【社殿後方】
「福部社」
本殿後方向かって一番左に鎮座。道真公が師として慕った島田忠臣をお祀りし、子供の神様、厄除け・災難消除の神様として信仰されています。
「老松社」
本殿後方向かって左から2番目に鎮座。道真公と同じく秀でた学者、政治家でいらっしゃった道真公の父君の菅原是善公と母君をお祀りしています。
「御子社」
本殿後方の夫婦樟の前に並ぶ四社。道真公のお子様たちをお祀りし、御子社と呼ばれています。左から土佐国に配流された長男の高視命、越後国に配流された次男の景行命、遠江国に配流された三男の兼茂命、播磨国に配流された四男の淳茂命を祀っています。道真公が左遷されるのに合わせて官職を有する子息は悉く左遷されました。左遷された子息も含め、感慨を詠まれた道真公の次の詩が残されています。
『菅家後草第十三』
讀楽天北牕三友詩
尚書右丞舊提印 吏部良中新著緋
侍中含香忽下殿 秀才翫筆尚埀帷
自從敕使駈將去 父子一時五處離
口不能言眼中血 俯仰天神與地祇
尚書右丞旧と印を提ぐ
吏部良中新に緋を著く
侍中香を含んで忽ち殿を下る
秀才筆を翫んで尚ほ帷を垂る
勅使の駆け将て去りし自従り
父子一時に五処に離る
口に言ふ能はずして眼中には血あり
俯仰す、天神と地祇と
-(略)-
※右丞(高視)、良中(景行)、侍中(兼茂)、秀才(淳茂)
【楼門までの参道】
「浮殿」
案内書のある四之鳥居を右手に進んだ奥に鎮座。御社殿を囲む水面に、建物の姿が映ることから「浮殿」と名付けられました。創建は不詳なるも、室町期の境内図に記されています。秋の神幸式大祭では、道真公の御神霊を遷した御神輿がお休みする御旅所となっています。
「厳島社」
浮殿の向かって左手に鎮座。市杵島姫命を祀っています。
「大国神社」
浮殿の向かって左手の参道を進んで奥直ぐに鎮座。大国主命を祀っています。福の神様として仰がれています。創祀は不詳ですが、道真公の祖神の天穂日命に大国主命を祀るよう神界の掟で命ぜられたとされています。中神家、永光家などが御神体を奉じ、家庭祭祀がなされていましたが、神託により当地に鎮座しました。家庭円満、災難消除、商売繁盛の守護があります。
「今王社」
1つ目の太鼓橋を渡った右手に鎮座しています。忌服中の大宰府長官や藩主の代参者などの官人が参拝する場合は、今王社から本殿を遙拝したとされています。元は境内に入る手前の石造大鳥居の右手に面して祀られていました。現在の鎮座地には、十一面観音を祀る中嶋観音堂がたっていました。文化2年(1805)に移築されたと考えられています[16]。
「志賀社」
心字池を渡る2つ目の太鼓橋の右横に鎮座。海の神様である綿津見三柱神をお祀りしています。海上守護や除災招福の神として信仰されています。長禄2年(1458)の造営で、一間社入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、唐破風造、檜皮葺。周囲に跳勾欄を廻らし、蟇股をはじめ彫刻物には彩色を施していた痕跡があります。和様・禅宗様・大仏様の三つの建築様式を併せ持つ県内最古の神社建築です。明治40年(1907)5月27日に国指定重要文化財の指定を受けました。
「楓社」
手水舎前の東神苑への交差を過ぎてすぐ左に鎮座。道真公の正妻、詩作の師であった島田忠臣公の娘である宣来子命をお祀りする摂社です。創建は不詳なるも、室町期の境内図に記されています。夫婦円満、安産、子宝の神様として信仰されています。
「人丸社」
楓社の向かって左に鎮座。柿本人麻呂を祀っています。
「水神社」
手水舎の後ろに鎮座。
「保食社」
手水舎と心字池との間にに鎮座。保食神を祀っています。
「御神牛像」
太宰府天満宮の境内には、12体の臥した姿の御神牛像が奉納されています。
道真公と牛には、様々な深いご縁があります。道真公は承和12年(845)の乙丑にお生まれになりました。また大宰府の地でお亡くなりになられた道真公の御遺骸を牽いていた牛が、四堂で臥して動かなくなり、その場所に門弟の味酒安行が御墓所を造営したことが、御本殿の創建につながりました。境内に奉納されている御神牛像のすべてが伏した牛、すなわち臥牛であるのは、これに由来しています。学業に秀でた道真公の御神徳により、御神牛像の頭をなでると知恵を授かるとされ、多くの方に親しまれています。
神門前に祀られている御神牛像は、文化2年(1805)遠賀郡芦屋町の釜師・釜師であった釜師の鋳工によるものです。高さ55.0cm、長さ135.0cmで、背面に陰刻銘で「宿坊延寿王院願主福岡連中博多連中世話人博多住西島半七祐寛画工博多住眠蝶斎耕景守章鋳工博多住山鹿儀平藤原包賢文化二乙丑年(1805)一一月吉祥日」と記されています。鋳肌は大変なめらかに仕上げられていますが、人の目につきにくい首の下に、鋳掛けの跡や埋金のあとが認められます。昭和37年(1962)2月20日、県指定有形文化財に指定されました[17]。
