨去こうきょ。それを受けて同年4月20日、本位本官ほんいほんかんに復せられ、正二位しょうにい追贈ついぞうして昌泰しょうたい4年(901)の左遷詔書させんしょうしょは焼却されるも、延長えんちょう3年(925)6月19日に保明親王やすあきらしんのうの子で皇太子こうたいしとなっていた慶頼王よしよりおうが5歳で薨去こうきょします。

災禍さいかは留まることなく、延長えんちょう8年(930)6月26日には「清涼殿落雷事件せいりょうでんらくらいじけん」が起きます。醍醐天皇だいごてんのうがいる清涼殿せいりょうでんの南西の第一柱に雷が直撃。「昌泰しょうたいへん」に関わったとされる藤原清貫ふじわらのきよつらが落雷の直撃を受け、衣服に引火した上、胸を焼かれて即死。醍醐天皇だいごてんのうは難を逃れるも、多数の死傷者を出した惨状を目の当たりにして体調を崩し、同年9月22日に8歳の朱雀天皇すざくてんのう寛明親王ひろあきらしんのう)に譲位じょういし、同年9月29日に薨去こうきょされました。

天暦てんりゃく元年(947)6月9日、みやこにおいて北野社きたのしゃ造営ぞうえい。同年8月、道真公みちざねこうの孫にあたる菅原平忠すがわらのへいちゅうが、安楽寺あんらくじの初代別当べっとうとして大宰府だざいふに着任し、東法華堂ひがしほっけどう建立こんりゅう安楽寺あんらくじは、菅原氏すがわらし氏寺うじでら的性格を有するようになります。この別当べっとうの補任は、菅原氏すがわらし氏長者うじのちょうじゃによる氏牒うじちょうによるものとされました。

天暦てんりゃく9年(955)10月、2代別当べっとうとして菅原兼茂すがわらのかねしげの子の菅原鎮延すがわらのちんえんが、氏牒うじちょうにより任ぜられます。天徳てんとく3年(959)に改めて太政官符だいじょうかんぷにより任命され、菅原氏すがわらしの氏人が朝廷に推薦してから官符かんぷを得るといった手続きを踏むようになり、安楽寺あんらくじは単なる氏寺うじでらではなく、公的官寺的性格が付与されることになりました。

天徳てんとく2年(958)3月3日には、大宰大弐だざいのだいに小野好古おののよしふるにより曲水きょくすいうたげがはじめられ、応和2年(962)10月には残菊ざんぎくうたげがはじめられました。その費用は安楽寺あんらくじ寄進きしんされ、安楽寺あんらくじの早い寺領じりょうのひとつとなりました。

天元てんげん4年(981)菅原輔正すがわらのすけまさ大宰大弐だざいのだいにとして赴任し、大宰府政庁だざいふせいちょう安楽寺あんらくじとの関係は、より密接なものとなります。永観えいがん2年(984)道真公みちざねこう曽孫ひまごにあたる大宰大弐だざいのだいに菅原輔正すがわらのすけまさが、中門ちゅうもん廻廊かいろうなど御殿ごてんの大増築を行います。荘園しょうえん寄進きしんも相次ぎ、時の円融天皇えんゆうてんのう御願ごがんを得るなど、安楽寺あんらくじ天満宮てんまんぐうはその基礎を確立。寛和かんな2年(986)には「おにすべ神事しんじ」もはじめられました。

尚、永延えいえん元年(987)みやこでは一条天皇いちじょうてんのうから「北野天満宮天神きたのてんまんぐうてんじん」の勅号ちょくごうが贈られ、官幣かんぺいに預かることになります。これが、天満宮てんまんぐう総本社そうほんしゃとされる京都の北野天満宮きたのてんまんぐうの始まりで「天満宮てんまんぐう」の名の起こりとなります。また、その前年の寛和かんな2年(986)慶滋保胤よししげのやすたね北野社きたのしゃに捧げた願文がんもんに「天神てんじん文道ぶんどうおや詩境しきょうぬし」と認めたことから、その当時には道真公みちざねこうは学問の神でもあるとの認識が広まっていたと考えられています。

正暦しょうりゃく4年(993)6月、託宣たくせんにより道真公みちざねこう正一位左大臣しょういちいさだいじんを贈られ、贈官勅使ぞうかんちょくしとして菅原幹正すがわらのみきまさが遣わされます。同年閏10月、太政大臣だじょうだいじんが贈られ、勅使ちょくしとして菅原為理すがわらためまさ下向げこうし、天満天神てんまんてんじん神位しんいとしても最高になりました[06]承徳じょうとく元年(1098)には大江匡房おおえのまさふさ大宰権帥だざいのごんのそちに任ぜられ、翌年の秋に赴任します。康和こうわ3年(1101)8月21日、大江匡房おおえのまさふさにより安楽寺あんらくじ神幸祭じんこうさいが始められ、今の9月22日より行われる御神幸祭ごじんこうさいとなっています[07]