四の鳥居前、延寿王院前の御神牛像は、昭和60年(1985)、彫刻家冨永朝堂の手によるものです。昭和18年に東京から太宰府に疎開し、太宰府の文化と自然を愛した冨永朝堂は、地方から作品を送り出す芸術の大家となりました。太宰府天満宮からこの御神牛像制作の依頼を受けたとき、冨永朝堂は87歳でした。背中のなだらかな曲線は霊峰宝満山の山並みの力感や柔らかい稜線を模したものです。作成された像は高さ20cm、長さ5cmとなり、丸みを帯びた胴体のどっしりとした肉感と、なんといえない優しい眼差しをしています。この原型は油粘土で作られており、これを型取りしてブロンズ像にしたものが御神牛像雛形となります。この御神牛像雛形は冨永朝堂の長男・敦夫氏から太宰府市に寄贈されたもので、普段は市長室にあります。雛型を3倍に拡大して制作されたのが冒頭にも触れた延寿王院前の御神牛像です[18]。
※太宰府観光協会:御神牛まっぷ
「鷽像・麒麟像」
端正な造形でご参拝の皆様を見守る鷽像と麒麟像は、嘉永5年(1852)、博多町人たちによる制作、遠賀郡芦屋町の系統をひく山鹿氏の鋳工により奉納されました。
鷽は、太宰府天満宮で毎年1月7日の「鬼すべ神事」の前に行なわれる、木製の鷽を取り替える「鷽かえ神事」の鷽を形どったものです。「鷽かえ神事」は、前の年に知らず知らずのうちについたすべての嘘を、天神さまの誠の心に取り替えるという神事です。鷽は、天神さまの守り鳥として大切にされています。その理由としては、①梅の花の蕾む頃境内に現れる小鳥である。②鷽の字が学の字の子の替りに鳥の字がついている。③一年中の嘘を懺悔して嘘と鷽を交換して清算する。そのような意味からされ、菅公の愛鳥とされてきたと考えられています。また、かつて御本殿造営中に蜂が境内に巣を作ってしまい作業が滞っていたところ、鷽の群れが訪れ、蜂を追い払ったという伝承も残されています。
麒麟は、中国古代の想像上の動物で、聖人が現われて王道が行なわれる時に出現すると伝えられ、誠の心を貫かれた道真公の生き方と重ね合わせて制作されました。かつては2体存在しましたが、戦時中に金属供出を求められ、1体だけが奇跡的に免れ、その秀逸な姿を現代まで伝えています[19][20]。
鷽は台座とも高さ161.5cmで、高さ109.8cmの円筒形の銅製台座の上にとまり、その台座に以下の銘文があります。
『鷽像台座銘文』嘉永5年(1852)
奉献銅麒麟、施主連名、鳥羽屋七蔵(他二五四名)嘉永五年壬子三月吉日執次小野伊予氏興発起人奥村利助(他二名)世話人鳥羽屋七蔵(他二四名)鋳工山鹿平十郎包秋同苗儀平包信、同苗儀吉包春
【廻廊東・手前】
廻廊の東に摂末社が並びます。手前の段の南から北へ順に、中島神社、相輪摚、靏寿尼社、野見宿禰社、尊意社です。
「中島神社」
廻廊の東、向かって右手前に鎮座。お菓子の神である田道間守命は、但馬国出石郡神美村三宅を生誕地とし、その地に鎮座する中嶋神社の御祭神として祀られています。垂仁天皇90年(61)天皇より命ぜられた田道間守命は、景行天皇元年(71)常世国から非時香菓(橘)を持ち帰ります。非時香菓は「時を選ばず常に香しく輝きを放つ木の実」を意味するものされています。昭和29年(1954)7月に摂社として中嶋神社の九州分社遷座祭が斎行されました。お菓子の神様である田道間守命をお祀りしており、九州菓子業の守り神として信仰を集めています。
「尊意社」
廻廊の東、向かって左手前に鎮座。道真公の師であった延暦寺座主の法性坊尊意を祀っています。尚、能楽「雷電」は、道真公を弔っていた法性坊尊意のもとに道真公の霊が訪れるとの筋書きになっています。
「靏寿尼社」
尊意社の右手に2社並ぶ右に鎮座。道真公の伯母である靏寿尼命を祀っています。
「野見宿禰社」
尊意社の右手に2社並ぶ左に鎮座。日本書紀で相撲の祖と記されている野見宿禰命をお祀りしています。菅原家の祖神でもあります。
【廻廊東・後方】
廻廊の東に摂末社が並びます。奥の段の南から北へ順に、皇太神宮、天穂日命社、金刀比羅社の3社。
「皇太神宮」
天照大神を祀っています。
「天穂日命社」
菅家の祖神である天穂日命を祀っています。
「金刀比羅社」
大物主神を祀っています。
上記3社の左に7社並びます。御霊社、宰相和泉社、太夫社、素佐雄社、竈門社、高良社、櫛田社です。
「御霊社」
菅家御祖先の御霊を祀っています。
「宰相和泉社」
道真公4世孫の菅原輔正命と道真公6世孫の菅原定義命を祀っています。
「太夫社」
道真公に随従した度会春彦太夫命(渡会春彦・白太夫)を祀っています。
「素佐雄社」
素盞雄命を祀っています。
「竈門社」
玉依姫命を祀っています。
「高良社」
武内宿禰命を祀っています。
「櫛田社」
大若子神を祀っています。