11世紀に入ると安楽寺あんらくじはその基礎を固め、大宰府だざいふの援護から離れて、独立した歩みを見せるようになります[08]。中でも博多庄はかたしょう(福岡市本庄町)や大浦寺庄おおうらじしょう(福岡市堅粕町)の寄進きしんを受け、日宋貿易に進出するのと共に急速に寺勢を伸ばしたと考えられています[09]。12世紀に入ると、宝満山ほうまんさん竈門神社かまどじんじゃ神宮寺じんぐうじである大山寺だいせんじ末寺まつじとしていた比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじが、執拗に攻勢を掛けてきます。永久えいきゅう5年(1117)延暦寺えんりゃくじは、安楽寺あんらくじ別当べっとうとして3人の僧を推挙。元永げんえい元年(1118)正月、菅原氏すがわらし氏長者うじのちょうじゃである菅原在良すがわらのありよしは、延暦寺えんりゃくじから推挙された3人の内の2人(菅原在殷・菅原厳実)は、僧兵を使って別当べっとう就任の働きかけを行ったとして義絶ぎぜつしたことが『吾妻鏡あづまかがみ』の文治ぶんじ2年(1186)6月15日のくだりにて記されています。その後も延暦寺えんりゃくじ安楽寺あんらくじ別当べっとうを競望します。永暦えいりゃく元年(1160)10月12日、延暦寺えんりゃくじ日吉神輿ひよしみこしほうじて入洛じゅりゃくして、安楽寺あんらくじ竈門宮かまどぐう及び大山寺だいせんじを焼亡せしめ、安楽寺あんらくじ末寺まつじにしようとする示威行動を起こします。しかし、朝廷は安楽寺あんらくじ末寺まつじとすることを認めず、安楽寺あんらくじへの攻勢は挫折しました[10]

鎌倉時代に入ると平氏へいじ政権との結合による打撃を受けますが、源頼朝みなもとのよりとも七条院しちじょういん等の寄進きしんを得て、寺領じりょう増加は続きました。南北朝時代においても足利氏あしかがし九州探題きゅうしゅうたんだいからの寄進きしんを受けるも、武士による荘園しょうえん侵略が続きいたと考えられています。天正てんしょう6年(1578)秋月種実あきづきたねざね筑紫広門つくしひろかどが誤って安楽寺あんらくじ天満宮てんまんぐうを焼失。たたりを恐れた秋月種実あきづきたねざねは、栗田天満宮くりだてんまんぐう生松宮おいまつぐうやしろを建て、寺家社家じけじしゃともに一時御神体ごしんたいほうじ、14年間鎮座ちんざしました。豊臣秀吉とよとみひでよしの九州平定後、筑前国主ちくぜんこくしゅとなった小早川隆景こばやかわたかかげ天正てんしょう19年(1591)に現在の地に再建され、200町の寄進きしんも行われました。文禄ぶんろく4年(1595)豊臣秀吉とよとみひでよしが500石の地を寄附。慶長けいちょう元年(1596)石田三成いしだみつなりにより楼門ろうもん再興さいこうされます。慶長けいちょう4年(1599)小早川秀秋こばやかわひであきが500石を寄附。慶長けいちょう5年(1600)黒田如水くろだじょすい黒田長政くろだながまさ筑前国ちくぜんのくにに封ぜられると、中門ちゅうもん廻廊かいろう安楽寺あんらくじ堂舎どうしゃ末寺まつじ造営ぞうえいし、社領しゃりょう2000石を寄進きしんしました[11]。江戸期に入ると文運復興と学問の普及により、天満信仰てんまんしんこうが庶民に広がります。ほとんどの寺子屋で道真公みちざねこうの掛軸をかけて崇拝すうはいし、学問・手習いの守護神しゅごしんとして崇敬すうけいされました[12]

明治元年(1868)4月、神仏混淆廃止しんぶつこんこうはいしにつき社僧しゃそう還俗かんぞく。明治4年(1871)6月、国幣小社こくへいしょうしゃ列格れっかく。明治15年(1882)7月7日、官幣小社かんぺいしょうしゃに昇格。明治28年(1895)1月4日に官幣中社かんぺいちゅうしゃに昇格。昭和22年(1947)2月7日、太宰府天満宮だざいふてんまんぐうと改称されました[13]


境内社けいだいしゃなど】

飛梅とびうめ

飛梅

本殿ほんでん前向かって右手、毎年境内けいだいの梅に先駆けて開花するのが飛梅とびうめです。色玉垣いろたあまがきという極早咲ごくはやざき八重やえの品種で、その開花を合図とするように境内けいだいの約200種類、6,000本の梅が咲きほこります。

道真公みちざねこうは、幼い頃よりこよなく梅を愛でていました。筑紫国つくしのくに配流はいるの時、みやこの邸内に植わっていた梅との別れを名残惜しみ、次の歌で語りかけました。

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ


春風が吹いたら、その匂いを大宰府まで送っておくれ、梅の花よ。私という主人がいないからといって、春を忘れてはならないぞ

道真公みちざねこう大宰府だざいふに着くと、道真公みちざねこうを慕って、一夜のうちにみやこから飛んできたと伝えられています。

また異説として、道真公みちざねこう左遷させんされた後、かねてから恩寵に預かっていた伊勢いせ社人しゃにん度会春彦太夫わたらいはるひこだゆう渡会春彦わたらいのはるひこ白太夫しらたゆう)が、道真公みちざねこうを慕って筑紫国つくしのくにに下る途中、道真公みちざねこうの邸宅に立ち寄り、道真公みちざねこうの正妻・島田宣来子しまだののぶきこ様からの音信と愛でていた紅梅こうばいを根分けして携え道真公みちざねこうを訪れます。道真公みちざねこうみやこから渡ってきたことから、一夜のうちにみやこから飛んできたことにして飛梅とびうめと名付けたとしています。当初は、道真公みちざねこうの在所であった榎社えのきしゃ榎寺えのきじ)の畔にあったものを、本殿ほんでん造営ぞうえいされた後、現在地に移植されたとされています。

明応めいおう7年(1498)少弐氏しょうにし大内氏おおうちしとの兵火へいかかかり、一時は枯死状態になる奇跡的に芽を出して復活します。 天正てんしょう6年(1578)秋月種実あきづきたねざねにより本殿ほんでんと共に焼亡するも、天正てんしょう16年(1588)5月26日に細川幽斎ほそかわゆうさいが訪れた際には焦げた根から芽を出していたと伝えられています[14] [15]

尚、本殿向かって左に咲く皇后梅きさいのうめは、大正13年(1924)に貞明皇后ていめいこうごうがお植えになった紅梅こうばいです。


【国指定文化財】

本殿

本殿ほんでん

嘉承かしょう元年(1106)菅原陳経すがわらのぶつねにより編纂へんさんされた『菅家御伝記かんけごでんき』、及び鎌倉時代中期に成立した『天満宮てんまんぐう安楽寺あんらくじ草創日記そうそうにっき』によれば、延喜えんぎ5年(905)8月19日、味酒安行うまさけやすゆきにより埋葬した地に祠廟しびょう建立こんりゅうされます。それが今日の天満宮てんまんぐうの始まりであり、御本殿ごほんでんの最初の姿であるとされています。延喜えんぎ19年(919)醍醐天皇だいごてんのう勅命ちょくめいを受け、藤原仲平ふじわらのなかひら奉行ぶぎょうにより最初の御社殿ごしゃでん造営ぞうえいされました。これが今の太宰府天満宮だざいふてんまんぐう本殿ほんでんです。

神殿しんでん道真公みちざねこうの遺骸を葬った真上に建てられたので、霊柩れいきゅうは長さ三間、横一間半、高さ四尺の石畳に囲まれて、上は粘土と石灰で漆喰しっくいに固めた中にしずまっているとされています。側には「天満自在菩薩てんまんじざいぼさつ」と刻んだ石柱せきちゅうが横たえているとされています。

数度に亘って兵火へいかで焼失した後、現在の御本殿ごほんでん天正てんしょう19年(1591)に筑前国主ちくぜんこくしゅ小早川隆景こばやかわたかかげにより造営ぞうえいされました。正面に6本の柱を用いた五間社流造ごけんしゃながれづくりで、堂々たる檜皮葺ひわだぶきの屋根、唐破風造からはふづくり向拝こうはい、細部にまで施された美しい装飾など、安土桃山あづちももやま時代の豪壮華麗な建築様式を現代にまで伝えています。

また多くの神社とは異なり、御本殿ごほんでんの前に幣殿へいでん拝殿はいでんを設けず、廻廊かいろうに囲まれた広い前庭まえにわに池を引き入れた形式は、平安貴族の邸宅を模したとも伝えられます。これは御本殿ごほんでんにおしずまりになる道真公みちざねこうを慕い、終のお住まいになぞらえたとも考えられています。

明治40年(1907)5月27日に国指定重要文化財の指定を受けました。

志賀社

志賀社しがしゃ

心字池しんじのいけを渡る2つ目の太鼓橋たいこばしの右横に鎮座ちんざ。海の神様である綿津見三柱神わだつみみはしらのかみをおまつりしています。海上守護や除災招福の神として信仰されています。長禄ちょうろく2年(1458)の造営ぞうえいで、一間社いっけんしゃ入母屋造いりもやづくり、正面千鳥破風付ちどりはふつき向拝こうはい一間、唐破風造からはふづくり檜皮葺ひわだぶき。周囲に跳勾欄はねこうらんを廻らし、蟇股かえるまたをはじめ彫刻物には彩色を施していた痕跡があります。和様わよう禅宗様ぜんしゅうよう大仏様だいぶつようの三つの建築様式をあわせ持つ県内最古の神社建築です。明治40年(1907)5月27日に国指定重要文化財の指定を受けました。

大樟

大樟おおくす夫婦楠めおとくす

天神てんじんの森と呼ばれる太宰府天満宮だざいふてんまんぐうのクスノキの社叢のうち、大樟おおくす(1本)と夫婦樟めおとくす(2本)の合計3本が大正11年(1922)3月8日に国指定天然記念物に指定されています。社殿しゃでん向かって左手の廻廊かいろうを出て誠心館せいしんかん前の大樟おおくすは、境内けいだい最大のクスノキで、高さ39m、幹周り20m、目通12m、樹齢は1000年から1500年と推定されています。本殿ほんでん後方、御子社みこしゃの並ぶ後方に聳える夫婦樟めおとくすは、高さ約17.1m、大きい方の幹回が10.6m、小さい方の幹回が4.4m。夫婦が寄り添って立つ姿に見えるのでこの名がついています。大きく根上がりし、樹齢は1000年から1500年と推定されています。

ひろはちしゃの木

「ひろはちしゃの木」

境内けいだい北西口の入口。日本最大、樹齢約700年の巨木です。樹高15.3m、幹周約6.5m、根元周囲約9.7m。昭和10年(1935)6月7日に国指定天然記念物に指定されています。大正3年(1914)落雷のため幹の上部は折れており、高さ約10m位まで樹幹は空洞になっています。チシャノキは、葉の味がチシャ(レタス)に似ていることが語源とされ、その葉の幅広いのがヒロハチシャノキです。


社殿しゃでん後方】

社殿後方摂社

福部社ふくべしゃ

本殿ほんでん後方向かって一番左に鎮座ちんざ道真公みちざねこうが師として慕った島田忠臣しまだのただおみをおまつりし、子供の神様、厄除け・災難消除の神様として信仰されています。

老松社おいまつしゃ

本殿ほんでん後方向かって左から2番目に鎮座ちんざ道真公みちざねこうと同じく秀でた学者、政治家でいらっしゃった道真公みちざねこうの父君の菅原是善公すがわらのこれよしこうと母君をおまつりしています。

御子社みこしゃ

本殿ほんでん後方の夫婦樟めおとくすの前に並ぶ四社。道真公みちざねこうのお子様たちをおまつりし、御子社みこしゃと呼ばれています。左から土佐国とさのくに配流はいるされた長男の高視命たかみのみこと越後国えちごのくに配流はいるされた次男の景行命かげゆきのみこと遠江国とおとうみのくに配流はいるされた三男の兼茂命かねしげのみこと播磨国はりまのくに配流はいるされた四男の淳茂命あつしげのみことまつっています。道真公みちざねこう左遷させんされるのに合わせて官職を有する子息はことごとく左遷させんされました。左遷させんされた子息も含め、感慨を詠まれた道真公みちざねこうの次の詩が残されています。

『菅家後草第十三』

 讀楽天北牕三友詩
尚書右丞舊提印 吏部良中新著緋
侍中含香忽下殿 秀才翫筆尚埀帷
自從敕使駈將去 父子一時五處離
口不能言眼中血 俯仰天神與地祇


尚書右丞旧と印を提ぐ
吏部良中新に緋を著く
侍中香を含んで忽ち殿を下る
秀才筆を翫んで尚ほ帷を垂る
勅使の駆け将て去りし自従り
父子一時に五処に離る
口に言ふ能はずして眼中には血あり
俯仰す、天神と地祇と
-(略)-
※右丞(高視)、良中(景行)、侍中(兼茂)、秀才(淳茂)

楼門ろうもんまでの参道さんどう

浮殿

浮殿うきどの

案内書のある四之鳥居よんのとりいを右手に進んだ奥に鎮座ちんざ御社殿ごしゃでんを囲む水面に、建物の姿が映ることから「浮殿うきどの」と名付けられました。創建は不詳なるも、室町期の境内図けいだいずに記されています。秋の神幸式大祭じんこうしきたいさいでは、道真公みちざねこう御神霊ごしんれいうつした御神輿おみこしがお休みする御旅所おたびしょとなっています。

厳島社いつくしましゃ

浮殿うきどのの向かって左手に鎮座ちんざ市杵島姫命いちきしまひめのみことまつっています。

大国神社おおくにじんじゃ

浮殿うきどのの向かって左手の参道さんどうを進んで奥直ぐに鎮座ちんざ大国主命おおくにぬしのみことまつっています。福の神様として仰がれています。創祀そうしは不詳ですが、道真公みちざねこう祖神おやがみ天穂日命あめのほひのみこと大国主命おおくにぬしのみことまつるよう神界しんかいの掟で命ぜられたとされています。中神家なかがみけ永光家ながみつけなどが御神体ごしんたいほうじ、家庭祭祀かていさいしがなされていましたが、神託しんたくにより当地に鎮座ちんざしました。家庭円満、災難消除、商売繁盛の守護があります。

今王社いまおうしゃ

1つ目の太鼓橋たいこばしを渡った右手に鎮座ちんざしています。忌服中きふくちゅう大宰府長官だざいふちょうかんや藩主の代参者などの官人かんにん参拝さんぱいする場合は、今王社いまおうしゃから本殿ほんでん遙拝ようはいしたとされています。元は境内けいだいに入る手前の石造大鳥居の右手に面してまつられていました。現在の鎮座地には、十一面観音じゅういちめんかんのんまつ中嶋観音堂なかじまかんのんどうがたっていました。文化2年(1805)に移築されたと考えられています[16]

志賀社

志賀社しがしゃ

心字池しんじのいけを渡る2つ目の太鼓橋たいこばしの右横に鎮座ちんざ。海の神様である綿津見三柱神わだつみみはしらのかみをおまつりしています。海上守護や除災招福の神として信仰されています。長禄ちょうろく2年(1458)の造営ぞうえいで、一間社いっけんしゃ入母屋造いりもやづくり、正面千鳥破風付ちどりはふつき向拝こうはい一間、唐破風造からはふづくり檜皮葺ひわだぶき。周囲に跳勾欄はねこうらんを廻らし、蟇股かえるまたをはじめ彫刻物には彩色を施していた痕跡があります。和様わよう禅宗様ぜんしゅうよう大仏様だいぶつようの三つの建築様式をあわせ持つ県内最古の神社建築です。明治40年(1907)5月27日に国指定重要文化財の指定を受けました。

楓社

楓社かえでしゃ

手水舎てみずや前の東神苑ひがししんえんへの交差を過ぎてすぐ左に鎮座ちんざ道真公みちざねこうの正妻、詩作の師であった島田忠臣公しまだのただおみこうの娘である宣来子命のぶきこのみことをおまつりする摂社せっしゃです。創建は不詳なるも、室町期の境内図けいだいずに記されています。夫婦円満、安産、子宝の神様として信仰されています。

人丸社ひとまるしゃ

楓社かえでしゃの向かって左に鎮座ちんざ柿本人麻呂かきのもとのひとまろまつっています。

水神社すいじんしゃ

手水舎てみずやの後ろに鎮座ちんざ

保食社うけもちしゃ

手水舎てみずや心字池しんじいけとの間にに鎮座ちんざ保食神うけもちのかみまつっています。

御神牛像

御神牛像ごしんぎゅうぞう

太宰府天満宮だざいふてんまんぐう境内けいだいには、12体のした姿の御神牛像ごしんぎゅうぞう奉納ほうのうされています。

道真公みちざねこうと牛には、様々な深いご縁があります。道真公みちざねこう承和じょうわ12年(845)の乙丑きのとうしにお生まれになりました。また大宰府だざいふの地でお亡くなりになられた道真公みちざねこうの御遺骸をいていた牛が、四堂しどうして動かなくなり、その場所に門弟もんてい味酒安行うまさけやすゆき御墓所ごぼしょを造営したことが、御本殿ごほんでんの創建につながりました。境内けいだい奉納ほうのうされている御神牛像ごしんぎゅうぞうのすべてが伏した牛、すなわち臥牛がぎゅうであるのは、これに由来しています。学業に秀でた道真公みちざねこう御神徳ごしんとくにより、御神牛像ごしんぎゅうぞうの頭をなでると知恵を授かるとされ、多くの方に親しまれています。

神門前しんもんまえまつられている御神牛像ごしんぎゅうぞうは、文化ぶんか2年(1805)遠賀郡芦屋町おんがぐんあしやまち釜師かまし釜師いものしであった釜師やまがぎへい鋳工ちゅうこうによるものです。高さ55.0cm、長さ135.0cmで、背面に陰刻銘いんこくめいで「宿坊延寿王院願主福岡連中博多連中世話人博多住西島半七祐寛画工博多住眠蝶斎耕景守章鋳工博多住山鹿儀平藤原包賢文化二乙丑年(1805)一一月吉祥日」と記されています。鋳肌いはだは大変なめらかに仕上げられていますが、人の目につきにくい首の下に、鋳掛いかけの跡や埋金のあとが認められます。昭和37年(1962)2月20日、県指定有形文化財に指定されました[17]

四の鳥居前、延寿王院えんじゅおういん前の御神牛像ごしんぎゅうぞうは、昭和60年(1985)、彫刻家冨永朝堂とみながちょうどうの手によるものです。昭和18年に東京から太宰府だざいふに疎開し、太宰府だざいふの文化と自然を愛した冨永朝堂とみながちょうどうは、地方から作品を送り出す芸術の大家となりました。太宰府天満宮だざいふてんまんぐうからこの御神牛像ごしんぎゅうぞう制作の依頼を受けたとき、冨永朝堂とみながちょうどうは87歳でした。背中のなだらかな曲線は霊峰れいほう宝満山ほうまんざんの山並みの力感や柔らかい稜線りょうせんを模したものです。作成された像は高さ20cm、長さ5cmとなり、丸みを帯びた胴体のどっしりとした肉感と、なんといえない優しい眼差しをしています。この原型は油粘土で作られており、これを型取りしてブロンズ像にしたものが御神牛像雛形ごしんぎゅうぞうひながたとなります。この御神牛像雛形ごしんぎゅうぞうひながた冨永朝堂とみながちょうどうの長男・敦夫氏から太宰府市だざいふしに寄贈されたもので、普段は市長室にあります。雛型を3倍に拡大して制作されたのが冒頭にも触れた延寿王院えんじゅおういん前の御神牛像ごしんぎゅうぞうです[18]

※太宰府観光協会:御神牛まっぷ

鷽像

鷽像うそぞう麒麟像きりんぞう

端正な造形でご参拝の皆様を見守る鷽像うそぞう麒麟像きりんぞうは、嘉永かえい5年(1852)、博多町人たちによる制作、遠賀郡芦屋町おんがぐんあしやまちの系統をひく山鹿氏やまがし鋳工ちゅうこうにより奉納ほうのうされました。

うそは、太宰府天満宮だざいふてんまんぐうで毎年1月7日の「鬼すべ神事」の前に行なわれる、木製のうそを取り替える「うそかえ神事」のうそを形どったものです。「うそかえ神事」は、前の年に知らず知らずのうちについたすべての嘘を、天神てんじんさまの誠の心に取り替えるという神事です。うそは、天神てんじんさまの守り鳥として大切にされています。その理由としては、①梅の花のつぼむ頃境内けいだいに現れる小鳥である。②うその字が学の字の子の替りに鳥の字がついている。③一年中の嘘を懺悔して嘘とうそを交換して清算する。そのような意味からされ、菅公すがこうの愛鳥とされてきたと考えられています。また、かつて御本殿ごほんでん造営中に蜂が境内けいだいに巣を作ってしまい作業が滞っていたところ、うその群れが訪れ、蜂を追い払ったという伝承も残されています。

麒麟きりんは、中国古代の想像上の動物で、聖人が現われて王道が行なわれる時に出現すると伝えられ、誠の心を貫かれた道真公みちざねこうの生き方と重ね合わせて制作されました。かつては2体存在しましたが、戦時中に金属供出を求められ、1体だけが奇跡的に免れ、その秀逸な姿を現代まで伝えています[19][20]

うそは台座とも高さ161.5cmで、高さ109.8cmの円筒形の銅製台座の上にとまり、その台座に以下の銘文めいぶんがあります。

『鷽像台座銘文』嘉永5年(1852)

奉献銅麒麟、施主連名、鳥羽屋七蔵(他二五四名)嘉永五年壬子三月吉日執次小野伊予氏興発起人奥村利助(他二名)世話人鳥羽屋七蔵(他二四名)鋳工山鹿平十郎包秋同苗儀平包信、同苗儀吉包春

廻廊かいろう東・手前】

廻廊東の摂末社

廻廊かいろうの東に摂末社せつまっしゃが並びます。手前の段の南から北へ順に、中島神社なかじまじんじゃ相輪摚そうりんとう靏寿尼社かくじゅにしゃ野見宿禰社のみのすくねしゃ尊意社そんいしゃです。

中島神社

中島神社なかじまじんじゃ

廻廊かいろうの東、向かって右手前に鎮座ちんざ。お菓子の神である田道間守命たじまもりのみことは、但馬国たじまのくに出石郡いずしぐん神美村かみよしむら三宅みやけを生誕地とし、その地に鎮座ちんざする中嶋神社なかしまじんじゃ御祭神ごさいじんとしてまつられています。垂仁天皇すいにんてんのう90年(61)天皇より命ぜられた田道間守命たじまもりのみことは、景行天皇けいこうてんのう元年(71)常世国とこよのくにから非時香菓ときじくのかくのこのみたちばな)を持ち帰ります。非時香菓ときじくのかくのこのみは「時を選ばず常に香しく輝きを放つ木の実」を意味するものされています。昭和29年(1954)7月に摂社せっしゃとして中嶋神社なかしまじんじゃ九州分社遷座祭きゅうしゅうぶんしゃせんざさい斎行さいこうされました。お菓子の神様である田道間守命たじまもりのみことをおまつりしており、九州菓子業の守り神として信仰を集めています。

尊意社そんいしゃ

廻廊かいろうの東、向かって左手前に鎮座ちんざ道真公みちざねこうの師であった延暦寺えんりゃくじ座主ざしゅ法性坊尊意ほうしょうぼうそんいまつっています。尚、能楽「雷電らいでん」は、道真公みちざねこうとむらっていた法性坊尊意ほうしょうぼうそんいのもとに道真公みちざねこうの霊が訪れるとの筋書きになっています。

靏寿尼社かくじゅにしゃ

尊意社そんいしゃの右手に2社並ぶ右に鎮座ちんざ道真公みちざねこうの伯母である靏寿尼命かくじゅにのみことまつっています。

野見宿禰社のみのすくねしゃ

尊意社そんいしゃの右手に2社並ぶ左に鎮座ちんざ日本書紀にほんしょきで相撲のと記されている野見宿禰命のみのすくねのみことをおまつりしています。菅原家すがわらけ祖神おやがみでもあります。

廻廊かいろう東・後方】

皇太神宮・天穂日命社・金刀比羅社

廻廊かいろうの東に摂末社せつまっしゃが並びます。奥の段の南から北へ順に、皇太神宮こうたいじんぐう天穂日命あめのほひのみこと社、金刀比羅社ことひらしゃの3社。

皇太神宮こうたいじんぐう

天照大神あまてらすおおかみまつっています。

天穂日命社あめのほひのみことしゃ

菅家すがけ祖神おやがみである天穂日命あめのほひのみことまつっています。

金刀比羅社ことひらしゃ

大物主神おおものぬしのかみまつっています。

上記3社の左に7社並びます。御霊社みたましゃ宰相和泉社さいしょういずみしゃ太夫社たゆうしゃ素佐雄社すさのおしゃ竈門社かまどしゃ高良社こうらしゃ櫛田社くしだしゃです。

奥から御霊社、宰相和泉社、太夫社

御霊社みたましゃ

菅家御祖先すがけごそせん御霊みたままつっています。

宰相和泉社さいしょういずみしゃ

道真公みちざねこう4世孫の菅原輔正命すがわらのすけまさのみこと道真公みちざねこう6世孫の菅原定義命すがわらのさだよしのみことまつっています。

太夫社たゆうしゃ

道真公みちざねこうに随従した度会春彦太夫命わたらいはるひこだゆうのみこと渡会春彦わたらいのはるひこ白太夫しらたゆう)をまつっています。

手前から素佐雄社、竈門社、高良社、櫛田社

素佐雄社すさのおしゃ

素盞雄命すさのおのみことまつっています。

竈門社かまどしゃ

玉依姫命たまよりひめのみことまつっています。

高良社こうらしゃ

武内宿禰命たけしうちのすくねのみことまつっています。

櫛田社くしだしゃ

大若子神おおわかこのかみまつっています。


【参考文献】


【出典】

  1. 『太宰府天満宮』学生社, P.71
  2. 『太宰府天満宮』学生社, P.69
  3. 『太宰府天満宮』学生社, P.70
  4. 『太宰府天満宮』講談社, P.169
  5. 『太宰府天満宮』学生社, P.114
  6. 『太宰府天満宮』学生社, P.74-78
  7. 『太宰府天満宮』学生社, P.83-86
  8. 『太宰府天満宮』学生社, P.87
  9. 『太宰府天満宮』学生社, P.103
  10. 『太宰府天満宮』学生社, P.97-98
  11. 『太宰府天満宮』学生社, P.109-113
  12. 『太宰府天満宮』学生社, P.130-132
  13. 『太宰府天満宮』講談社, P.177-180
  14. 『太宰府小史』葦書房, P.208-210
  15. 『太宰府天満宮』講談社, P.172-173
  16. 『福岡県の近世社寺建築』福岡県教育委員会, P.93
  17. 『福岡県の美術工芸品1(工芸・書跡・工芸技術)』福岡県教育庁管理部文化課編, P.68
  18. 『広報だざいふ 平成23年8月1日号』太宰府市総務部経営企画課
  19. 『福岡県の美術工芸品1(工芸・書跡・工芸技術)』福岡県教育庁管理部文化課編, P.69
  20. 『境内案内:御神牛のご案内』太宰府天満宮HP

Photo・写真

  • 三の鳥居
  • 四の鳥居
  • 四の鳥居
  • 太鼓橋
  • 心字池
  • 太鼓橋・心字池
  • 太鼓橋から五の鳥居
  • 今王社
  • 国指定文化財:志賀社
  • 五の鳥居と境内遠景
  • 五の鳥居
  • 楼門
  • 楼門
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  • 水神社
  • 人丸社
  • 神牛
  • 麒麟像
  • 鷽像
  • 保食社
  • 国指定文化財:本殿
  • 国指定文化財:本殿と飛梅
  • 国指定文化財:本殿と飛梅
  • 本殿と飛梅
  • 飛梅
  • 飛梅
  • 飛梅から本殿
  • 飛梅から本殿
  • 飛梅から本殿
  • 飛梅から本殿
  • 国指定文化財:本殿
  • 国指定文化財:本殿
  • 国指定文化財:本殿
  • 皇后梅から本殿
  • 皇后梅から本殿
  • 皇后梅から本殿
  • 本殿後方の摂社[福部社・老松社・御子社四社]
  • 福部社
  • 老松社
  • 御子社[長男の高視命]
  • 御子社[次男の景行命]
  • 御子社[三男の兼茂命]
  • 御子社[四男の淳茂命]
  • 国指定天然記念物:夫婦樟
  • 筆塚
  • 廻廊東の摂末社
  • 中島神社
  • 皇太神宮・天穂日命社・金刀比羅社
  • 皇太神宮
  • 天穂日命社
  • 金刀比羅社
  • 奥から御霊社、宰相和泉社、太夫社
  • 御霊社
  • 宰相和泉社
  • 太夫社
  • 手前から素佐雄社、竈門社、高良社、櫛田社
  • 素佐雄社
  • 竈門社
  • 高良社
  • 櫛田社
  • 靏寿尼社・野見宿禰社
  • 尊意社・靏寿尼社・野見宿禰社
  • 靏寿尼社[右]・野見宿禰社[左]
  • 尊意社
  • 国指定天然記念物:大樟
  • 国指定天然記念物:大樟
  • 国指定天然記念物:ひろはちしゃの木
  • 浮殿
  • 厳島社
  • 大国神社
  • 本殿後方と九州国立博物館側に梅園が広がります。
  • 本殿後方と九州国立博物館側に梅園が広がります。

情報

住所〒818-0117
太宰府市だざいふし宰府ざいふ丁目7−1
創始そうし延喜えんぎ19年(919)
社格しゃかく官幣中社かんぺいちゅうしゃ[旧社格]、別表神社 べっぴょうじんじゃ
例祭れいさい神幸式大祭じんこうしきたいさい:秋分の日の2日前〜9月25日
神事しんじ うそかえ・おにすべ神事しんじ(1月7日)
梅花祭ばいかさい(2月25日 ※道真公みちざねこうの命日)
曲水きょくすいえん(3月第1日曜日)
御誕生祭(7月25日 ※道真公みちざねこうの生誕日)
HP 公式HP / Wikipedia

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